第四十九話 征夷大将軍
ダッダッダッ!
次なる獲物を探すために足軽隊は戦場を駆け回っていた。
狂気にまみれた彼らの
足軽数十名は、血にまみれた穂先をこちらに向け、揃って駆け寄ってくる。
その
獲物を見つけたとばかりに歓喜に溢れ、黄ばんだ乱杭歯をむき出しにする。
まるで
すでに、それらが良く見えるほどに距離が詰まってきた。俺の足は動かない。血の気が引き、どれだけ後ろに下がろうとしても、一歩たりとも下がれない。
「大将首見つけたぁ!」
「待て待て! 俺がやる!」
「そんなもん早い者勝ちに決まっとろうが!」
明らかな優勢に気を良くした彼らは、既に勝利を確信しているようだ。
もう彼らの穂先しか目に映らない。そして俺の足はまだ動かない。
「大将首もらったぁー!」
「――うわぁ、ぁあああああああ!」
その穂先は俺の身体に突き出された。……というところで目が覚めた。
夢だった。そう、あれは単なる夢なんだ。
眠れないと思っていたが、
朝の軍議を終え、自室にて薄茶飲んでから自室でウトウトしてしまっていた。
あれは疑いようのない悪夢だった。嫌な汗をかいてしまった。
そろそろ出陣の時間が近づいているようだ。日が陰り出している。
楓さんを呼んで戦装束に着替えるので、ついでに汗を拭いてもらおうか。
「ありがとう。少しさっぱりしたよ」
「いえ。お役に立てて何よりです。そのままお召し物を変えましょう」
それくらいしか楓さんとの会話は無かった。
着ていた着物を脱ぎ、背中の汗を拭ってもらい、戦装束を身に着ける。
少し厚手の絹地で仕立て上げられた戦装束は、刃や矢を防ぐのに、いくらか役立つらしい。
いつもと違う着心地に嫌でも非日常を感じてしまう。いや、非日常と思えるくらい平穏な暮らしをしてきただけで、この戦国の世の中においては、これが日常なのだろう。
俺は幸せだったのだ。生命の不安を感じずに暮らしてこれたのだから。
その幸せの生活の終わり。ついに来た。来てしまった。
俺の中では、その平穏な生活の終わりは
だって三好家なら数万の兵を動かせるはず。今の幕府の直轄軍は百二十。諸大名に協力を仰ぐとしても、全然話にならない。まだまだ動くタイミングじゃなかった。
でも後悔は無い。自分で安全な生活から抜け出ると決めたのだから。仲間の命の危機を座して見過ごすわけにはいかない。だからといって怖くない訳じゃない。
怖い……さっきの夢が夢でなくなるかもしれないのだし……。
「……義輝様。ご武運を……お祈りしております」
俺の背中越しに投げ掛けられたその言葉は、多分に感情が込められていて、そして少し掠れていた。
「……ありがとう」
いつもと違う楓さんの声色に、俺が応えられたのは、ありがとうという言葉だけだった。
「私も側で御守りできれば、どれほど心休まることでしょう」
「確かに楓さんが側にいてくれたら、どれほど心強いか。でも戦陣に女性を伴えないよ。大丈夫。みんないるし何とかなるさ」
そう大丈夫。きっと大丈夫。きっと。
「待つだけというのが、こんなに辛くなるなんて思いもしませんでした」
芯の通った強い女性だと思っていたのに。その女性はとても悲しそうで、寂しそうで。
その声を聞いてしまったら、俺は振り向かずにはいられなかった。
胸の前で手を重ね、まるで祈っているかのように、こちらを見ていた。いつも俺の尻を叩いて叱咤激励してくれた気の強さなど微塵も感じさせず、むしろ、か細く折れてしまいそうなほど、気を病んでいるように見えた。
この
楓さんの重ねた手を俺の手で包み込む。
ああ、情けない。俺の手が震えてやがる。こんなんじゃ、楓さんがもっと不安になってしまうじゃないか。止まれよ! 情けない。
せめて顔だけでも笑顔を作らないと。
「大丈夫。きっと大丈夫だよ」
さっき自分に言い聞かせた言葉を、今度は楓さんに。
「はい。きっと大丈夫ですね」
俺のぎこちない笑みが良かったのかは分からないけど、すでに不安そうな様子はなく、楓さんの顔には微笑みが広がっていた。
その笑みは、向日葵のような大輪の花ではないけれど、凛と咲くヤマユリのように美しかった。
「義輝様のお優しさは、日ノ本一ですね。お帰りをお待ちしてます。必ず帰ってきてくださいね」
「そうかな? でも約束するよ。朽木谷へ。楓さんが待っている此処へ帰ってくるよ」
胸の前に重ねた手を包み込むようにしたので、楓さんと凄い近い距離で見つめ合っている事に気が付いてしまった。
この距離、この雰囲気、これはアレをするタイミングなのではなかろうか。
半歩も要らない。足の半分の距離を詰めればアレが出来る。ここは勇気を出すところだろう。
そう逡巡していると、無情な言葉が投げかけられた。
「上様、皆の準備が整いましてございまする」
「……わかった。今行く」
藤孝くんが呼びに来たのだ。絶妙なタイミングで。もしや、藤孝くん、あの雰囲気に嫉妬して止めに来たのか……なんてね! ないから! 俺はノーマルだから!
そんな風に下らない考えに意識を割いておかないと悔しさが込み上げてきちゃうからね。名残惜しい気持ちで手を離した俺は、楓さんへの未練を断ち切るように足早に部屋を出た。
朽木谷村の外れ。これから若狭国へと向かうべく幕府歩兵隊、銃兵隊が集まっていた。
一方、俺と藤孝君の轡取りには、粗末な胴に陣笠という徴兵された農民にしか見えない忍び衆。
彼らに馬を曳いてもらい集合場所へと赴いた俺たちは、そのまま馬上から彼らを見渡している。
彼らが身に着けた鎧は真新しく、槍先に曇りは無い。それと同じくらいに彼らの表情は清々しく輝いて見えた。待ち望んだ実戦なのだろう。
彼らは二年近く野山を走り回り、槍の訓練をしてきた。まさにこの時のために。
歩兵隊五十、銃兵隊二十。付き従う将は、和田惟政、滝川一益、滝川益重。
近衛に細川藤孝、服部正成、猿飛弥助。
みな俺を支え、俺のわがままに従ってくれる仲間だ。
一人の仲間を救うために百二十人以上の仲間の命を危険に晒す。わがまま以外の何物でもない。だが仲間の窮地を見過ごすわけにはいかない。今の俺には仲間を救う力があるのだから。
きっと皆もわかってくれる。仲間のために、守るべき者のために命を懸けることこそ、武士であるのだと。
「上様。皆にお言葉を」
藤孝くんが皆の意見を代弁する。
彼らは待っている。俺の言葉を。
命を懸けるに値する意義を見出すために。
「我らはこれより若狭国に向かう。
「応!」
鼓動が速まる。言葉に熱が帯びる。
「暗闇に乗じて若狭国へと潜入し、奇襲にて一気に敵勢を打ち払う。名乗りは不要。皆と協力して目の前の敵に注力するのだ。良いか!!」
「応! 応!」
熱が伝播する。
「周りの仲間を見よ。しかと見たか? その者たちがお前の命を託す仲間だ。全員で朽木谷に戻るぞ。良いか!!!」
「応! 応! 応!」
まるで一つの生き物のように。
「室町幕府 第十三代征夷大将軍 足利義輝。仲間の命を守るため、いざ
「うぉおおおおお!!!」
さあ、戦国の世に出るぞ。
そして全員で帰ってくるぞ。
この朽木谷へ。
「出陣!!」
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