5・こーちゃんと海莉(前編)

 それから一ヶ月が経つのはあっという間だった。普段だってそう多くはない海莉とのやり取りは完全に停止している。

 最後に会った日に海莉が送ってくれた、キラキラした絵文字付きの『もうすぐ着くよ』というメッセージを眺めて、再び通知が来るのを待った。コピペでもいい。『もうすぐ着くよ』。そのメッセージを合図に、私は自宅のドアの鍵を開けて彼女を出向かる。そしてまたいつもみたいにダラダラと過ごすことを何度も何度も妄想した。その度に、現実世界と妄想世界がベリベリと嫌な音を立てて引き剥がされていく。

「つーるきさんっ」

 仕事を終えてバスを待つ途中、岡島さんに話しかけられた。いつもなら私と彼女の間に二、三人別の人が並んでいるのでこうして接触されることはなかったが、今日は偶然、私の後に岡島さんが続いている。

「なんだか元気ない?」

 先月初めて話しかけられてから露骨に距離を置こうとする私に、きっと岡島さんは気をつかうようになった。目が合っても会釈をするだけ。初対面のときとは打って変わって大人しく、社会人然としている。

「……少し、疲れました」

 吐いた言葉通り、私は疲れていたんだと思う。海莉のことで常日頃逡巡していた脳が、岡島さんとの会話でどう返すのが最善なのか、考えることを放棄してしまっていた。

「今週は珍しく忙しかったもんね」

 そう岡島さんが言うと同時に、灰色の雲から滲み出たような小糠雨が服や髪がじっとりと湿らせていく。

「それとも、仕事以外のことで疲れちゃった?」

 折りたたみ傘を取り出して開くと、彼女は私の体も入るように掲げてみせた。「ありがとうございます」と、ようやく目を見て私は言った。「いえいえ」と、少し満足げに岡島さんは言った。

 バスはなかなか来なかった。五分以上遅延している。これからどれくらい待つのだろう。少し前だったらもっと居心地が悪かったろうに、今日の岡島さんは、なんだか落ち着く。

「話、聞くよ」

「…………」

 私は車道を行き交う車を漠然と目で追いながら、返答を探した。

「私の家おいでよ。金曜日だしさ、お酒とちょっと良いお惣菜買って帰って。パァっとやろうよ」

 少しだけ、想像した。岡島さんと並んでスーパーを歩きながら、お酒や惣菜を買って帰り、彼女の家で普段言えないような愚痴を聞いてもらって、爪を彩ってもらう。あまりにも非日常で、少しだけ、ワクワクした。現実世界が、妄想世界を凌駕しようとしていた。

「ついでにネイルさせてくれたらな~。暗い気持ちなんて忘れさせちゃうのに~」

 言われて、自分の右手を見つめた。味気のない、色気のない手指。それでも。――重なる。海莉の手のひらが、重なる。そして私の手のひらが、彼女の体に――初めて体温を分け与えてくれた、私の氷河期を、終わらせてくれた彼女に――重なる。

「意味が、あるんです」

「えっ?」

 もう一度、自分から目を合わせた。そう、何も恥じることなんてない。

「岡島さんからしたら、何もしてない、勿体ない爪かもしれませんけれど、私には意味があるんです」

「そっか」

 私の言葉で、彼女がどこまでわかってくれたかはわからない。けれど、その瞳は憐憫も同情もない、ただ、それをそれとして受け止めてくれた瞳をしていた。

「だから、こんなに綺麗なんだね」

 囁くように零れた彼女の言葉に、じんわりと涙腺が緩む。私と海莉の二人で構成された世界を、初めて誰かが違和なく認めてくれた気がした。

「それじゃあ、諦めなきゃね」

 綻ぶように笑った岡島さんの声が、少し震えたような気がした。外した視線の先には、雨にけぶる坂道の上からようやくバスがやってくる。

「またね、靏木さん。お疲れ様」

「はい、お疲れ様でした」

 乗り込んだ私達は、別々の席に座って家路を辿った。二つ先の席に座って窓の外を眺める岡島さんは、清々しいような、寂寞を湛えるような笑顔を浮かべていた。


×


 家に着いてから、海莉が置いていったパンフレットを改めて眺める。何度読み返しても日程は明日。少ないページながら明るく楽しげな文言がそこかしこに散りばめられており、言い様のないわだかまりが湧いてくる。世の中に社員旅行の行き先を決めたり、そのパンフレットを作る仕事もあることにすら苛立ちを覚え、ようやく鼻から笑いが吹き抜けた。鬱は底を突くと勢いよく躁に向かって跳ね上がっていく。

 バカバカしい。いい加減、僻みすぎた。そんなになるならさっさと行動しろ。きっと後悔するぞ。『今更何馬鹿を言っているの』と言われて呆れられてもいい。いや、言われて呆れられるべきだ。人生どうせ、何をどう選んだって後悔するんだから。何で後悔するかくらい、自分で決めろ。

「……海莉」

 思い立ってすぐに電話をかけるも、1コール目が鳴っている途中で切られた。鬱陶しいんだろうな。それでも、それを言葉で聞きたい。そう思っていることを、言葉で伝えたい。

 すぐさまかけ直すも、今度はもっと短いスパンで切られる。音を立てて胸が痛んで嘔吐感を催す。両手が震えて涙が込み上がる。強く握りしめたスマホを衝動的に投げ捨てようとした時、メッセージの通知音が響く。

『もうすぐ着くよ』

 その文字を見た瞬間、無意識に大きく息を吸い込んで、体感温度が急上昇して、髪の毛が逆立つように脳裏が痺れた。安心と喜びで、込み上がっていた涙が零れる。急いで玄関へ向かい、鍵を開けてそのまま海莉を待った。


×


「おつかれ」

「おつ、かれ。えと、どうして、社員旅行は? ここから行くの? 準備とか――」

 なんでもないように、いつも通り家に上がって靴を脱いだ海莉は、落ち着きのない私を部屋に押し込んで唇を塞いだ。外気はこんなにも冷たいのに、彼女の唇は火傷しそうなくらいに熱い。

「あんな急に言われるわけないでしょ。なに、社員旅行を一ヶ月前に告げる会社って」

 そのまま二人でベッドに倒れ込み、互いの顔に手を添え合う。

「もっと前から聞いてたけど、行く気なかったからこーちゃんに言ってなかっただけ」

「知らないよ、社員旅行のセオリーとか」

 社会人経験の乏しさを咎められている気がして恥ずかしくなり、視線を逸らした。

「……ごめんね、こーちゃん」

 言ってから、私の額に熱い唇を寄せた海莉は、再び目が合ったことを確認してから続ける。

「それにほら、私天邪鬼だから。行けば? って言われて行くわけないじゃん」

「確かに」

 本心を言えない私と、裏腹な行動をとる彼女。私はなんだかバカバカしくなって、それでも嬉しくなって、気の抜けた笑いが零れた。同時に、わだかまりもコロンと胸から抜け落ちたようだった。

「こーちゃんの笑った顔、久しぶりに見た気がする」

 そう言う彼女の表情も、久しぶりに見る笑顔だった。

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