五話

 翌朝、支度を終えた俺は部屋を出ると、姉ちゃんと一緒に食堂へ向かった。部屋が隣同士ってことで、姉ちゃんが開店準備を頼まれてない日は、こうして一緒に出ることもある。


「アイヴァー、大丈夫? 体調は戻ったの?」


「……まあね」


 俺は眩しい太陽の光に目を細めて言った。


「そう言えば昨日、ちゃんと家で休んでいたの? 私が帰った時、明かりもついていなかったみたいだけど」


「……寝てたんだ」


 本当はハンネスを尾行してたんだけど。


「食事は? 食べられた?」


「うん。ちゃんと食べたよ」


「そう、それなら診療所で診てもらう必要もなさそうね。でも、何か顔が暗い気がするんだけど……気のせい?」


「気のせい」


「うーん……本人がそう言うなら、きっとそうなのね」


 まじまじと俺の顔を見た姉ちゃんは、気のせいと決めて笑った。だけど本当は気のせいじゃない。昨日ベッドに入った後も、俺はハンネスの気持ちをどう伝えようかと悩みに悩みまくってた。結局具体的な言い方も思い付かずに眠りこけて、朝を迎えて今に至ったわけなんだけど……伝えなきゃいけないと思うと、やっぱり気持ちが滅入る。それが顔にも出てるんだろう。でも、ここはしっかり言わないと。姉ちゃんのためなんだ。叶わない片思いを続けさせないために……!


 俺は心に気合いを入れて切り出した。


「ね、姉ちゃん」


「ん、何?」


「姉ちゃんはまだ、ハンネスのこと、好きなの?」


 少し照れた表情で姉ちゃんは振り向いた。


「そうね、気になっているけど……それがどうしたの?」


「いや、あの人、三回も警察に疑われてるし、町の人皆怪しんでるし……」


「でも犯人じゃないわ。捕まっていないんだから。……アイヴァー、何が言いたいの?」


「お、俺はそういう相手、諦めたほうがいいと、思うんだ」


 視線を上げると、姉ちゃんは残念そうな、悲しそうな目で俺を見てた。


「根拠も何もない噂を、アイヴァーは信じているの?」


「噂は、確かに、全部本当だとは限らないけど……火のないところに煙は立たないって言うし、俺はあの人、やめておいたほうが――」


「何も落ち度がないのに、アイヴァーはハンネスさんを悪人と決め付けるの?」


「き、決め付けてなんかないって。ただ何となく、近付かないほうがいいかなあって……」


 姉ちゃんは小さな溜息を吐くと、俺を見据えて言った。


「ハンネスさんが本当に悪人だったら、私もさすがに考えちゃうけど、あの人は疑われているだけで、何もしていないわ。それだけで心変わりできるほど、気持ちって単純なものじゃないでしょ?」


 まったくその通りのことを言われて、俺は何の言葉も返せなかった。


「偏見はよくないわ。アイヴァーはハンネスさんとよく話しているんだから、私より彼のことを知っているでしょ?」


 姉ちゃんは諭すように言って微笑んだ。話す機会はあっても、まだほとんど知らないことだらけなんだけども……。やっぱり噂を気にしてない姉ちゃんには、こういう言い方じゃ駄目か。かと言って、ハンネスにその気はないってずばっと伝えるのも、ひどく傷付けそうで言いにくいし。信じてもらえなかったらもっと最悪だ。姉ちゃんを意地にさせる可能性だってある。やっぱり俺には重すぎるんだよ……。


 あれこれ考えてるうちに、気付けばもう食堂に着いてた。まだ客のいない店内で、店長が食材の入った木箱を裏口から運び入れてた。俺はそれを手伝って、姉ちゃんは飾られた花に水をやったりして、客を迎える準備を整える。


 最初の客が来てから三時間。時計の針はそろそろ正午を指そうとしてた。俺は食器を洗いながら、そろそろ来るであろう彼を待ち構えた。そして――


「いらっしゃいませ!」


 姉ちゃんの高い声が聞こえたと同時に、入り口にハンネスの姿が見えた。それに気付いた大半の客の視線はまだ冷たい。嫌悪感を隠さないで顔に出す人もいる。そんな嫌な空気の中でも、ハンネスはやっぱり気にする素振りもなく、いつも通りにカウンター席に座った。


「こんにちは、ハンネスさん。ご注文は何にしますか?」


 姉ちゃんが満面の笑顔で声をかけると、ハンネスも笑みを見せた。


「そうだな……今日は軽めに、パンとチーズのサラダにしておこうかな」


 いつも決まって肉料理を頼むのに、今日は珍しい注文だ。姉ちゃんもそう感じたらしく、小首をかしげる。


「お腹、あんまり空いていないんですか?」


 え? と見上げたハンネスに、姉ちゃんは慌てて言う。


「あっ、すみません! 余計なお世話でしたね」


 笑顔でごまかして、姉ちゃんは注文を伝えに行く。そんな様子がおかしかったのか、ハンネスは少しだけ笑った。


「今日も仕事、ご苦労様」


 そのまま視線が俺に向いたと思うと、そんな言葉をかけてきた。


「仕事がない人は、楽そうだね」


「そうでもないよ。これでもいろいろ苦労があるんだ」


 ハンネスは、ふふっと軽く笑った。その様子に、昨日俺がした尾行へのわだかまりは感じない。まるでなかったことみたいに他愛のない会話が続いた。どうやら怒ってはないようだ。俺が話し相手を続けることで、チャラにしてくれたんだろうか。それならそれで気まずくならなくて済むけど。でも、そんなことよりもっと気まずいことを俺は伝えなきゃならない……。


「どうぞ、召し上がれ!」


 姉ちゃんがパンとチーズのサラダをカウンターに置く。フォークを握って早速食べ始めたハンネスに、姉ちゃんが抑えた声で聞いた。


「あの、少し、質問してもいいですか?」


「……構いませんけど、何でしょう?」


 手を止めたハンネスを、姉ちゃんは真っすぐ見つめる。


「ハンネスさんは……恋人はいるんですか?」


 その瞬間、ハンネスの青い目が驚きで丸くなった。……何か、まずい展開っぽいな、これ。


「い、いえ、いませんけど……」


 ハンネスの泳ぐ視線が俺を見た。早めに止めてくれ――そんな声が聞こえる。


「どれくらいいないんで――」


「姉ちゃん、姉ちゃん!」


 話をわざとさえぎる大声で呼ぶと、姉ちゃんが怪訝な顔で振り向く。


「あの席の皿、早く持ってきてよ」


 下げられてない客の皿を顎でしゃくって示すと、姉ちゃんは少し不満げに、渋々ハンネスから離れてった。これにハンネスは安堵した表情を浮かべて、また食事を始めた。


「……はい、お皿」


 持ってきた皿を洗い場に置くと、姉ちゃんはすぐにカウンターへ向かおうとした。


「待って」


 呼び止めた俺を姉ちゃんはわずらわしそうに見てくる。


「なあに?」


「話しかけたら迷惑になるって」


「私が話すと何で迷惑になるの?」


「そうじゃなくて、ほら、今食事してるんだから」


 姉ちゃんはちらとハンネスを見る。


「……それも、そうね。今はお邪魔になっちゃうわね」


「そうそう。だから――」


「食べ終わる頃のほうがいいかしら」


「姉ちゃん!」


「……どうしたの?」


 俺は大きく息を吐いてから言った。


「あの、さ、姉ちゃんの気持ちはわかるんだけどさ……」


 カウンターのほうを横目で見ると、ハンネスは食事に集中してる。


「一方的に話しかけても、ハンネスは……彼は……」


「……何?」


「その……」


 ……駄目だ。ハンネスの前じゃ余計に言えない。


「この話は後でするから、とにかく今はちゃんと仕事しないと――」


「アイヴァーが言いたいのは、こういうことなんでしょ?」


 苛立った口調の姉ちゃんは、背後に見えるハンネスを気にしつつ、俺のすぐ側まで来て小さな声で言った。


「悪い噂のあるハンネスさんとは話してほしくない。そういうことなんでしょ?」


「いや、えっと、俺は……」


「噂を信じて、偏見を持っているから、他のお客さん達みたいになっているのよ。それが自分でわからないの?」


「偏見なんて、持ってないって」


「じゃあどうして私をハンネスさんから引き離すの?」


 それを簡単に言えれば苦労はないよ……。


「……ほら、言えないのが何よりの証拠よ。話していて、悪い人じゃないってわかるでしょ?」


「それはわかるんだけど……」


 はあ……俺がもっと薄情な性格ならな。


「……そうね。思い込んだことを言葉で変えるのは難しいのかもしれないわね。それなら私がアイヴァーのその偏見を変えてあげるわ」


「え? どうやって?」


「二日待って。次の休日までに考えておくから」


「……わかった」


 微笑んだ姉ちゃんは洗い場を出てった。ハンネスとまた話すのかと思ったら、カウンターを通り過ぎて別の客の元へ向かった。俺に気遣ってくれたのかな。にしても、偏見を変えるったって、一体どうする気なんだか。どうせ姉ちゃんのことだから期待できることじゃないんだろうけど……。


 二日後、何も現状を変えられないまま、週に一度の食堂の定休日がやってきた。俺達にとっても週に一度の休日だ。まあ休みと言っても、俺は何もすることないからだらだらしてるだけなんだけど。でも今日の休日は違う。意気込んだ姉ちゃんが朝から俺を起こして、無理矢理町へ引っ張り出した。正直まだ寝てたかったけど、俺が持ってることになってる偏見を変えてもらうために、こんなにやる気を見せてる姉ちゃんとの約束をすっぽかすわけにはいかない。完全に目覚めてない頭のまま、俺は大人しく姉ちゃんの後を付いてった。


「……で、一体何する気なの?」


 姉ちゃんは俺の部屋を訪ねた時から笑顔だった。それは今も変わらず、何だか上機嫌だ。服装もいつもより少しおしゃれな気がする。


「偏見は言葉で変えるのは難しい。そうでしょ?」


「そうだね」


「だから、その目で実際に確かめればいいと思うの。ハンネスさんが噂通りの人じゃなくて、皆と同じ普通の人だってことを」


 ん? それって――


「まさか、ハンネスに会いに行くの?」


「会いに行くっていうか、私はハンネスさんの住所を知らないから……」


「じゃあどうするのさ。会わなきゃ実際に確かめられないだろ?」


 姉ちゃんは急に照れた笑いを浮かべた。


「お家を探すのは大変だから、こっそり、こっそりよ? 会いに行きましょう」


 俺は首をかしげた。


「家の場所知らないのに、どうやって会うんだよ」


「大丈夫。彼がよく通る道を私知ってるの」


 俺はますます首をかしげた。


「何で」


「それは……時々よ? 休日に町を歩いていて、ハンネスさんを見かけることがあってね。それで知ったの」


 俺は呆れて溜息を吐きたかった。休みの日、姉ちゃんはそんなことしてたのか。もしかしたら偶然を装ったのかもしれないけど、多分、ハンネスには気付かれてるだろうな。


「それで? どこにハンネスは現れるの?」


「ふふっ、こっちよ、こっち」


 楽しそうに姉ちゃんは歩き出す。ハンネスに会えることが、今の姉ちゃんの唯一の楽しみなんだろう……そう思うとますます伝えづらくなってくる。


 家を出てしばらく歩き進むと、姉ちゃんは町の北のほうへ進路を変えた。この辺りには小さな店と民家が多く並んでる。昨日の尾行した道に近い場所だ。ハンネスはやっぱりこっちのほうに住んでるのか?


「ひとまずここで待ってみましょ」


 そう言うと姉ちゃんは、芝の生えた小さな公園に入ってった。花も木も人もいない、殺風景なところで、風雨にさらされて色あせたベンチがぽつんとあるだけだ。姉ちゃんはそこに座る。


「アイヴァーも隣に」


 手招きされて、俺は仕方なくその隣に浅く腰かけた。四方に何もさえぎるものがないから、道を歩く人影はよく見える。


「ここで待ってれば、ハンネスは来るの?」


「来る時もあるし、来ない時もあるわ」


「……決まった時間とか、ないの?」


「ないみたい。いつもばらばら」


 俺は考え込んだ。


「まさか、来るまでずっと待つ気?」


「そうだけど……何?」


 頭を抱えたいのをぐっとこらえて、俺は聞いた。


「何か、時間が無駄じゃない?」


「いつ通るかわからないんだから、待つしかないでしょ?」


「そうかも、しれないけど……」


 ハンネスが姉ちゃんに対して、何も思ってないってわかった時点で、俺にはもうハンネスに近付く理由はなくなってる。こんなことするのは完全に無意味なんだけど……そうさせてるのは俺が伝えられないせいなんだよな。


「アイヴァー、向こうの道、ちゃんと見ていてね」


 にこにこな顔で姉ちゃんは言った。……怒らせようと、悲しませようと、もう勇気を出して言うしかない!


「姉ちゃん、実はさ――」


「ねえアイヴァー、ハンネスさんってどんな食べ物が好きなのかしら」


「え? あ、その前に――」


「食堂に毎日のように来てくれるけど、注文するものは毎回違うし、何が好物なのかわからないのよね。あ、お肉は好きみたいだけど、中でも何肉が好きなんだろう……アイヴァーはどう思う?」


「お、俺? ……さ、さあ?」


「話の中でそういうことは言ってなかった? 私の予想だと、鶏か豚じゃないかって思ってるんだけど、でも野菜料理もよく注文してるのよね……」


 俺が口を挟む隙もなく、姉ちゃんはハンネスの好物について延々と持論を語った。そして、特定の好物はなく、栄養が偏らないようにまんべんなく食べてるんだと結論付けて、話は終わった。空を見上げれば、白い雲よりさらに上に太陽が移動してる。時間は正午を回ったらしい。話を聞いてる最中、どうりで腹が減ってきたわけだ。


「姉ちゃん、何か食べに行かない? もう昼過ぎたし」


「もうそんな時間? そうね、食べ物の話してたら、私もお腹空いてきちゃった。じゃあ向こうにあるお店に食べにいきましょ」


 殺風景な公園を出て、俺達は少し北へ行った先にある小さな軽食屋に入った。客がまばらな店内に入って、俺はジャムとバターのトーストを、姉ちゃんは果物とクリームの載った焼き菓子を頼んで食べた。その間も姉ちゃんはハンネスが通らないかと窓から目を離さない。


 腹を満たした俺は、まったりしつつ、姉ちゃんが食べ終わりそうなのを見て、再び話を切り出すことにした。


「あのさ、姉ちゃ――」


「ああっ!」


 椅子をガタンと鳴らして突然立ち上がった姉ちゃんを俺は驚いて見上げた。


「な、何、どうしたんだよ」


「あれ、あそこ、ハンネスさんじゃない?」


 人差し指で窓をつんつん指した先には、道を左に曲がろうとする黒い上着の細身の男性がいた。後ろ姿だけど、確かにハンネスに似てるかも……。


「追わなきゃ……!」


 姉ちゃんは残った焼き菓子をそのままに、店員に俺の分の代金も払うと、小走りで店を出てった。


「アイヴァー、急いで!」


 遅れて出た俺を姉ちゃんが呼ぶ。


「もう曲がっちゃったみたい」


「走れば追い付くって。行こうよ」


 道の角まで来て曲がろうとした時、急に姉ちゃんは足を止めてしまった。


「……どうかしたの? 早く呼び止めないと――」


「ま、待って! 私最初に言ったでしょ? ハンネスさんにはこっそり会うって」


「うん。だから早く行かないと――」


「普通に話しかけたら、食堂にいる時と変わらないわ。素のハンネスさんを知るなら、このままこっそり後を追わないと」


 俺は唖然とした。それって――


「……尾行、する気?」


「悪い言い方をすれば、そうなるけど……こ、これはアイヴァーの偏見を変えるためなのよ?」


 どぎまぎする姉ちゃんを見て、俺は呆れつつも納得した。やっぱり俺達は姉弟ってことか。思考回路がまったく同じだとは……。


「……わかったよ。でも後をつけるなら、ここからは俺の言う通りにしてよ」


「それはいいけど、どうして?」


「姉ちゃんは時々、突っ走ることがあるからさ、こういうことは俺のが向いてると思うんだ」


 そうかもね、と姉ちゃんはうなずいてくれたけど、もちろんそんな理由じゃない。ハンネスに二度も尾行がばれるなんて、そんな間抜けなことはない。だから今度こそ細心の注意を払って、より慎重に動かなきゃならないんだ。まあ、この尾行に特に意味はないし、危ないと思ったら適当なところで見失っちゃえばいいから、そんなに気負う必要もないけど。


「じゃあ、俺の後ろに付いてきて。静かにね」


 俺は角を曲がってハンネスと思われる後ろ姿を捜した。


「もう先に行っちゃったか……」


 曲がった道に黒い上着が見えず、俺は足を速めて次の角へ向かった。


「……アイヴァー、あれ」


 後ろから姉ちゃんが指差した。道を挟んだ向こうにそれらしき男性が歩いてる。見えた横顔は――ハンネスに違いない!


「……アイヴァー? 行かないの?」


「距離を開ける。このくらいだと気付かれるから」


「こんなに遠いのに?」


「ハンネスをあなどっちゃ駄目だ。彼は見てないようでかなり敏感だから」


「へえ……随分詳しいのね」


「い、いや、いつも観察力がすごいなあって、会話してて思ってたから……」


 俺達は大きく距離を開けてハンネスを追った。途中、食料品店や雑貨屋に立ち寄ってハンネスは買い物をしてた。そんな姿を見せるたびに姉ちゃんは、ほら、普通の人でしょ? と俺に得意げに言ってきた。確かに行動は普通の人にしか見えない。悪い噂のせいか、誰かと話すことは一度もなかったけど、遠くから眺めてて不審なところはどこにもなかった。 どうにかばれることなく尾行し続けて、気付けば太陽は傾き始めてた。


「偏見、なくなった?」


「ハンネスは普通の人。これでいい?」


「わかってくれたなら、それでいいわ」


 姉ちゃんは嬉しそうに笑って俺の頭を撫でた。疑いは消えてないけど、まあ、そういうことにしておくか。


「じゃあ引き上げるよ。歩きっぱなしでさすがに疲れた」


「えー? ハンネスさんがお店から出てくるまで、もうちょっと見てましょうよ」


「ずーっと見てたんだから、いい加減いいだろ。また明日も食堂で見られるって」


「もうすぐ出てくると思うから、そこまで……あっ、出てきたわ!」


 姉ちゃんは道の塀に体を隠しながら、衣料品店から出てきたハンネスを見つめ始めた。その目はきらきら輝いてるけど、見様によっては獲物を狙ってるみたいにも見える。やっぱり姉ちゃんは誰かに惚れると周りが見えなくなるらしい。


 長い影を伸ばして、ハンネスは道の先へ遠ざかってく。


「十分だろ? 帰るぞ姉ちゃん……」


 まだ見てる姉ちゃんの肩を引こうと思った時、視界の隅にふと人影が現れたのを見て、俺は何となく顔を上げた。見ると、ついさっきハンネスが歩いてた道に、どこから現れたのか、一人の男性の姿があった。春で暖かい陽気だってのに、茶色の長い外套を着て、そのポケットに両手を突っ込んでハンネスと同じ方向へ向かって歩いてた。急に現れた気がしたから、何となく目に留まったけど、ただの通行人だと思って俺は姉ちゃんに視線を戻した。でもその時――


「ねえ、あの人……さっきもいなかった?」


 不審な顔で呟いた姉ちゃんが指差したのは、俺が見た外套の男性だった。


「さあ……俺は初めて見たと思うけど」


「そんなはずないわ。私はここに来るまでに二回くらいは見たと思う」


 俺より姉ちゃんのが熱心に見てたからな。見逃してたってことはあるかもしれない。


「偶然だろ? 小さい町だし、行く方向が同じなだけだよ」


「……何か、胸騒ぎがする」


「姉ちゃん、そんなこと言って、まだハンネスを見てたいだけなん――」


「そんなんじゃないの。よくわからないけど、本当に……」


 急に姉ちゃんは歩き出した。その先には外套の男性が見える。


「ちょ、ちょっと、追う気なの?」


「だって、気になるじゃない」


「何にも気にならないよ。疲れたから早く帰ろうって」


「アイヴァーは先に帰って。私は一人で行くからいいわ」


 こっちに振り向きもしないで、姉ちゃんはさっさと歩いて行こうとする。……ったく!


「わかったよ! 俺も行くから待って」


 疲れた足で追い付いた俺は、今度は変哲のない男性の後を追うはめになった。はあ……溜息が止まらない。


 外套の男性はずんずん進んでく。距離を開けてその後ろを俺達が行く。遥か前方にはかすかにハンネスの背中が見える。彼が道を曲がれば男性も曲がる。こうなるともう偶然とは言いにくい。ハンネスは男性に尾行されてる……? 姉ちゃんの胸騒ぎもあながち外れてなかったのかもしれないけど、俺にはもうどうでもいいことだ。それより早く帰って休みたいんだけど。辺りも日が暮れて暗くなってきたし――


「アイヴァー、ねえ、ちゃんと見てる?」


「……見てるよ」


「あの人、絶対にハンネスさんをつけているわ。どうしよう」


「どうしようって、俺達にどうこうできることじゃないよ。それより、いつ帰るの?」


「ハンネスさんにもしものことがあったら大変だわ。今の内に警察、呼んでおいたほうがいいかしら」


「何も起こってないのに取り合ってくれるわけないだろ」


「そ、そうよね……あ、路地に入った」


 たくさんの建物に囲まれた細い路地に男性は消えた。この辺りは食べ物の加工場なんかが集まってる場所だ。だから暗くなると人気がないし、道にも街灯が少ない。女性や子供が夜に出歩くようなところじゃないんだけど……。


「姉ちゃん、もう帰ったほうが――って、一人で行くな!」


 怖がりもしないで、すたすたと路地に入る姉ちゃんに追い付いた時だった。


 ドサッ、と重そうな音と、うっ、とうめき声らしき音が同時に聞こえてきて、俺は動きを止めた。


「今のは、何?」


 姉ちゃんが不安そうに言う。


「わかんない……この先から聞こえたけど……」


 暗い路地の先を見る。日が暮れて、もう太陽の光は届いてない。影ばっかりの夕闇の空間が続いてる。俺達はお互いを見て、そして並んで進んだ。おかしな音を聞いて、それを確認もしないで引き返すなんてことできるわけなかった。俺も姉ちゃんも多分、同じくらい怖いと思うけど、でも、音の正体を確かめなきゃって、妙な衝動が俺を強く動かしてた。


 ゆっくり、足音を立てずに、俺は路地の奥へ進んだ。姉ちゃんは俺の右腕にしがみ付いて身をこわばらせてる。少しずつ、少しずつ歩く……と、暗がりに何かが見えてきた。土の地面の真ん中、そこに同じような色の何かが落ちてる。


「あ、あれって、まさか……あの……」


 右腕をつかむ姉ちゃんの手に力が入る。俺は慎重に近付いて、その落ちてるものを見下ろした。


「……し、死んでる、のか……?」


 そこには茶色の外套をはだけさせて、仰向けに倒れる男性がいた。緑色のシャツの胸元には、大きな黒い染みが広がってる。そしてその中央には何かが突き刺さったような痕。宙を見つめて微動だにしない男性の顔は青白くて、半目の瞳は生気を失って乾いてる。これは、完全に――


「さっきの、怪しい人よね……? 何で、どうして死んでいるの? 本当に死んでいるの? 何なの、これ」


 震え始めた姉ちゃんを俺は死体から遠ざけた。これは自殺なんかじゃないよな。ってことは――


「早く離れよう」


 俺は恐怖を感じて、姉ちゃんの腕を引っ張って路地を戻った。男性は誰かに殺されたんだ。誰かに……!


「アイヴァー、待って。ハンネスさんが心配だわ。無事かどうか……」


「こんな時もハンネスのこと? 今は逃げるのが先だ! 殺人犯がどっかにいるんだぞ」


 そう、どっかにいるんだ。あの男性の近く、路地を通った暗い中の奥に……。


「姉ちゃん、走ってよ! ここは危な――」


 振り向いた瞬間、路地の暗がりに何かが見えた気がした。金髪の、女性……? でもそれはすぐに暗闇に紛れてしまった。恐怖で幻覚でも見えたんだろうか。多分、そうだ。疲れてもいるし、早く安全な通りまで出ないと――俺は姉ちゃんを連れて、夕闇の道を駆け戻ってった。

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