第七十五話 求められるモノ
通常の半分程度の行軍速度で琵琶湖西岸の街道に出る。
ここで、幕府軍に付き従う一部の兵と別れる。
俺はわざわざ一緒に歩んできてくれた気の良さそうなおじさんに感謝の意を伝える。
彼の仕事からすると一緒に行軍しなくても良かったのに、せっかくだからと側についてきてくれた。
「
「後方はお任せを。万時抜かりなく差配いたしましょう」
こういう状況でも揺るぎない態度でいられるのは年の功か経験の差か。
小さな国人領主として長年生きてきた石田正継さんは、肝が据わっていて世知に長ける。人の機微にも優れた洞察力を示し、表情などから考えを読み解く。
元々、忍者営業部の事務方を一手に引き受けていたが、石田家の家臣が育ってきたので渉外担当や兵站任務を任せるようになった。
机に向かいっきりの仕事より、人と関わったり、間に入って調整する仕事の方が向いていたようだ。息子さんが生まれたとこともあり、生き生きと働いてくれている。
今回は、若狭国小浜港にある蔵や清家の里の軍需物資を運ぶ幕府直轄軍独自の仕事をメインに、六角家から支給される軍需物資の輸送手配や管理も任せた。
一昨年の義弟殿救出作戦での反省をもとに輜重隊を組織した。規模は大きくないが、直轄軍だけなら維持できる体制が整っている。
今回は輜重隊の初任務になる。しかも直轄軍以外の兵を抱えることになり、予想以上に規模が大きい任務となってしまった。
直接的な輸送業務は六角家の輜重隊にお願いし、差配や集積基地の構築などを幕府輜重隊が担当する。かなり変則的な役割分担だが、すべてを自前で行えないのだから仕方ない。
しかし、これで後方の不安は少しは減るだろう。
見ず知らずの六角家に命綱を託すより、石田さんに任せた方が断然良い。
永禄元年卯月(1558年4月)
近江国
朽木谷から三刻(六時間)も歩けば辿り着く距離を、二月もかけて行軍している。
つまりほとんど進むことはなく、滞陣しながら無為に時を過ごしている。
まだまだ敵がいない場所というより、会戦予定地より程遠い、安全な六角家の勢力圏内で無駄飯を食っている。
六角家から糧食の支援があるので、こっちの腹は痛まないのだが、落ち着かない時間を過ごしていると俺の精神が病んできそうだ。
こうやってゆっくりしていればしているほど、三好家も戦備を整えてくるだろう。
三好家は強大だが、その勢力は本拠の四国と畿内という構成で海によって分断されている。
そこが唯一の弱みなのに時間をかけてしまっては、相手に万全の態勢を整えさせる機会を与えるだけだ。
そう思い、
幸いなことに時間をかけたおかげで幕府軍が増えている。それだけが救いだ。
今は、五百騎もの武士が集い、総勢三千名の軍勢となった。
永禄元年皐月(1558年5月)
近江国
あれから、さらに一月をかけ、ゆっくりと南下し、琵琶湖南西部まで下った。
そのゆるゆるとした進みに、俺は段々と我慢が出来なくなり、六角家へ書状を送る回数が増えてしまっている。
内容も激しい文面になり、開戦を促すようになってきた。
祐筆として筆を執る藤孝くんに対して、厳しく当たってしまった。
反省せねばなるまい。藤孝くんも同じ環境に置かれているのだし、不安や心労が募るのは同じなのだ。俺だけが苦労している訳ではない。
それにしても、俺が早く開戦しようなどと言いだすなんて随分な変わりようである。
そもそも無理矢理、戦場に引っ張り出されたというのに。
まあ、多分、この異様な緊張感から逃げ出したいだけなのかもしれない。
――そして、ついに待っていた許可が下りた。
近江国坂本の本誓寺に入り、山城国への侵入の機を窺って欲しいという文面の書状が送られてきたのだ。
坂本という地は、近くの山境を超えてしまえば、山城国である。
三好家の動向を確認して、ついに京へと踏み込むのだ。
坂本からであれば、撤退も難しくない。幕府軍の役割である陽動隊の役目を果たしつつ、襲い掛かられても安全に退ける。悪くない場所だ。
良し。待ちに待った許可が出た。
軍議を開き、これからの動きを決めよう。
今の幕府軍は奉公衆や御伴衆などの家柄の良い武将たちが揃っている。経験も豊富できっと良い意見を言ってくれるだろう。
彼らからすると俺は実績のない若造だ。いや、かつての義藤から通算すれば戦下手な大将と見えているだろう。
ここまでの行軍でもわかったことだが、将軍に敬意を表しつつも軍事的な意見は求めていない。それが室町将軍の現状なのである。
思うところがないわけでもないが、俺の実戦経験は若狭国の奇襲戦くらいの新米指揮官だ。彼らが取り仕切ってくれるのはありがたいと思う。
「藤孝! 六角家より許可が出た。軍議を開く。諸将を集めよ!」
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