第30話 悪魔の契約
「お年寄りや少し体の不自由な人が電車に乗れば、氷瀬は必ず席を譲る」
十波は俺の言葉を黙って聞いている。
途中で口を挟む気配はなく、とりあえず全部話せと言っているように見えた。
なので俺はそのまま話を続ける。
「ただ譲るんじゃない。一切ためらいなく譲るんだ。驚いたよ、こんな善人がいるのかってな」
初めてその姿を見た時の衝撃はすさまじかった。
お年寄りが入ってきた途端、一切の躊躇なく席を立って譲る人がいた。それも同じ制服を着ていた人がだ。
席を譲る。その行為自体はありふれたものだろう。
でも、みんな心の中でまずこう思うはずだ。誰か譲らないのか、と。
辺りの様子を窺って、誰も動かないのを確認してから席を譲る人が出る。それもまだいい方だと思う。
みんな自分の世界に閉じこもって、気づかないふりをして自分の席に居座る。これが日常的な光景。
俺もそっち側の人間だ。誰かのために譲るなんて考えは持ってなかった。
だから、氷瀬のその姿は俺に最大限の衝撃を与えた。
「俺とは全く価値観の違う人間。氷瀬を初めて見た時に思ったのはそれだった」
氷瀬とは同じ電車に乗ることがある。たぶん、その日俺が氷瀬を見つけるまでも、同じ電車に乗っていたことはあったんだろう。でも、彼女は俺の世界に映っていなかった。
興味のない世界の一部でしかなかった。
「だからこそ、俺は氷瀬に興味を持った」
氷瀬という人間を見つけてから、俺は電車で彼女を見つけると、自然と目で追うようになっていた。
氷瀬はいつも同じ車両、そしてだいたい同じ場所に座っている。それに気づいてからは同じ電車に乗れればすぐに見つけることができた。
「どうせたまたま興が乗ったから席を譲ったんだろ。とか昔の俺はそんなことを思っていた。でも違った。氷瀬はただどこまでも善人だった」
氷瀬はいつも必ず率先して席を譲る。周りを一切確認することなく。
違うんだよ。普通はそんなすぐに行動に移せない。絶対に様子を窺うはずなんだよ。
譲った方がいいのかな? 誰か譲らないのかな? ってさ。
席を譲る人だって、1回は何かしら考えるはず。だけど氷瀬は迷わない。当然のことのように席を譲る。
「そんな姿を、気づいたら追いかけるようになった」
俺は氷瀬に興味を持った。同じ制服だから学校は同じ、そしてどうやら学年も同じらしい。
学校でも、氷瀬の姿を見かけたら自然と目で追うようになった。
氷瀬は学校でも善人だった。廊下にゴミが落ちてたら拾うし、誰かと笑いながら荷物を運んでたりもした。
「体育倉庫に閉じ込められた時、助けてくれたのは氷瀬だった。陰で変態ゴミカス野郎とか言われることになった事件な」
俺と雛森が体育倉庫に閉じ込められた時、窮地を救ってくれたのは氷瀬だ。どこからか話を聞いた氷瀬が念のためやっちーに確認した結果、やっちーが体育倉庫のカギを開けてくれたんだ。
あれだって誰かの冗談かもしれないのに、氷瀬は行動を起こしてくれた。結果は大惨事になってしまったけど。
「そんで、どっかのイカレガールが落としたハンカチもわざわざ届けにきた」
東雲が俺を校舎裏に連れて行った時に落としたハンカチも届けてくれた。
「氷瀬は、どこまでもいいやつだ。俺には無いものを持っている。だから惹かれるものがあった。そして……気づいたら好きになってた」
2年生になる前から、俺は気づいたら氷瀬のことを好きになってた。
初めてその感情に気づいたのはいつだかわからない。でも、気づいた時に好きになってたんだ。
俺には無いものを氷瀬は持っている。俺もそうやって、自分にはない光に吸い寄せられてしまった。
人はないものねだりをする習性があるらしい。これも恋愛心理学とやらで解明できないのかね。
「悪いな。そんな大したことない話で。正直、どこが好きかはわかんねぇんだ。でも、好きなんだよ」
氷瀬のどこが好きか。そう問われると俺は確かな答えを持っていなかったと今わかった。
それでも、俺の心には確かに氷瀬玲奈を大好きだって想いが芽吹いている。それが一時期暴走して大勢の前で告白なんてとんでもないことをしでしかしてしまったわけだが。雛森に邪魔されたから未遂で終わっただけ。でも実質告白してるようなもんだよな。
当の氷瀬にはあんまり響いてなかったみたいだけど……。
「氷瀬の外見に惚れてアタックするやつは2流だ。なにもわかってない。外見はプラスの要素でしかない。氷瀬の本当にいいところは中身だ。それは自信を持って言える」
氷瀬の魅力は間違いなく博愛の自己犠牲精神を持つ尊い心に他ならない。
外見だけで氷瀬に一目ぼれするやつは彼女の魅力の1割も理解していない。その程度で氷瀬にアタックするなんて片腹痛いわ。
「……これが俺の嘘偽りない正真正銘の本音だ。満足したか?」
まさか、初めて俺の恋心を打ち明ける相手が十波になるとはな。人生なにが起こるかわからない。
十波は腕を組み、目を瞑って浅い呼吸を繰り返す。
頭の中で何か考えているんだろう。ことと次第によっては協力するとか言ってたし、自分の中で天秤にかけてるのかもな。
だから俺は冷めた苦いコーヒーを飲みながら、十波の言葉を待った。
十波の話で砂糖は十分かと思ったけど、足りなかったか。
「……あんたの想いはわかった。ちゃんと玲奈のことが好きなんだってわかった」
十波は俺を肯定する言葉を述べているのに、その表情は重く苦しそうなものだった。
「あんたなら、もしかしたら……」
「もしかしたらってなんだよ?」
「なんでもない」
十波はそう言って表情を戻した。いつもの俺に向けるような喧嘩腰の面じゃなくて、友達と話しているような穏やかな表情だ。
「いいわ。あんたに協力してあげる」
「……は?」
「なんで驚いてるのよ?」
「いや、だって、俺とお前だぞ?」
「あんたは信用しないかもしれないけど、今のあんたのことは別に嫌ってないわ。あんたの言う通り、私はあんたを誤解してた」
なんだよ……素直な十波とか十波じゃねぇよ。
そう言ったらまた喧嘩になりそうな気がしたからやめた。
「気づいたら好きになってた? いいじゃない。明確に好きな理由を言える人なんて、そんなにいないと思う」
「だったらなんで訊いたんだよ?」
「……ちゃんとあんたの言葉を引き出すため。だから合格。喜びなさい。最強の味方ができたわよ」
「自分で最強っていうかね……」
でも本当に最強だからなぁ。
ウィンザー効果。氷瀬に近しい十波から、彼女に俺のポジティブな情報を流したり、氷瀬の想いをそれとなく聞いてもらったり、氷瀬攻略作戦において相当な力になるのは間違いない。
なんかよくわからないけど、俺は番犬ケルベロスの関門の突破に成功したらしい。
まあ、なんにせよこれで十波が東雲から消されることもなくなったわけだ。万事うまくいって良かった。
「……はっ!?」
俺はハッとして辺りに目配せをした。
今日は……いない。
「どうしたのよ急に……」
十波が変な奴を見る目で俺を見る。
「いやな……最近イベントの終わりには間の悪い女神様が現れてな。今回も油断したタイミングで出てくるんじゃないかと思って警戒してた」
氷瀬の唯一の欠点。間が悪い。完全なる善意の行動なので何も言えないわけではあるが、まあとにかく間が悪い。俺が一番氷瀬に見られたくないタイミングで彼女は現れる。
だから今日も十波といい感じに落ち着いた雰囲気を見て、変な勘違いをされるイベントがあるのかと思ったけど、それはなさそうだな。初めてちゃんと終われる気がする。
「……なにそれ。でも、あんたに協力する代わりにひとつ条件があるわ」
「条件?」
「あんた、今後も時々私の話に付き合いなさい。それを飲むなら私はあんたに協力してあげる」
「時々……お前の話に……付き合う? それって今日みたいなやつのことか?」
「そう。べつに大した条件じゃないでしょ?」
「…………」
た、大した条件だよ! 悪魔と契約するくらい大した条件だよおい!?
なんでお前はこれのやばさに気づいてないんだよ? 30分で俺の頭がおかしくなりそうな会話だぞ? わかってんのか?
こいつ……地獄みたいな条件を突き付けてきやがった。ふざけんなよマジで。
氷瀬が襲来しなくてよかったよかったって思ったらこれだよ。やっぱりタダじゃ終わらせてくれないんだな!?
「なんでそこで固まるのよ? 破格の条件じゃない。あんたの大好きな玲奈の話が聞けるのよ?」
「あぁ……そうだな……」
でも、俺に断る選択肢なんてない。ないんだよ。
全ての事態を丸く収めるにはこれしかない。自己犠牲とか……俺の主義じゃねぇんだけどなぁ。
「じゃあ……これからよろしく頼むわ」
「契約成立ね!」
初めての自己犠牲は、冷めたブラックコーヒーの味がした。
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