第17話「傷跡と指先」
当たり前じゃないことなんて、きっといくつもある。
親しい友達が、突然自分を裏切ること。
先生や正しいと思っていた大人が、実はずっと間違った、独りよがりなことを口走っていたこと。
そして、
家族だから。私の、母と父だから。
私のことを愛してくれるなんて、決して当たり前じゃなかったのだ。
「……」
目を覚ます。
重い目覚め。お腹で渦巻く不快感。
首筋に手を当てる。ジワリと、汗をかいていた。
「……はぁ」
軋むように鈍く起き上がる体と、重たい頭にため息をついた。
そして、隣のリビングから灯りが漏れていることに気づく。少しだけテレビの音も。ちなみに今私が寝ているのは和室。ちょっとだけ襖を開ける。
どうやら同居人が帰ってきていたらしい。勤務時間が夕方から深夜にかけてなので、帰宅するのがいつも深夜二時ぐらいだ。
今まで暗闇にいたせいか、リビングの光がやけに眩しい。襖を完全に開けると、同居人の彼女が私に気がついた。
「あっ、起こしちゃったかな?」
「ううん。大丈夫」
彼女__陽は長い足を組んでご飯を食べていた。
まるでモデルさんみたいに、背が高くてスラっとしている。目元は涼しげで、クールそうに見えてよく笑う。
今も、陽は私を見てニコニコ笑っている。陽は陽キャラの陽なのだろうか。反対に、私は寝起きで酷い顔をしてるかもしれない。
だけど、陽は立ち上がった後、私の頬をそっと触った。
「千鶴」
名前を呼ばれ、私を動けない。
陽はそのまま私を抱きしめた。あっちが背が高いせいで、私の顔は首元に埋まる。
「どう……したの?」
「ん?」
抱きしめられた訳を聞く。でも、陽は私の髪を撫でるだけだ。
「なんか、こうして欲しそうだったから」
「そうかな」
「うん。いや、実際は私がハグしたかっただけだから」
お互い離れて、陽は再び笑った。相変わらず、優しい。決して理由を相手に押し付けないところとか。
「ご飯、美味しかった。いつもありがとう」
「いや……大丈夫。いつも帰ってくるの、私の方が早いし。……そだ、お風呂も入ったら? 追いだきならすぐするから」
「いや、もうしてあるよ。今から入るところ」
先回りするように、陽はそう言って食器を片付ける。
そしてふとピタリと止まり、思いついたことを言ったのだ。
「そだ。せっかくだから、一緒に入ろうよ」
「……へ?」
三時間前にお風呂に入ったのに、もう一回もあったかいお風呂に入るのは贅沢だ。
それ以上に私の心を浮かすのは、一緒にバスタブに入っている陽の体温だ。
(……いいのかな。こういうの)
悪いことはしてないのに、そんなことを考える。
浴槽はそこまで広くないから、二人で入るのが精一杯。それに陽がデカいのもある。だから先に陽が寝そべり、その上に私がちょこんと座る。
「ふーっ」
耳元で、陽のリラックスした声が響く。お風呂場の中だからか、呼吸の音すら反響してるみたい。全身を溶かすようなお湯と、陽の熱に、何も考えられなくなりそうになる。
「千鶴」
陽の腕が、私の体を引き寄せる。
密着したお互いの体。私は抵抗しなかった。その両手に、自分の手を重ねる。
「背中、見ていい?」
ふと、そんなことを聞いてきた。
私は心地よさに目を瞑り、黙ってそれに頷いた。
「じゃあ、失礼して……」
陽は私の手を握り、その手に導かれるみたいに私は反対を向いた。
向き合って、抱き合いながら再び浴槽につかる。陽は私を抱きしめ、ゆっくりとその指先で体に触れる。
それだけで、陽の好意が伝わってくる。
「はぁ……」
私は何も言わず、陽の首筋で息を吐く。陽は満足そうな声音で、
「やっぱり千鶴と一緒に入るお風呂は最高だよ」
「それは……どうも」
「千鶴は、嫌じゃない?」
確かめるように、聞いてくる。
それはきっと、一緒に裸になること。私の背中にある傷跡を見ることを許してくれるか、どうかということ。
(それは……)
昔の、ただの昔の話。
私は一つ勘違いしてたことがある。自分は普通の家庭に生まれて、普通の愛を受けているのだということに。
今なら分かる。普通の家庭で、あんなことは起こらない。
酒で狂乱した父親が、小さなナイフを振り回し、
自分で気づかないうちに、子供の背中を切っていた。それを、母親が気づくまで三日間必要だったこと。
あれから、色々あったけど、思い出すたびに辛いことがある。
多分、一番は……自分が当たり前だと思っていることが、突然当たり前のような顔で牙をむいてくること。自分があり得ないと思っていた一線を、他人は平然と超えてくること。
こんなこと、考え出せばきりがないのは分かってるけど。
私は人生の中で、なるだけ人を避けるようにしていた。だけど、
(……陽は)
一人だけ、違った反応を示す人がいた。
その人は、私の傷を偶然見て、そのまま指先で触れて、
『立派じゃない。恥ずかしがることも、誤魔かすことも一つもないよ』
ただ、そう言った。
今思えば、陽は相当な人たらしなのを置いておいても……その一言で、私の中で何かが変わったのだ。
「ねぇ、陽」
「―ん?」
口を開くと、眠たそうな陽の声が聞こえた。疲れているのだろうか。その割に、私の体を触る手は何だか怪しいけど。
けど、その声に……心底安心する自分もいるのだ。
「ううん。何でもない」
当たり前なことは一つもない。
だけど、それを平然と跳ねのけられる人もいるのだと、私はあの時知ったのだ。
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