桜の記憶

仲津麻子

第1話ひと目見ただけで

  その少女は、二階の部屋の窓を少しだけあけて、隙間から通りをながめていた。


 桜並木の続く道には、花を楽しみながら歩いている老夫婦が一組。毛むくじゃらな黒い子犬を連れて散歩している少年がひとり。


 登校前に、母から頼まれたお裾分け野菜を、祖母の家に渡しに行っていたため、いつもより一時間も早く家を出たボクは、普段と違う閑散とした道をゆっくりと歩いていた。


 時間が早いとこうも違うのか。

いつもなら、通勤通学の人であふれている道をたどりながら、あたりを見まわしていた。


 咲きはじめの桜は、まだ枝の茶色が目立っていて、ふくらみはじめた蕾の隙間から、淡いピンクがのぞいていた。


 ボクは、視線の端にふと白い光が見えたような気がして上を見た。

白い家の二階には、儚げな少女の姿があって、窓に反射した朝の光が、まぶしくきらめいていた。


 少女は淡いクリーム色の部屋着を着て、白いカーディガンを羽織っていた。細い指を窓枠にかけて、何の表情もなく、ぼんやりと空をながめていたのだった。


 ボクはなぜか少女から目を離すことができなくなって、つい足を止めていた。

その時は、不躾かもしれないなんて、考える余裕もなくて、吸い寄せられるように少女を見つめてしまったのだ。


 少女は気配を感じたのか、ふいに視線を下げて、ボクの方を見た。

思いもかけず人がいたため、驚いたのだろう。確かめるように二度、三度、大きな目をパチパチとまばたかせてから、見上げるボクに、視線を合わせた。


 少女は相変わらず固い表情だったが、何かを問うようにボクをみつめた。

かすかに首を傾げると、肩にかかっていた長い髪がひとすじ、はらりと落ちた。


 ボクはどうしたらいいのかわからなくて、胸のあたりで軽く手を振ってみた。

少女は何かを感じたのだろうか、わからないが。ほんの少しだけ薄い唇の端をあげて、表情がゆるんだようにも見えた。


 なんだかボクは嬉しくなってしまって、手を上げてもっと大げさに振ってみたのだった。


 そしたら少女の唇から白い歯がこぼれて、彼女の小さな手が窓枠からはなれて、ひらりと揺らいだ。


 小さな鳥が飛び立って頭上の枝が、かすかにたわんだ。

ボクがそれに気をとられているあいだに、いつの間にか、少女の姿は窓辺から消えていた。


 ほんの少しだけ開いた窓には、桜の枝かげが映っているだけで、ボクは名残惜しいような気持ちで、その家の前を離れたのだった。

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