ペテルギウス
文学少女
前編:裸の桜
その日は酷く陰鬱な目覚めだった。ぼんやりとした頭がとても重くて、何もせずに寝てしまいたかった。しんと冷えた冬の朝で、布団から出るのが億劫だった。しかし、僕は受験に行かなければならなかった。滑り止めの私立大学の受験日だった。僕は無理矢理重い体を起して、支度を始めた。
外に出て、僕は駅へと歩き始めた。
雲ひとつない爽やかな群青の青空が広がっていた。景色は朝日に照らされて、優しい輝きを放っていた。建物の壁はほんのりオレンジ色に煌めいていた。
肌にそっと触れるような冷たい空気が漂っていた。前方のマンションが太陽を丸々と反射していて、眩しかった。その眩しい光は僕の重い頭を刺激して、僕を目覚めさせた。
電車が前からやって来て、僕の左を通り過ぎて行った。空気の澄んだ、冬の静かな朝の世界で、電車の走行音がどこまでも鳴り響いていた。電車の音は、どんどん遠ざかってゆき、すーっと消えていった。その静けさが、悲しかった。僕はその消えていった電車の音に思いを馳せながら、駅へと歩いた。駅の前には、一本の枯れ木が、細々とそびえ立っていた。
駅のホームで、僕はコートのポケットに手を突っ込みながら電車を待っていた。立ち止まっていると、体がどんどん冷えてきて、僕はもっと厚着してくれば良かったと後悔していた。そのとき、
「○番線に、急行、池袋行きの電車が、10両編成で参ります。危ないですので、黄色い線の内側へ、下がって、お待ち下さい」
というアナウンスが聞こえた。電車は左からやって来て、甲高いブレーキ音を鳴らしながら、僕の目の前を通ってゆき、弱々しい風を吹かした。徐々に減速してゆき、ホームドアにピッタリとドアの位置を合わせて電車は停止した。
がちゃんと扉が開いた。誰も降りてこなかった。僕は電車に乗って、奥のドアに寄りかかった。電車はゆっくりと、走り出し、ドアの窓から見える景色もゆっくりと動き出した。
僕は電車に揺られながら「グレート・ギャツビー」を読んでいた。途中まで読んでいたが、それからだいぶ時間が過ぎてしまって、その記憶が曖昧だったため、僕はまた最初から読み始めた。僕は、以前とは全然文章の受け取り方が変わっていたことに気がついた。情景描写や、心理描写の比喩の美しさが、やけに僕の心に染みた。情景が、鮮明に僕の頭に思い浮かんだ。そんな僕は、以前も読んだ第一章を、とても新鮮に感じながら読み進めた。
僕はそれから、電車を2回乗り換えて、目的の駅へと到着した。電車を降り、改札を抜け、大学への道に出た。僕と同じ大学を受験する高校生が大きな長い列を作っていた。受験生は狭い商店街の道に溜まっていて、その道を進む車は窮屈そうだった。
※※※
教室は、暖房がしっかりと効いていて、少し暑いくらいだった。僕は頬杖をしながら、右端の後ろの席から教室全体を見渡していた。僕が着く頃にはもうほとんどの席が埋まっていた。みな、赤本や、参考書を机に広げ、熱心に読んでいた。僕は、赤本すら持っていなかった。
そんな周りとは裏腹に、僕はただ無気力だった。ただ、その光景を眺めているだけだった。暖房の温もりで頭はぼーっとしていた。僕だけが世界から取り残されているかのように感じた。はやく帰りたいという考えが、頭を埋めつくしていた。悶々とする気持ちが、僕の焦燥を駆り立てていた。
僕はこの頃、将来に対する漠然とした不安を抱えていた。特に何かが不安なわけではなく、掴みどころのない漠然とした不安だった。将来に濃い霧がかかっていて、視界が霞んで何も見えなかった。将来、僕は何者になっているのか、何も想像できなかった。
毎晩、僕の部屋にある掛け時計の秒針が鳴らす、かち、かち、という音が変に大きく聞こえた。それを意識し始めると、その音に僕の頭は支配されてしまうのだった。そして、胸の中で漠然とした不安がどんどん広がるのを感じていた。
午前0時になると、掛け時計は「星に願いを」のオルゴールを鳴らした。美しい音色が、僕の耳を清らかに流れて、僕の心に浸透する。オルゴールの美しい音楽を聴きながら、「星に願いを」の歌声が、僕の頭の中で流れていた。
『輝く星に心の夢を
祈ればいつか叶うでしょう
きらきら星は不思議な力
あなたの夢を満たすでしょう
人は誰もひとり
哀しい夜を過ごしてる
星に祈れば淋しい日々を
光り照らしてくれるでしょう』
僕を、わかったように言うな。僕に、優しくするな。僕はなんとなく、その歌詞を素直に受け入れることが出来なかった。
僕は「星に願いを」のオルゴールを聴くのが怖かった。濃霧で見えない将来に、また一歩進んでしまったという実感が、僕を憂鬱にした。そして、強烈な虚無感が僕を襲った。
アイデンティティが分からなかった僕は、閉塞的なモラトリアムに閉じ込められていた。閉塞感が息苦しかった。
午後四時頃、試験が終わり、僕は校舎を出た。空にはうっすらと雲がかかっていて、ほのかに白かった。少し日が傾いていて、空の端は鮮やかな朱色に燃えていた。僕は校門へと向かっていた。そのとき、道の中央に生えている、葉を散らしきった厳かな裸の桜の大木が、僕の目を奪った。
太い幹が、地面からたくましく生え、白い空へと伸び別れ、大きく広がっていた。茶色の木肌が、白い空を背景に美しく映えていた。朝通るときにはなんとも思わなかった裸の桜の木が、なぜだかこのとき僕の足を止めた。
満開の絢爛たる桜の木とは違う、寂しい美しさを感じた。葉を散らした裸の桜の大木は、桜の本来の姿を表しているように感じた。人に媚びるような満開の桜より、裸の桜の木のほうが、この頃の僕には美しいように思えた。
裸の桜は、僕の理想のように思えた。人に媚びるような、人を騙すような、自分を守るような表層を捨て、僕は素直になりたかったのだ。「人と分かち合いたい。生きる意味を見出したい。それを人に打ち明けたい」臆病な僕は、それを思うと無気力になって、自分の殻に閉じこもってしまうのだった。僕には、裸の桜は、"素直"の象徴のように思えた。「こうなりたい」と、思ったのだ。
満開の桜の木の美しさが信じられなかった梶井基次郎は、「桜の樹の下には死体が埋まっている」と言っていた。けれど、このときの僕には、この裸の桜の下には何も無いような気がした。空っぽ、虚無、真空。そんな空間なんじゃないかと思った。何も秘めず、全てをさらけだしているように感じたのだ。
僕は、目線を空から下げて、前へと進んだ。裸の桜の大木が、僕の背中を押しているような気がした。
大学の最寄り駅へと歩く僕は、清々しい気持ちを抱えていた。冬の夕方の冷えた空気が、心地よかった。裸の木が、道に沿ってずらりと並んでいた。木々の細い枝が重なり合って、複雑な美しい模様を空に描いていた。夕日に照らされた木々の輪郭は、鮮やかなオレンジ色だった。
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