チェーンソーサムライ

チャウチャウキング

第6.5話

 西暦2155年、全世界が滅亡した。

その時に何が起こったのか、正確に知る者は誰ひとりとしていない。分かっていることは、地球上に特殊な核爆弾が投下されたことだけである。

その投下された爆弾の中には実験的な「A&O爆弾」があった。A&Oとは「アルファ・アンド・オメガ」のことである。


A&O爆弾は、核爆弾よりもはるかに広範囲に死と破壊をもたらす威力を持ち、そして核爆弾との主な違いは、それらが奇妙な放射線を発することであった。

A&O爆弾の放射線は、死の爆炎から遥か遠く離れていようとも多大な影響を及ぼした。具体的には生物の突然変異を引き起こしたのである。そして放射線はまた、ある者たちに不思議な能力を与えた。いずれにせよ、A&O爆弾はモンスターを生成したことに相違なかったのである。


 時は2235年――シカゴ。街に居住する、とある長老夫婦が言うには、ワウチャウ・タワーの頂に直立する針のようなツインアンテナは、強力なドーム状のシールド――それはピュア・エネルギーで構成されている――を展開しており、そのシールドは、街やその周辺を核兵器やA&O爆弾から守っているとのことだ。そして更には、放射性降下物からも街を守っている。

 2155年の世界滅亡後、風で放射性降下物が吹き飛ばされて、シールドが解除されて降下したとき、生き延びた人々はそこに果てしない虚無を見た。そこには住居も、民族も、国もない。海と呼べるものもない。残されたのはシカゴだけだったのだ。


やがて長い時が経つと、人々はシカゴの街をオールド・シカゴ――地球上最後の都市――と呼ぶようになった。もちろん、大地には小さな文明や村がいくつか建設されたが、オールド・シカゴの比ではない。シールドに守られた強固な塔や建物は、今日も健在である。


 街の外に世界がないとはいえ、荒れ地に危険が潜んでいないわけではない。先述通りA&O爆弾は実験的なものであり、その特有の放射線はある急激な進化を引き起こした。核兵器の放射線とA&O爆弾の放射線が混合し、生存者をミュータント化させたのである。

この街は、「チェーンソー・ギャング」と呼ばれるミュータントの一団から絶え間ない攻撃を受けている。彼らはオールド・シカゴから人や物資を強奪し、そればかりか最悪なことに、ウォーマシンを再構築していた。ウォーマシンというのは、A&Oデー以前に、テレビエンターテイメントのために建造され、互いに戦った巨大なロボット兵器のことだ。


だが、その巨大兵器らは一人の怪物によって阻まれることになる。


その怪物というのは、市民すらも恐れるほどの存在であった。彼は得物である野太刀とチェーンソーで、街へ侵入したチェーンソー・ギャングらを残忍に、そして残酷に葬り去った。また、ギャングのウォーマシンが襲ってきた際には、彼もまた自らの恐ろしいウォーマシンを呼び出して、街を守ることができた。


マシンも怪物も同じ名前で知られている――チェーンソー・サムライだ。


 オールド・シカゴの大部分はアジア地区で構成されている。人口のほとんどが多様なアジア人の混血で構成されており、独自の3つの地区に分割されている。チャイナタウン、リトルトーキョー、そしてコリアタウンの3つだ。各々の地域は文化的そして建築的に、かつて存在した国のスタイルに沿っている。これらは彼らの最後の生きた遺産と言えた。


 その一区域、チャイナタウンの夕暮れ時。日が沈んで夜気が迫るころ、ほの暗い街灯が点灯した。街灯は節電のために光量が抑えられているが、これは外部の脅威から街を守るための市長の政策である。


チャイナタウンにはオープンマーケットがあり、自家栽培の野菜を主とした屋台が並んでいる。戦前からその地下に土を敷いて、栽培用のソーラーランプで育ててきたのであろう。


また、スカイフィッシュ専門店が2つある。A&Oデーは人間だけでなくトビウオも進化させたのだ。トビウオはかつて海面を飛び出し滑空する魚であったが、A&O爆弾によって海が蒸発し、突然変異を起こしてスカイフィッシュになったのだ。

スカイフィッシュは4本の奇妙な水陸両用脚を持ち、空中を飛び回れるようになった。なんと1日に数時間も自由自在に飛行できるのだ。そして、かつて生きていたトビウオたちのように、群れを成して互いに捕食者から身を守った。この不自然な進化は、スカイフィッシュにとって非常に大きな繁栄をもたらした。光合成をする植物と同じように、太陽からエネルギーを吸収することが可能になったのだ。おかげで食料の乏しい荒野で生き抜くことができる。


無論、不可解な進化もあった。魚たちはネズミに不思議な魅力を感じているようで、遭遇する度に食らいつくのである――ラオは老骨を伸ばしながら、天井部屋まで歩いていく。


スカイフィッシュ屋の店主のひとりに、ラオという素朴な男がいる。この店は多くのスカイフィッシュを売っていて、儲けは上々だ。

ラオはスカイフィッシュを網に分けようと階段を上っていく。食用あるいは販売用にするためである。彼の所有する網には大量のスカイフィッシュが入っており、ラオは、それを見て顔を綻ばせた。ありがたいことに、スカイフィッシュたちは網の中にいたネズミは全て食べていたのだ。


「よく獲れたね」


ラオは網を外しながら言った。


ふと、その中の5匹が妊娠中のメスであることに気がついた。妊娠したメスは体に大きな袋を持ち、そこには少なくとも30匹の稚魚が入っている。稚魚は塩と唐辛子入りの衣をつけ、油で揚げて食べられる。彼は切り返して階段を降り、キッチンへ向かった。そして、スカイフィッシュをシンクに流し、魚を覆う粘液――麻痺を引き起こすのだ――を洗い始める。


ラオが丁寧にこすり洗いしていたその時だ。キッチンの外で大きな音がした。


「ラオ!? ラオ!? ラオ!?」


ドアを突き抜けるほどの叫び声だ。


ラオはすぐさま身をひるがえしてキッチンを飛び出し、ドアを開けた。

そこには負傷した彼の妻がいた。目に大きな打撲傷を負い、彼女は半狂乱で夫を呼んでいた。口と鼻からは鮮血が滴り落ち、抱えられた腕は赤く腫れ上がってぐったりしていた。


「ニナ!」


ラオは傷を見ようとしたが、ニナはその手を自らの手で制止した。


「駄目よ! 時間がないの!」


泣き叫ぶニナは激痛によろめいた。ラオは急いで椅子を用意すると、彼女をそこへ促した。そして薬棚から消毒用のアルコールと清潔なタオルを持ってくる。


「一体誰がこんなことをしたんだ!?」


ラオは彼女の腕を丁寧に調べながら怒りを露わにした。


「暴力団よ! チンユアンが連れて行かれてしまったわ!」


ニナは再度悲鳴を上げ、嗚咽する。


「もちろん私は止めようとしたわ! でも、あの人たちは私を殴って、それからあの子を、チンユアンを奪っていったのよ!」


「ロンフェイを呼んでくれ! 奴らを止めるぞ!」


相手が暴力団だろうとラオは即断して店を飛び出した。手には武器――水道管を修理するために用意したパイプだが、外に置いたままだった――を握りしめ、道路を疾走する。そして娘の声を聴くために意識を聴覚に集中させた。チャイナタウンの犯罪率が上がっている中、彼らを市場に行かせるのはまずいと考えた。

犯罪率上昇の恩恵があるとすれば、それは道が空いていることだろう。彼はセメント・ロードを走り、愛する娘の声を捉えるまで行きつ戻りつした。


「あぁっ! ママ! 助けて!」


突如、ラオの耳が声を感知した。ラオはそれが愛娘チンユアンの声だとすぐに理解した。


「黙れ雌犬め! これが、俺を拒絶した報いなんだよ! この俺、シンを拒絶する奴は誰ひとりとしていない!」


ラオは娘の悲鳴の中に、男の非情な声も聞いた。


ラオが駆けつけると、チンユアンは4人の若者に捉えられていた。彼女が着ていたブラウスは裂かれて、胸が露出している。スカートとストッキングは無残に地面に放り出されていた。彼女のパンティーは、一人の男の指に絡められている。


ラオは、娘を犯している人物がシン・ホソクであると視認した。彼らは以前からチンユアンを悩ませていたコリアタウン出身の一味だ。ラオがシンに最後に会ったのは、自分のレストランからシンを出禁にした時だった。もしその後シンがレストランに来ようものなら、ラオはロンフェイを呼んで“対処させる”つもりだった。


だが脅しは通用しなかったようだ。現に、シンは自身を少女に押し付けて、無理矢理行為に及ぼうとしているのである。


「娘に触るな!」


父親の怒号が路地に轟く。同時にラオは突撃し、パイプをかまえて一撃を振り下ろした。パイプはギャングの一人の少年の後頭部に直撃する。

騒ぎを感知したシンら一味が振り向くと、そこでは瘦せっぽちの老人が仲間を襲っているではないか。殴られた男は、出血した後頭部を押さえてよろめいていた。


「パパ!」


チンユアンが叫んだ。


「このクソジジイを殺せ!」


すかさずシンが声を上げる。

ラオは再度パイプを振りかざすが、一人の手がそれを掴んで制止し、次の瞬間、もう一人の一蹴りがラオの腹に食い込んだ。そして2人のギャングが一方的にラオを殴り始めると、耐え難い激痛を伴ってラオは膝から崩れ落ちる。ラオの老いた骨は蹴られて折られ、そして内臓が破裂する。先ほど後頭部を殴られた男も加わって、一味はうずくまる老いた男に暴力を振るい続けた。


「やめて! パパを巻き込まないで! 離れて!」


チンユアンは彼らを止めようと泣き叫ぶ。しかしシンは躊躇せずチンユアンの頬をひっぱたいた。それでもチンユアンは父を守るために駆け出そうとするが、シンに髪を掴まれてしまう。


「ああっ! パパ!」


チンユアンは叫ぶことしか出来なかった。ラオは決死に立ち上がろうとするも、相手の圧倒はその10倍以上だ。暴悪にさらされ続けたラオは、しまいには地面に横たわって痙攣することしかできなくなった。


「俺に逆らうからこうなるんだよ! 」


シンはそう言い放つと、掴んだチンユアンを手下に投げやって、銃を取り出した。


「チンユアン……チン、ユアン……」


ラオはなすすべもなく横たわりながら呟いた。そうして激痛で震える手を娘へ差し出す。チンユアンはそれに応じようと必死にもがくが、一味の男が身体を押さえ込んで叶うことはなかった。

シンは何でもないように、重症のラオの背中に乗ると――彼は一片の情けも持ち合わせないのだ――痛みに呻くラオの口から血が噴出した。


「やめて! パパから離れて!」


チンユアンは懇願する。


「あなたの望むとおりに何でもしますから、お願い! やめて!」


シンはチンユアンを見据えた。彼の目は怒りと悪意に満ちていた。

シンは銃を構えると、目をそむけ、ラオの後頭部に狙いを定めた。


「パパ!」


チンユアンは悲鳴をあげた。シンはかまわず引き金を引く。

路地裏で銃声が炸裂し、弾丸が老人の頭蓋骨を貫いた。チンユアンは地面に崩れ落ちた。やがて少女は最愛の父の死に、大声で泣きじゃくった。


「欲しいものは手に入れる! そう、俺のものであって然るべきなんだ!」


シンは死体に唾を吐き捨てて高らかに叫んだ。

そして、仲間の一人に指示を出した。


「さあ、レイ、女を車に運んでくれ。帰ったらこいつを“ぶっ壊してやる”」


レイと呼ばれた男は頷いて、そしてチンユアンを駐車場へ引きずるような形で連行した。無論、チンユアンは感情のままに激しく抵抗したが、再びシンの平手打ちが炸裂した。


するとその時、「なぁ、シン?」と後頭部から血を流すあの彼が聞いた。


「何だよ!?」


シンは不機嫌を隠せない。だが、ふと周囲を見渡して立ち止まった。


「待て、ソンホはどこにいるんだ?」


シンの言葉に、仲間は辺りを見渡した。

しかし、そこにいたはずの仲間、ソンホの姿は消えていた。


「車に戻ったのでは?」


とレイは言った。


「車は路地の反対側だろ。俺たちに見つからずに車に戻るなんて不可能だ」


シンの口調に焦りが見えた。


「ソンホ! どこにいるんだ、このバカヤローが!」


突如、湿ったような、大きな衝撃音が彼らの至近で発生した。何かが落下、あるいは着地したようだが――反射的にシンはそこに銃口を向けるが――その正体はソンホだった。


ソンホ――背骨は頸椎から捻じれて破壊され、首の皮膚は膨張している。少なくとも3回は胴体を捩じられたであろう、上半身は仰向けで、下半身はうつ伏せだった。手は原型を留めないほどぐちゃぐちゃになって腫れ上がり、まるでちぎったねじれパンのようにも見える。切り裂かれた喉からは流血と、ゴボゴボという不快感に満ちた音を発していた。


眼球が飛び出そうなほど開かれた瞳。何かを発声しようとして、激しく痙攣する様子を、シンたちは見た。

ソンホは秩序を失った手と指を伸ばした。喉をゴボゴボと鳴らし、今にも窒息しそうな湿った音を漏らしながら、震える唇を動かした。「コロシテクレ」と。


「何なんだよ! これは!?」


恐怖の抑制には限界があった。シンは声をあげながら後ずさりする。


次の瞬間、シンの背後に何かが落下して、一味の視線がシンの背後に集まる。シンも恐る恐る、ゆっくりと振り返った。


それはまっすぐに立ち上がった。

それは巨大な男だった。


背丈は9フィートに届くであろう、腕や足は極端に細いが、とても長い。大きな真紅のジャケット、防弾チョッキ、ジーンズ、そしてスチールトゥブーツ。ジャケットの肩から肘にかけては、武士の甲冑を連想させるデザインだ。


怒りに歪んだ顔。彼の背にぶら下がっているのは、巨大なチェーンソーだった。更には左手に7フィートほどの野太刀を握っている。野太刀は大太刀とほぼ同義で、長い刀を持つ刀だが、この巨大な男が持つと単なる太刀にしか見えない。

男は歯を食いしばった。その歯は鋼だった。喉からは、人間らしからぬシューという大きな音を発し、口から煙が立ち上った。

路地は暗いにも関わらず、彼は黒いアビエーター眼鏡をかけており、その奥で2つの目が赤く発光している。


「チェーンソー・サムライだ!」


シンは、そこでようやく、トリガーを引くことができた。


だが、巨大な男――チェーンソー・サムライ――は野太刀を振り上げて弾丸を弾いた。野太刀から火花が飛散する。シンは目を見開き恐怖に震えた。再びトリガーを引いたが、結果は同様であった。


「クソ! 死ねよ!」


シンは叫び、銃を両手で持つと、狙いを正確に定めて奮起した。そして何度もトリガーを引く。男は野太刀を恐るべき速度で振り回す。弾丸の大半は防がれて、残りはジャケットと防弾チョッキに阻まれた。無力となった弾がジャケットと防弾チョッキから落ち、巨人の男は追撃を開始した。


シンは逃げ出した。もちろん他の一味も彼に続いた。シンが振り返ると、巨人が想像を絶する歩調でこちらに向かってくるのが見える。シンは最後の一発を発射する。男は素早く野太刀で防ぐが、わずかに足止めされた。

シンらはチンユアンを無理矢理に抱えて路地から脱出した。まもなく怒号と共に路地から現れた男を見て、一行は車へ急いだ。シンが車のキーを押すと、ドアが自動的に開く。


一人が車に乗り込もうとしたその時だ。巨大な右手がその頭を掴んだ。


巨人の指は細長く、掴んだ男の頭頂部から顎まで巻き付くようにして覆った。巨人は野太刀を鞘に納め、男を懐に引き寄せる。そして背中の巨大なチェーンソーに手をかけた。バーの部分だけでも、少なくとも6フィートはあるだろう超大型チェーンソーである。名前の由来となった怪物と同様に威圧的だ。

巨人――チェーンソー・サムライは、金属の歯と顎の力をもってスターターハンドルを引き、チェーンソーを始動する。そのエンジンは怪物の産声を上げながら高速回転を始めた。


「頼む、やめてくれ! 俺はあの老人を殺したかったわけじゃない! 女だっていらない! 俺はただ金持ちと一緒にいたかっただけだ! 悪かった! 謝る! だから殺すな!」


無論、激怒する巨人にその懇願が届くだろうか。

巨人は、雄叫びや咆哮といった類の奇怪なノイズを喉で鳴り響かせながら、その男の胸にチェーンソーを突き刺した。


「ギャアアアアアアアアアアアアアア゛ア゛ア゛ァァァ!!!」


チェーンソーの刃は肉と骨を切り裂いて、男の悲鳴が響き渡る。


大小の数多の血しぶきが、巨人と車のボディを殴りつけるようにして襲う。血まみれの温かい肉片が大量に噴出し、一面に飛び散っていく中で、巨人は更にチェーンソーを引き下ろしていく。


シンとレイはすでにチンユアンと車に乗っていた。

巨人が仲間の頭を掴んで連れ去った時に、チンユアンは再び脱走を試みた。だが、できなかった。2人は無理矢理彼女に手錠をかけ、シンは車のエンジンを始動させる。


一方で巨人は獲物を手際よく片付けて、それを脇へ放り投げた。シンはアクセルを踏み込む。ところが、コンクリート上でタイヤの大きな摩擦音がしたものの、発車しない。振り向くと、バックウィンドウの向こうで怪物男がしゃがみ込んでいるのが見えた。巨人は怒気に目をぎらつかせて睨んでいる。到底人とは言えぬ、その目の中に存在する底無き憎悪――シンらはそれを見た気がして心底震え上がった。

巨人は二人を見据えたままゆっくりと立ち上がった。男が立ち上がると、どういうわけか車体後部も一緒に上昇した。


「シン! 車の後ろをつかまれた!」


そう叫ぶレイは失禁中である。

シンとてこれほどの恐怖を味わったことはない――この車は四輪駆動だ、こんなことはありえない、いくら怪力の持ち主でも、車を軽々と持ち上げられるわけがないんだ!

しかし巨人は渾身の力を込めると、テーブルをひっくり返すがごとく、いとも簡単に車体をひっくり返したのである。ひっくり返った車はルーフを下にして着地し、全員が天井に落下する。それからわずか数秒の後に、大きな拳がチンユアンの隣のガラスを突き破った。

その手はチンユアンを掴むと、彼女の悲鳴が上がる前に車内から体を引きずり出した。シンとレイは、彼女が30秒ほど悲鳴を上げて、やがて沈黙する様を聞いていた。その後レイは、巨人の足が車の底を踏むのを感じた。巨人の体重だけで、金属がきしみ、曲がる音が聞こえる。


「くそったれ! あとはお前自身で何とかしろ!」


レイは叫んだ。叫びながら、巨人の進行方向とは逆に這っていく。シンは即座にレイを掴んだ。


「俺を置いて行くな!」


だが、レイはその手をはねのけた。


「黙れ! シン、お前はいつもそうだ、横柄で、妹が大好きなだけのクソ野郎だ! いいか、俺たちは知っているんだ。お前がチンユアンを欲しがったのは、死んだ妹に似ていたからだろう!」


シンは友人からの非難に驚きを隠せない。しかしレイはそれを知りつつ追撃の言葉を重ねたのだ。


レイはすぐさまシンをフロントガラスに押しやった。そこへ巨人の拳が窓を突き破り、シンに掴みかかろうとする。シンがその手を蹴り飛ばすと、すかざずレイは車外に這い出た。腕や胸にガラスの破片が当たるが、かまっている場合ではない。レイは、チェーンソー・サムライから逃げられれば、あとはどうでも良かったのだ。


すると、突如、レイは身体が軽くなったのを感じた。立ち上がって逃げようとしたが、脚部の痛みを知覚して転倒した。なぜ、こんなに痛いのだろうと下を見ると、足を負傷している。正確に言えば“足がなかった”。

レイは顔を上げて、車上にしゃがみ込む巨人を見る。巨人の手には鮮血を滴らせる野太刀があった。彼の野太刀は既に仕事を終えていた。

信じられるか!――レイは切断された足を押さえ、狂った悲鳴を上げた。


その間、シンはダッシュボードの中から予備の弾倉を見つけ出して、銃をリロードさせた。そうしてチャンスを窺う。巨人が気を取られている間に、車にぶら下がり、巨人の背中に狙いを定めた。


「死ねよ! 化け物が!」


そう叫びながら、シンは引き金を――わずか数ミリ秒の間に、巨人は大きな体を回転させて野太刀を一振りすると、銃の上半分が切り落とされる――発砲は失敗した。


次の瞬間には、巨人が二撃目を高速で振り払った。シンは、一体何が起こったのかと手元を見ると、前腕が真っ二つに裂けていた。流血を伴い、裂かれた腕が肘の上でバタバタと奇妙な生き物のように跳ねているではないか。シンは激痛を自覚して悲鳴をあげた。


シンは二股に分かれた腕を抱えて車外へ飛び出した。言うまでもなく巨人はシンに飛び掛かり、再び野太刀を振りかざす。シンの両足はおもちゃが壊れるように簡単に落ちた。彼は激しく転倒して、地面を滑走していく。砂利とタールが味覚と嗅覚を同時に刺激する。

何とか這いつくばって逃げようとしたが、巨人の足が右手を踏みつけた。その凄まじいエネルギーは、100ポンドのダンベルを落とされたような感覚だった。巨人が足を上げると、やはり手は完全に潰れていて、指の骨はまるでフラットだ。ただでさえ耐え難い痛みに、さらなる激痛が加わって、叫ぶシンの声帯は限界を超えそうである。


シンは顔を上げる。そびえ立つ巨人が自分を見下ろしていた。


「どんな気分だ? 苦しいか? 無力で心細いか?」


巨人は言った。

巨人の声は怪物のようだった。大きく、荒々しく、低音でささやくような、そして、蒸気が漏れるようなシューという音の集合体であった。そしてまた、まるでトランシーバーから聞こえる声のように抑揚がない。

シンはたいそう震えた。震えながら小便を漏らした。


「や、やめろ、こ、こ、殺さないでくれ」


シンは嗚咽した。


巨人の黒いアビエーター眼鏡の奥で、怒りに満ちた赤色の光が増強し、巨人はシンの頭を掴み上げると、それを地面に叩きつけた。

頭蓋骨のあらゆる面に亀裂が走り、大量の砂利と切り傷が眼球を襲った。シンは激痛に嘔吐しかけたが、巨人に仰向けにされ、背中から地面に叩きつけられる。次の瞬間、野太刀が顔の横に突き立てられた。シンはその刃を見つめる。これが、自分の手足を切り落とした凶器である。


巨人はチェーンソーを手に取ると、その先端をシンの股下に定めた。


「やめろ! やめろやめろやめろやめろやめろ!!!」


シンに出来ることはもはや皆無であり、発狂しながらもがき続けるのみだった。

するとチェーンソー・サムライは、シンの口内へ親指と人差し指を突っ込んだ。そして2本の大きな指が、3本の歯を挟んで捕える。シンはえづいた。巨人の指はゴミや腐った肉といった類の味だった。

歯が引き抜かれる感覚があった。シンは指を噛み砕いてやろうとしたが、その行為はこの世で最も厚い革を噛み砕くようなものだった。

巨人は力を込めて歯を引き抜いた。


「あああああああああああああああああ! ああ! あ゛あ゛!」


何度目かの無力な悲鳴が響き渡る。しかし残酷な巨人が動じることはない。憎悪にまみれた顔をして、彼の目の中で、紅の炎が燃え立つだけである。


「俺に慈悲を求めるのか!」


巨人が声を上げた。

その声は、テレビの音量を突如として最大にしたかのようであった。シンは返り血にまみれた恐ろしい巨人の顔を見た。煙臭く、吐く息はタバコと金属の臭いがする。恐怖に支配されたシンは、泣き叫ばずにはいられなくなった。

巨人はチェーンソーを回転させながら続けた。


「お前が犯そうとしたあの少女は慈悲を求めた。お前はそれを許したのか? 否! お前はそれを許さなかった。彼女は父を殺してくれと言わなかったのか? 違うだろう! お前の慈悲はどこだ!? お前のような汚い悪党に、なぜ慈悲を与えなければならない! 貴様のような悪こそが苦しむに値する! 貴様のような輩がいるから、この世に無意味な苦しみが存在するんだ! 貴様のような存在が、理由もなく、良きもの全て台無しにしている!」


チェーンが回転し、エンジンが猛烈な轟音とともにうねる。チェーンソーの刃が地面を切り裂く。シンの股間まであと数インチだ。


「待て 、待ってくれ! 頼む! 俺が悪かったんだ! 謝る! だから殺さないでくれ! やめろ、殺すなあああああ!」


「地獄が貴様を待っている! 天罰が下るぞ! 地獄へ落ちる前に、終わりのない苦痛だけを与えてやろう!」


巨人はチェーンソーを握りしめて高速の刃を突進させた。刃はシンの汚濁を切り裂いていく。


「あ゛あ゛ああ゛あ゛あ゛ぁぁああああああああ゛ぁあああああ゛あ゛あぁ!」


シンの絶叫が通り一面に響いた。

刃から血と肉が飛び散っていく。

刃が人肉を切り裂く異様な音が響き続ける。

強烈な痛みに身体を引き裂かれて、鼓膜を突き破りそうなほどの絶叫を伴って。


巨人はシンの頭蓋骨をつかみ、その怒りと憎しみに満ちた己の目を見せつけた。巨人は大きな口を開けて、小さな悪党に最後のメッセージを叫んだ。


「俺が誰か覚えておけ! 俺は悪しき者を罰する! 俺は悪魔ですら恐れる怪物だ! 俺は悪しき魂を地獄に堕とす死に神だ! 俺は刀獅郎・ワトソン! 俺がチェーンソー・サムライだ 」


そして轟音のチェーンソーがシンを胸部まで食い尽くした。シンは自身の血でゴボゴボと音を立てながら窒息し、あらゆる恐怖に飲まれて失神した。その痛みは何を用いても言い表すことが不可能だった。視界には、明るい斑点がたくさん見える。


シンはやがて微動だにしなくなったが、彼の脳は時間をかけてその機能を停止していった。そうして死を迎える。シンはそれまで、チェーンソー・サムライという男の説話を思い浮かべることしかできなかった。


 チェーンソー・サムライは残酷でサディスティックな怪物だ。

彼はオールド・シカゴの街全体を彷徨う巨人である。彼は、自分が悪と見なした者を獲物と見なす。それは男も女も関係なく、平等で、彼の憎悪からは誰も逃げることはできない。

彼は獲物の家に押し入り、その長い指でその頭を掴むだろう。彼は獲物を追い詰め、あらゆる邪魔者を切り捨てるだろう。そして、獲物を捕獲したときには、鋼の歯で肉と骨に噛みつくのだ。

魂を食らう巨人の喉からは、その犠牲者の声が聞こえる。彼と戦う者は、彼の刀に倒され、チェーンソーで拷問されて死を迎えることになる。獲物が「早く死にたい」と懇願するまで、チェーンソーは時間をかけて手足を切り刻むのだ。無論、それでも、彼はそのような願いには応じないだろうが。


――仕事は完了した。

刀獅郎――チェーンソー・サムライは、シンの死体の上に立つ。死体は他の死体と同様に真っ二つだ。刀獅郎は、レイの生存を確認するために足を向けたが、レイは死んでいた。


「失血死か」刀獅郎は路地へ戻りながらそう推測した。


 路地には故人となった父を悼むチンユアンの姿があった。彼女は父の胸に顔を埋め、なきじゃくっている。


「パパ! パパ、パパ……!」


刀獅郎は携帯電話を取り出した。

携帯電話は大きい型にも関わらず刀獅郎が持つと小さく見えた。彼は慎重に番号を押してから、携帯電話を顔に近づける。


――こちらチャウチャウ警察。緊急事態ですか?


落ち着きのある、プロフェッショナルで機械的な声だった。

刀獅郎は言った。


「お願い、助けてください! 私はチャイナタウンのセメント通りにいます。暴行に遭いました。父が死んだのです! どうか助けてください!」


チンユアンは驚愕して顔を上げた。その声は彼女にそっくりであったが、チンユアンは一言も発していない。チンユアンは巨人を見上げてから、巨人が声の主であると気が付くのだった。

しかし、チンユアンはその巨人の容姿に震え上がり、すぐに父の冷たい胸に顔を埋める。


刀獅郎は電話を切り、何も言わずに、父を想って泣く少女を見つめた。

彼はこういった姿――若者が年長の犠牲者を思って涙を流す姿――を何度も見てきた。


 チャウチャウ警察のホバーカーがサイレンを鳴らしながら、路地に向かっているようだ。

刀獅郎はチンユアンの前から姿を消した。この路地に現れたときと同じように、瞬く間に。

サイレンが鳴り響く中、少女一人をそこに残して。

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