九話

 洗い場で皿を洗いながら、俺は店内を見回した。正午を過ぎて客は席の半分ほどを埋めてる。常連もちらほらいるけど、俺がよく見慣れた顔はいない。姉ちゃんはきびきびと接客してるけど、その笑顔にいつもの明るさはない。


「ありがとうございました」


 代金を受け取って客を送ると、カウンターに戻ってきた姉ちゃんは金をしまいながら小さな溜息を吐く。今日はこれで七回目だ。


「客に対して、そんな作り笑顔は駄目じゃない?」


 たまらず俺がちくりと言ってやると、姉ちゃんは力のない笑みを浮かべた。


「作っていないわ。ちゃんと笑っている」


「ハンネスがいる時と大違いだけど」


 言い返せない姉ちゃんは苦笑いでごまかした。


 この時間、いつもならハンネスは昼食を食べに来るけど、今日はまだ来てなかった。今日だけじゃない。昨日も、その前も、ハンネスは姿を見せてない。何週間に一度は来ない日もあったらしいけど、連続して来ないのは初めてのことだった。


 ハンネスの行動が変わったのは、急用で食べずに帰った次の日からだった。その日はいつもの時間に現れたけど、食事も俺とのおしゃべりもそこそこに帰ってしまった。そのせいで家の仕事については聞けずじまいだった。その後も店には来たけど、ゆっくり話す時間は短くて、そのうち姿を見せなくなった。その理由はわからない。俺にはいろいろ予想できることもあるけど、答えは本人に聞くまでわからない。


 姉ちゃんの笑顔が曇り出したのも、ハンネスが現れなくなったちょっと前くらいだったか。もともと長居しないほうだったハンネスとの時間がさらに短くなったことで、姉ちゃんは寂しそうな表情を見せ始めてた。まさに今見せてる表情だ。姉ちゃんの活力はハンネスと言っても過言じゃない。それがなくなったら、笑顔にも力が入らないんだろう。恋心はそれだけ人の気持ちを操るものなんだな……。


「好きな男と話せなくて寂しいのはわかるけどさ、あんまり顔に出すと――」


「違うの。ハンネスさんのことは、もう、いいのよ」


 尻すぼみになってく声と言葉に、俺は思わず聞き返した。


「もういいって、何が? どういうことだよ」


 すると姉ちゃんは言いづらそうな素振りを見せつつも言った。


「だから、ハンネスさんのことは……諦めようと思うの」


「えっ……!」


 思わず驚いてしまった俺に、姉ちゃんは苦笑いを見せた。


「な、何で? どうしてだよ」


 こんなのいつもの姉ちゃんらしくない。よっぽどの理由でもあるのか?


「実は、ハンネスさんが最後にここに来た日に、思い切って聞いてみたの。今、好きな人はいるんですかって」


 俺の知らない間に、そんなこと聞いてたのか。


「そうしたら、ハンネスさんは笑顔で、いるって……」


 姉ちゃんは暗く目を伏せた――いや、それ、姉ちゃんのことなんだけど。


「あんな笑顔で言われちゃったら、私に望みはなさそうに思えて……」


 望みどころか、驚くくらい両思いなんだけど……。


「それ、誰か聞かなかったの?」


 恋愛では猪突猛進な姉ちゃんなら、そこまで突っ込んでもおかしくないけど。


「聞こうとはしたんだけど、あの笑顔には何だか聞きづらくて……迷っているうちにハンネスさん、帰っちゃって……」


 それから店に現れず、聞けずじまいってわけか。ハンネスめ、一体何してんだ?


「家に帰って独りで考えてみて、ハンネスさんの心に別の女性がいるなら、やっぱり諦めるしかないかなって。だから、そうすることにしたの」


 そう言って姉ちゃんは痛々しい笑みを浮かべた。


「……本当に諦められるの? その顔だと、俺には無理そうに思えるんだけど」


「時間が経てば、きっと、顔が見られない寂しさも薄れていくわ。今はまだ辛いけど……」


 姉ちゃんの視線がふと遠くへ移った。にぎわう店内の向こうにある入り口の扉――そこにハンネスが現れるのを、まだ待ってるんだ。時間が経てばって言うけど、これじゃ当分未練は消えないだろうな。


 俺は、二人の仲を応援するべきなんだろうか。両思いって言っても、ハンネスは前に、自分はカウンターから姉ちゃんを眺めてるだけでいいって言ってた。それはつまり現状維持ってことで、恋人になるつもりはないってことだ。その理由はハンネスを取り巻く状況にある。殺人事件に悪い噂、こんなものが絡む自分に姉ちゃんを巻き込みたくないっていうのがハンネスの気持ちだ。巻き込みたくない、か……改めて考えると、ハンネスはやっぱり怪しい男だ。惚れた姉ちゃんを恋人として近くに置けないっていうのは、違う言い方をすれば、自分の側にいると危険だっていうことだ。噂も事件も、確かにハンネスが疑われてるけど、事実無根なら堂々としてればいいんだ。でもハンネスは事件に巻き込まれたら、って心配してた。そこが俺は引っ掛かる。事件はハンネスの意思とは関係なく起きてるはずだ。それなのに巻き込まれる? それってやっぱり何か思い当たることでもあるんじゃないだろうか。盗み聞きした話の中でも、姉ちゃんと俺が危険にさらされるって言ってたし、ハンネスはまだ何かを隠してる気がする。それも危なそうなことを。


 ハンネスから姉ちゃんを引き離すなら今しかないかもしれない。諦めたって言うけど、姉ちゃんのことだ。その気持ちがよみがえらないとも限らない。引き離すなら決定的な形にするべきだろう。正直、姉ちゃんの落ち込む表情が想像できて気は乗らないけど、諦めたって言ってる今なら、少しは傷が浅くて済むかもしれない。ハンネスも俺が伝えることを望んでたし……。


「……あのさ、姉ちゃん」


「ん、何?」


 入り口を見つめてた姉ちゃんはこっちに振り返る。二人の気持ちを知りながらこんなこと言うのは罪悪感もあるけど、姉ちゃんのためだと思って俺は言った。


「ハンネス、姉ちゃんが自分に惚れてるって知ってたんだよ」


「……ええっ!」


 驚きすぎて奇声を上げた姉ちゃんに何人かの客が振り返った。それに気付いて姉ちゃんは慌てて口を押さえる。


「な、何なのそれ、嘘でしょ?」


「嘘じゃないって。本当だよ」


「まさか、そんな……」


 過去の光景を思い出してるのか、うつむいた姉ちゃんの顔がうっすら赤くなった。


「実はさ、俺、ハンネスに伝えてほしいって頼まれたことがあってさ」


「え……な、何?」


「もっと早く伝えるつもりだったんだけど……」


「だ、だから何なの?」


 姉ちゃんの真っすぐな目が俺を見つめてくる。期待してる目だ。その期待を、俺は断ち切らないと……。


「これはハンネスの言葉だからね。落ち着いて聞いてよ」


 姉ちゃんは黙って息を呑んだ。そして俺はゆっくり言った。


「ウルリカさんの気持ちには、応えられない。だから、諦めてほしい……そう伝えてくれって頼まれた」


「………」


 姉ちゃんは言葉を失ってた。期待に満ちてた目も、衝撃で一点を見つめてる。やっぱり、こうなるよな。わかってはいたけど……。


「……あの、姉ちゃ――」


「そうだったのね」


 声をかけようとした時、急に姉ちゃんは笑顔を浮かべた。


「なあんだ、それならそうって早く言ってよ。そうすればもっと早くに諦めたのに」


「ご、ごめん。何か言いづらくてさ」


「そっか、ハンネスさんの心には始めから私が入る余地はなかったのね。そっか……」


「早く言わなかったのは悪かったけど、でも、姉ちゃんも諦めたわけだし、結果何も変わらないってことで、だから落ち込む必要なんてまったく――」


「大丈夫よ。落ち込んでなんかいないから。ありがとうアイヴァー、ちゃんと伝えてくれて」


「本当に、大丈夫?」


「ええ。おかげで吹っ切れるわ。寂しい気持ちもちょっと和らいだかも」


「そう、それならよかった……」


 姉ちゃんは微笑んだ。けど、目の奥が今にも泣きそうな感じに見えるのは気のせいじゃないはずだ。俺の手前、強がって見せてるんだろう。惚れた気持ちをすぐに消せるわけないんだ。諦めたって言ったって、それは言葉だけで、気持ちはそれにまだ追い付いてない。こんなこと、やっぱり伝えるべきじゃなかったのか? いや、でもこのくらいはっきりさせないと、姉ちゃんの気持ちはハンネスから離れないんだ。こうしてよかったんだよ。これで姉ちゃんは怪しげな恋愛に走らなくて済むんだから。


「ごちそうさま。お代置くよ」


「あ、はーい、ありがとうございました!」


 帰る客のほうに姉ちゃんは小走りに向かうと、にこにこ笑いながら机の上を片付け始める。何事もなかったように……。姉ちゃんがこれでよかったって言うなら、俺もそう思うしかない。面食いの姉ちゃんだから、気付いたらもう惚れた人ができたって言ってるかもしれない。その時の相手は怪しくない人ならいいんだけど、男を見る目がない姉ちゃんだと、今からそれも心配だな――そんなことを思いつつ、重い荷が下りた安堵を感じながら、俺は皿洗いを再開した。


 それから二日後、俺は自分の部屋で独り荷物をまとめてた。三週間の休みはあっという間で、明日ベルイ村へ帰る予定だ。食堂の店長にも挨拶済みで、実家の農業頑張れよと励まされた。小遣稼ぎのつもりだったけど、三週間でなかなかいい額を貰えた。でも金を貯めても村じゃ特に使い道がないんだよな。父さんと母さんに何か土産でも買ってってやるか。


 それにしても遅い気がする。今日はいつも通り午後五時まで仕事して、俺は帰ったけど姉ちゃんは店長の仕事の手伝いをするからって残った。食材の在庫の確認とかで、十分くらいのすぐ終わる作業だって言ってたけど、窓の外はとっくに日が暮れてるのに、隣の姉ちゃんの部屋にはまだ明かりがついてない。俺が帰ってきて二時間は経ってると思う。寄り道してるとしても、ちょっと遅すぎないか? それに姉ちゃんは今日の朝、俺の荷造りの手伝いをするって言ってた。大して荷物はないし、俺はいいって断ったけど、またしばらく会えないんだからって譲らなかった。それなのに家にも帰ってない。忘れてるとは思いづらいし、誰かと飲みに出かけたなんてこともないだろう。姉ちゃんは酒飲みでもないし夜遊びする性格でもない。仕事が終わればきっちり家に帰るはずだ。


 俺は服や雑貨類をかばんに詰め込みつつ、じりじりしながら姉ちゃんを待った。三十分、四十分と時間は流れてく。その間に荷物は全部まとめ終えて、見回した部屋にはもともとあった机やベッドだけが残された。窓の外をのぞいてみる。姉ちゃんの部屋にはやっぱり明かりはついてなかった。


 おかしい。こんなに遅い帰りなわけない。いつもなら部屋にいる時間帯なのに――実はもう帰ってたりするのか? 明かりはついてないけど、俺のこと忘れて寝入ってるとか。


 とにかく安心したい俺は、部屋を出て姉ちゃんの部屋の扉の前に立った。辺りは暗く静まり返ってる。


「姉ちゃん」


 呼びかけて扉を叩く。ドンドンと音を立てるけど、中から何も反応はなかった。やっぱり帰ってない……。


 全身がじわじわと不安に包まれる中、それでも俺は前向きな理由を考えた。……そうだ。きっと店長に頼まれごとでもされたんだ。それにてこずってこんなに遅くなってるに違いない。だから食堂へ行けば姉ちゃんがいるはず――俺は暗い道を食堂へ向けて歩き出した。まばらな街灯の頼りない明かりに照らされて、毎朝通った道をたどる。


 着いた食堂は昼間見る印象とはまったく違った。人気がないせいか、うら寂しくて、そこには静けさだけがあった。道に面した窓は閉め切られて、中の様子は見えない。ここからでも何の気配もないことはわかったけど、俺は念のため窓の隙間から中をのぞいてみた。食堂内は真っ暗で何も見えない。明かりがついてたり誰かが動いてる様子はどこにもない。すでに店長も姉ちゃんも帰った後だ。わかってたことだけど、俺は不安を消すためにまた別の理由を考えた。……町のどこかで飲んでるのかもしれない。失恋の傷を癒すために、ちょっとはめを外してるのかも。それで酔っ払って帰れなくなってるんだ――俺はこの時間に開いてる店や酒場を片っ端から見て回った。そこにいる人達にも姉ちゃんを見てないか聞いて、大通りから周囲の路地まで一通り捜してみた。でも結局、姉ちゃんの姿も、それを見た人も、見つけることはできなかった。


 いよいよ不安が俺の心臓を打ち始めてた。これが最後の望みだった。部屋に帰っててくれ――再び姉ちゃんの部屋の前に戻ってきた俺は、目の前の扉を思い切り叩いた。


「姉ちゃん! いるのか? 姉ちゃん!」


 寝てても聞こえるように、強めに何度も叩く。でもやっぱり反応はなかった。もうすぐ今日が終わって、俺が帰る日になる。どうしよう。店長に一緒に捜してもらおうか……でも俺、店長の家の場所聞いたことなかった。娘さんとどこに住んでるかなんて聞き込んでる暇はない。それとも、朝まで部屋で大人しく待ってたほうがいいんだろうか。一晩経ったらひょっこり帰ってるかもしれないし……。


「そうだ。少し、落ち着こう……」


 俺は自分に言い聞かせて部屋に戻った。ベッドの脇には荷物をまとめたかばんがある。荷造りを終えてからもう四、五時間経つか。このまま朝になって、本当に姉ちゃんは帰ってくるだろうか――俺の中の不安はますますかき立てられてる。そうさせるのはあの時の、盗み聞いた言葉があるからだ。


『あの二人は危険にさらされる』


 ロヴィサさんはそう言ってた。どんな危険かはわからない。でももしその危険がすでに姉ちゃんに及んでたとしたら……それで家に帰ってないとしたら……。


 俺はベッドに腰かけそうになった体を止めた。俺に何ができるかわからない。でも今、姉ちゃんがいないことを知ってるのは俺だけなんだ。取り越し苦労でもいい。後で心配し過ぎだって笑われてもいい。姉ちゃんが帰って来ないのは多分、その危険に遭っちゃったからなんだ。早く捜し出して助けないと――俺はすぐさま踵を返して、真夜中の町へ飛び出した。

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