【百合短編集】彼女らは極北にて恋をする
鳴
第1話「最果てを目指し、幕が上がる」
自分の声が、温度を失っていく。
すり減るような感情。平坦な声音。それが自分の口から発せられてる。実感するたびに思考が凍りついていく。
だけども、思わずにはいられないのだ。
私の言葉に、意志には何の意味を持たない。たとえどれだけ声を張り上げても、誰の心を動かすことはない、と。
たとえ、間違っていたとしても。本当にそうなのだろうか。
あの時、「やめて」と言ったら、友達は許してくれただろうか。
あの時、「ごめんなさい」と言ったら、父は怒りの眼差しを解いただろうか。
あの時。
「行かないで」と言ったら、母が家を出ることはなかったのだろうか。
「それでも」
硬い床。張り詰めた空気。静寂の中で、自分の声だけが響く。
「願わずにはいられないのです。天国にいる貴方の、その幸せを」
頭上には、眩い照明。その熱で体は薄っすら熱を帯びる。だけども、頭は驚くほど冷え切っていた。
舞台の上で、私は一人の人間を演じている。
文章のみ書かれた、仮想の人物。それを模倣し、言葉を自分のもののように語る。 まるで、その人の人生を盗んでいるようだ。
だけども、そんな罪悪感と裏腹に、私はその盗みの才能があったらしい。
「……」
舞台と観客席。照明で区切られた明と暗。暗闇から、皆が私を見ていた。
実感はない。だけども、みんなが私の演技を素晴らしいものだと言ってくれる。まるで、本物のよう……あるいはそれ以上だと。
だけど私は、本物ではない。むしろ、自分の言葉がないから、他人の言葉をすらすら言えてしまうのだろうと、自嘲するような考えも浮かんだことがある。
同時に、舞台の上に立って実感することもある。
自分の胸の高鳴りを、忘れようとしていた何かを。ここで思い出しかけるのだ。
舞台を終え、私は一人だけ部室に戻っていた。
演劇部の部室は、最低限のものしか置かれていない。小道具等は別の場所に保管されている。長机とパイプ椅子だけが置かれた部屋で、私は台本をめくった。
さっき演じた台本……ではない。次の舞台でやる、まったく新しい台本だった。
(今度は恋愛ものか……)
ページをめくり、ト書きと台詞だけの文面を読み解く。簡素な文体、だけど自然と頭の中でストーリーが広がっていく。
主人公は事故で記憶を失った少女。事故の傷が癒え、日常に戻った彼女を待っていたのは、自分自身と周りとのギャップだった。
彼女は前とは違う人間と言っていいほど、言動も性格も変わっていた。
しかし、友人や家族の中で、彼女のイメージはそう簡単に変わらない。彼らは表面上は主人公を受けいれる。しかし、彼女は日々の会話から、周りが今の自分に違和感を抱いていることに気づき始める。
彼女は苦しんだ。記憶は結局戻らず、次第にふさぎ込むようになった。
そんな彼女に寄り添ったのは、事故の治療をした担当医だった。その男性との交流の中で、彼女は次第に今の自分を受けいれられるようになり__
「……ふう」
一気に読み切ってしまい、私は一息ついた。
時間を忘れて読みふけってしまった。今回の脚本は、素晴らしい出来だと思う。 演劇部の脚本はある程度、昔のやつを使いまわしていたけど、今年の部長に変わってから、どんどん新しい劇を増やしていったのだ。
脚本は大体、部長本人が書いたものか、過去のものか……あるいは原作を部員達がアレンジしたもののどれかだ。
だけど、今回のホンは違った。おそらく、今日やった劇の脚本も。台本には名前が無いが、どうやら部長が外部に依頼していたものらしい。
はたして、これを書いたのはどんな人なのだろう。少なくとも私には、こんな優れた話は思いつかない。雲の上の人に思えた。
と……その時。控えめに扉を叩く音が響いた。
「すみませーん。円居先輩はいますかー?」
恐る恐る……だけど元気のいい声で、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
本を置き、扉を開ける。そこには、自分よりも背の低い女の子が。
「……貴方は」
「あっ……っと、先輩! 部室におられたんですね」
先に帰っちゃったのかと思いましたーと、どこかホッとしたような彼女。どうやら私のことを探していたらしい。確か名前は……
「千道さんも、もう帰る時間じゃないの?」
「いえいえ、さっきのお芝居のこと、倉持先輩に伝えたくて!」
千道さん。一つ下の後輩だ。演劇部ではないけど、前に生徒会の仕事を一緒に手伝った時に知り合った子だ。
千道さんは舞台の後、必ず感想を言ってくれる。私には勿体ないし、遠慮なく批判もして欲しいと言うのだけど……彼女は必ず褒めてくれた。
「先輩、今回も凄かったです! 言葉に出来ないっていうか……見ていて語彙力を失うというか!」
「ありがとう。……ところで、それは褒め言葉として受け取っていいのかしら……?」
私は苦笑いしながらも、千道さんの言葉を受け取ることにした。
彼女は無邪気だ。何の衒いもなく、自分の感情を表現できる。そして決して無遠慮というわけじゃない。どこまでも普通に、当たり前のようにそう出来るのだ。
__演じるばかりで、自分のことを話せない私とは、大違いだ。
「少し聞いてもいい? 千道さん」
「……?」
だから、私は彼女に聞いていた。
賞賛を与えてくれる千道さんに。私は、こんなことを。
「あなたは……私の演技を見て、本物だと思うかしら」
「え……」
その質問に、彼女の言葉が止まった。
千道さんは何度か口を開き、また閉じるのを繰り返した。私はその様子を見つめ、やがて我に返って、
「ごめんなさい。……余計なことを聞いたわね」
「えっ、えっ……それは、その」
「大丈夫。もう下校時間過ぎているし、またゆっくり話を聞かせてね」
そう語る私の口調は、少し早すぎただろうか。
私は会話を打ち切り、そのまま千道さんと別れたのだった。
息を吐き、私は虚空を見つめる。
一人ぼっちの舞台の上。上を見上げると、照明が眩しくて視界が白飛びしそうだ。 右手に台本を持ち、私は熱を吐き出すように台本の台詞を口にする。
集中する。言葉に、それを紡ぐ人物に。 時に同じ台詞を何度も口に出して、違和感があれば修正していく。
別段難しいことではない。だけど、慎重な作業だ。私の中にある役。その仮想の人物を何度も何度もイメージの上で擦り合わせていく。
怒りを、焦りを覚えることもある。
だけど__私はここにいることを許されている。私が役を演じる限り、私の世界はここにある。それを誰にも否定されることはない。
今までのように、私の言葉を否定されることは__
「先輩」
変に沈みかけた意識を、その声が呼び覚ました。 視線を向ける。舞台の下から、千道さんがこちらを覗いていた。
「千道さん……? どうしてここに」
「先輩が一人で練習してるって。部員の方から教えてもらったんです」
「……そう」
集中した熱が冷め、自分の声は驚くほど冷たい。
仕切りなおすように、深呼吸をする。そして少し迷った後、私は彼女に言った。
「せっかくなら、舞台にあがらない?」
「……へ? わ、私がですか?」
「うん。相手がいると、お芝居しやすいから」
その言葉に、千道さんはうんうん唸った後、自分の中で納得がいったのか、恐る恐る舞台に上がってきた。 私の前に、千道さんがいる。
それは相手も同様だろう。互いに向き合い、それぞれの世界を独占する。
「この主人公は、常に苦悩している」
台本を開き、私は文面をなぞりながら、仮想の『彼女』を想像する。
「過去の自分と、今の自分。それはどちらも同じ自分で……それでも、今の彼女は彼女でしかない。でも、周りは簡単には受けいれてくれない。
いっそ諦めてしまえばいい。今の自分の殺して、過去の自分をなぞり続ける……でも、彼女はそうしなかった」
千道さんになら、言っていいのかもしれない、なんて。台本の中身を口にする。 私は悩んでいた。この役の演じ方を。数あるイメージプランの中で、どれが最適解かを、脚本を読んでからずっと試行錯誤していた。
「彼女には理解者がいたの。手術を担当したお医者さんがね。
彼だけが主人公を受け入れてくれた。今を生きる彼女を、肯定してくれた。だから主人公は死を選ばなかった……いいえ、言い方を変えるなら」
「生きることを、諦めなかった」
その言葉に、私は思わず驚いた。 私の言葉を先回りし、千道さんが言ったのだ。いつもの笑顔には似つかわしくない、寂しそうな顔。私は視線を奪われる。
「どうして」
ただ単純に、聞いていた。 千道さんがまた笑う。それは、いつもの彼女の笑顔。
「だってそれ、書いたの私ですもん」
それを聞くと、ついに私の口は止まった。 結びつかなかった。この話を書いた人間と、彼女の人物像が。
「ごめんなさい、なんか驚かせちゃいましたね」
千道さんが困ったように、もう一度笑った。私は慌てて首を振る。
「いいえ。まぁ……正直、驚いたのはある、かも」
その先が続かなかった。何だか会話を続けると、失礼なことまで言いそうだ。
この脚本を書いたのは、雲の上の人間だと思った。
だけどその実、書いたのは目の前の後輩。驚きは、多少なりともあった。
「前に、文芸コンクールがあったんです。私は元々小説を書いてたんですけど、コンクールで賞を取った時、演劇部の部長さんがスカウトしてくれたんです。
正直、小説と舞台の脚本なんて、全然違うんですけど……教えてもらいながら書いて、やっと形になりました」
そう語るのは、私が知っている千道さん。
だけども、脚本に息づく感情の波は、彼女が生み出したものには思えない。そんな私の戸惑いをよそに、千道さんはこう言ったのだ。
「先輩なら、完璧に演じられると思います」
「……」
それだけは__そう言った彼女だけは。 重なったのだ。この物語を書いた人間と、千道さんの姿が、ちゃんと。
「完璧なんて……私には無理よ」
そんな彼女に、私はそう呟いていた。 色んな理由を置き去りにして、私は告げる。逆に聞きたかったのは、千道さんのことだ。
「あなたは……どうして、この物語を書こうと思ったの?」
本を閉じ、私は視線だけを彼女に向ける。
彼女もまた、私だけを見ている。驚いたようにその視線をずらそうとするけど、彼女は再びしっかりと私の目を見てくれた。
「そうですね……多分、お兄ちゃんの影響かも」
「お兄さん?」
「一年前に死んだ、兄のことです」
私は再び答えに迷った。同時に話を引き出してしまった後悔もあった。
何も言えず、言葉を待った。彼女は、私に微笑んでからゆっくりと語り始める。
「気にしないでください。……兄は、一年前に事故で亡くなりました。それから私はずっと考えていたんです。
何故、兄が死んだのか。優しい、大切な人が。……思えば、私は兄の死を受け入れられなかったんだと思います。だから考え続けて、さらに迷いが生まれました」
いつもの明るさに、微かに影が射した気がする。
そんな感情も、舞台の照明は無遠慮に照らす。何だかそれが残酷に思えた。それでも千道さんは、言葉を止めない。
「でも、答えは出ませんでした。そうして、思ってしまったのです。もしかしたら意味なんて最初から存在しないのかもしれない……なんて」
千道さんは、私が持っている本に視線を投げ、ややあって言った。
「でも、それも寂しいじゃないですか。兄の死だけじゃない。この世界で起こった全てが。
意味がない。__たとえそうだったとしても、私は意味を求め続けたい。現実を線引きして、意味を見出すことが、残った人の役割だと信じているんです」
そう呟く千道さんは、まるで舞台の上の__物語の登場人物のようだ。
でも、その言葉は空想のト書きではない。彼女自身の、血の通った言葉。千道さんは本気でそう思っている。その想い、熱量こそが……物語を生み出す原動力なんだと、私は実感させられた。
「そのために……貴方は物語を書き続けるの?」
「はい。……意味すら薄れた現実を、書いて、結んで……意味を探し続けることが、私は書き続ける理由です」
その笑みは切なく、同時に彼女らしい屈託のないもので。
私は納得した。千道さんが、この話の作者であることに。
「今度は、私の話を聞いてくれる?」
「……?」
一歩踏み出す。それでも舞台上のお互いの距離は、酷く離れているように思えた。
「私は……今まで自分の言葉に、他人を動かすものなんて一切ないと思ってた」
思い出す。これまでの……正直、向き合いたくない記憶を。
「友人も、父親も。私の言葉に耳を貸さなかった。
私がどれだけ必死になっても、気持ちは伝わらなかった。いつも言われていたの。何を考えているのは分からないって」
私は、口下手で、人と話すことが苦手だった。
友達の輪に入れず、関係には常に隔たりがあった。協力することなんてなく、いつの間にか相手の声に怒気も混じるのが常だ。
父親もそうだった。私は上手く喋ることができずに、次第に距離を取るようになった。そうした経験から、私は人と関わることがトラウマのようになってきた。
だから逃げた。現実から、目を背けたのだ。
「演劇の世界を志したのは、邪な理由だったわ」
声は素に戻り、声量は千道さんに届いているのかすら分からない。
「創作に耽け続ければ、現実を忘れられる。幸い、演技だけは皆が認めてくれた。
舞台の上には全て用意されているわ。世界、人物、その背景。そして台詞……仮想の人物を演じて……その間、逆に現実の自分を見る人なんて誰もいない」
ここまで、気持ちを吐露してしまったのは何故だろう。真っ直ぐな彼女に言い訳でもしているのだろうか。
「この舞台は、私は許してくれる」
友人も、父親も。誰も責めることはない。
照らされた舞台と、観客席。現実の暗闇は、手を伸ばすことはなかった。
「千道さん。私はただの臆病で卑怯な人間よ。貴方が期待しているのなら、それは見込み違いだわ」
そこまで言い切ってから、自分でも理解する。やっぱり、これは言い訳に過ぎない。彼女の心に当てられて、また私は逃げようとしている。
「努力することは約束する。でも、貴方が望むような演技は__」
「それは、今の貴方には関係のないことです」
瞬間、場の空気が変わった気がした。
唐突に差し込まれた台詞。言い放ったのは千道さん。
彼女は真剣な面持ちで私を臨む。
そこで……気づく。先ほど言ったのは、私が手にしている脚本の台詞。
「記憶を失った貴方は、昔の貴方に戻ることはない。
たとえ誰が何と言おうと、私の目の前にいるのは、今の貴方なのです」
今、その言葉に何の意味が込められているか、分からない。
だけど、台詞が放たれた以上、私も返さなければならない。半ば無意識的に、続く台詞を口にする。
「だとしても、私は自分の空白に耐えられません」
「私がいます。貴方の心の空白に、私が火をくべましょう」
「周りが認めてくれるわけがありません。私は、私からは決して逃げられない」
お互いの台詞に共鳴するように、私達の声は徐々に大きくなっていく。
千道さんとの、二人だけの舞台。その空気が、徐々に熱を帯びていく。
「それでも、示すのです。貴方の在り方を。たとえ、否定されたとしても……」
千道さんは__いや、舞台の上の、その人は告げる。
「私だけが、必ず貴方を認めます」
そこで、台詞が区切られた。
何故なら、これが舞台のラストシーンだからだ。区切られた会話は、そのままで放り投げられ……私達は夢から覚めたようにお互いを見ていた。
「……」
何も言えずに、ただ立ち尽くしていた。 千道さんがニコリと笑う。頬に伝った汗が、照明の光に反射する。
「ね。先輩なら、完璧に演じられるって言ったでしょ?」
「あ……」
そう言われ、私は本当の意味で現実に引き戻されたような気がした。
さっきまで演じていたのは、今までと同じ、仮想の人物。
でも、私はさっき本気で……真剣にその人物を演じようとしていた。
(でも……)
演じることは、私が許されるため。別の理由は介在していないはずだ。 だけど、さっき常に感じ続けていた熱は、果たして同じ理由から生まれたものなのだろうか?
「私は……」
もう一度、千道さんを見た。
彼女は探し続けている。現実の意味を……物語を綴ることによって。
私はこの舞台に何を見る。用意された世界。偽りの居場所。私が救われるため。 自分から逃げるための、自分ではない他の誰か。
だというのに__どうして、私の心はこう叫びたがっている……?
「__元気でね」
もう一つだけ、蘇る記憶があった。
父と離婚し、家を出る母との最後の記憶。
私は母親と離れたくなかった。だけど、私はその時、自分の声が何一つ無意味だと思っていた。
だから、何も言わなかった。ただ黙って、その後ろ姿を見送った。
そう__言わなかっただけ。どれだけ口を塞いでも、心の声は殺せない。今、後悔しているように、私の心はずっと何かを吐き出そうとしていた。
誰かを演じるたびに、その熱が度々湧き上がるのだ。
嘘の現実だとしても、私の現実が重なる。その人物の感情に、私の感情も一緒に乗ってしまう。
伝えたいことがあった。
今の私には、ちゃんとした口に出来る気がしないけど__その形をちゃんと掴むことはできないけど。
「__なら、私は諦めません」
呟かれた言葉は、私の演じる仮想の人物。
千道さんは目を見開く。既に舞台は終わっている。私の言葉は、台本にない言葉。 私が演じる、彼女の物語だ。
「たとえ、周囲から疎まれようとも、拒絶されようとも。
私の心は、私だけのもの。貴方の言う通り、私は……今、ここにいるのですから」 私が手を伸ばす。
目の前の彼女も、手を伸ばす。その表情は穏やかに私を受け入れる。
一歩、前へ。
千道さんは探し続けている。自分が求める答えを。
私も探し続けている。本当の自分の言葉を。
この舞台で、彼女の物語と共に。それぞれ伸ばした指先__その熱の交錯する場所で。
私達が目指す、想いの果てを。お互いの視線の先に見出そうとしている。
「見ていてください。共に」
恐れを飲み込んで、私は舞台の上で彼女にそう言った。
踏み出した時にはきっと__物語は始まっているのだから。
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