第4話 わたくしに虐待をしようなど不可能ですわ

「シオン、ケガはないようね?」


 声が聞こえてきた入口へと顔を向ける。


 そこには、黒のチェック柄の目立つ赤色のドレスを纏った女性と、その背後にメイドが立っていた

(いつっ――!?)

 女性を目にした途端、背中の痛みが増した。なぜだろうか?


 同じく女性を目にしたマーシャルが彼女の名を呼び、ルーレンが部屋の隅に寄ってこうべを垂れる。



「ダリア様」


 ダリア――ルーレンから聞いた話では、こいつがシオンの母親に当たる。

 瞳をシオンの母親……今は俺の母となる女へ向ける。


 緋色の長いウェーブの髪を持つ女。釣り目で気位の高い美人だが、どことなく性格がきつそう。

 彼女は茶色の瞳をこちらへ寄せる。



「はぁ、崖から落ちて記憶を失ったと聞きましたが本当なの?」

「ええ、その通りですわ。おかげさまであなたがどこのどなたかもわかりません。名前から察するに、わたくしのお母様のようですけど……」

 

 この俺の言葉に、彼女は怪訝な表情を見せる。

「な、なんですか、その妙な喋り方は?」

「へ?」


 喋り方が妙?

 そんな……完璧なお嬢様言葉のはず。

 ルーレンからもそんなにおかしくない的な言葉も貰ったし。

 俺はちらりと瞳を動かす。

  

 ルーレンは俺の視線からのがれようと顔を下へ向ける。

 視線をルーレンからマーシャルへ移す。

 彼は軽く白髪頭を掻いて、ダリアにこう言葉を返した。



「怪我はなくともシオン様は記憶を失っておられます。そのため、以前とは違うのでしょう」

「なるほど……まったく、どこまでも面倒な子」


 ダリアはため息まじりの言葉を吐いた。

 娘が崖から落ちて記憶まで失ったというのにこの態度。

 想像以上に関係が冷め切っている。

 まだ、十四歳という少女が、毎日のように母から愛情の欠片もない態度を受けていたとすると、自殺の一つや二つ考えたくなる気持ちもわからないでもない。



 ダリアは大仰に頭を左右に振ると、見下すような視線を見せた。

「ただでさえ、ゼルフォビラ家の名にそぐわぬ振る舞いを見せているのに、こんな騒動まで起こすとは。本当にあなたという子は……」

「そのようなことを言われましても……わたくしも落ちたくて落ちたわけではありませんし、記憶だって失いたくて失ったわけではありませんから」


 そう、言葉を返すと、途端に診療室の雰囲気が変わった。

 マーシャルは瞳を大きく開けて、ぎょろりとした視線を俺とダリアへ振る。

 ルーレンは両手を握り締めて、畏まったまま小刻みに震えている。

 そして、ダリアは――



「この私に口答えをする気ですかっ!!」


 

 空気がぜる大声を出して、こめかみをぴくぴく動かし怒りを露わとした。

 彼女のヒステリックな声を聞いた瞬間、体がびくりとして、背中の痛みが増す。

 俺は右手を広げて、指先を見る。

 指先に痺れが走り、力が入らない。


(こいつは……恐怖か? もしかして、シオンの?)


 おそらく、日常的に母親から怒鳴られていたのだろう。

 だから、シオンの身体がダリアの声に反応を示した。

 さらに、背中に走る痛み――



(崖からの落ちたせいだと思っていたが、もしや……)


 俺の考えはすぐに的中した。

 ダリアが後方に従えているメイドに声を掛ける。すると、メイドはの短い小さな鞭を取り出した。

 ダリアはその鞭を受け取ると、俺に後ろを向いて服を脱ぐように命じる。


「お仕置きが必要のようね。席を立ち、上の服を脱いで壁に手をつけなさい」


 鞭の先端で自身の手のひらをパシッと打ち、ダリアは厭らしく笑う。

 つまり、この背中の痛みは崖から落ちたせいではなく、母から受けた虐待の痛み……。



 彼女の行為をマーシャルが止めに入るが……。

「ダリア様っ、シオン様は崖から落ちたのですよ!」

「何か、体に異常でも?」

「いえ、とくには。ですが、記憶を失っていらっしゃいます!」

「だからこそですよ。立場を忘れてしまったこの子へしっかりと自分の立場を刻んであげないと、フフフ」



 なんとも腐った笑い。

 この笑いを聞いたルーレンは小刻みに揺らしてた身体を激しく振るわせて、全身に脂汗を張り付かせていた。

 あの様子からして、彼女に虐待をしていたのはダリア?


 俺は恐怖にこわばる自分の手足――いや、シオンの痛みの記憶が宿る手足を揉みほぐしながら席を立つ。

 そして、ほぐれた片手を腰に当てつつダリアにこう言ってやった。


「服を脱げ? 壁に手をつけろ? お断りしますわ」

「な、なんですって?」

「こちらに何ら落ち度はなく、不当な暴力を振るわれる謂れはありませんから」

「な、な、な、な、なっ」



 ダリアにとっては予想だにしなかった返答なのだろう。

 彼女は息を詰まらせるような言葉を漏らすばかり。

 俺は両手を開け閉めして、体の具合を確かめる。


(よし、多少痺れみたいなものはあるが、ちゃんと動くな。しっかし、すごいな。この身体は俺の物になったはずなのに恐怖を覚えているなんてな)


 俺はダリアをまっすぐと見据える。

「あなたの様子からして、わたくしに対する虐待を日常的に行っていたようですが、今日からは御免蒙ごめんこうむりますわ」

「ぎゃ、ぎゃくたい? 何を馬鹿げたことを!? これは躾です!!」

「こちらに落ち度があれば、それもまた通るかもしれません。ですが、ありません。あなたがやろうとしていることは虐待。自分の思い通りにならないという、癇癪に過ぎません」

「このっ!!」



 ダリアは感情的になり大きく右手を振って鞭をしならせた。

 我を忘れたためだろうか? 鞭の先は、打ち据えるには危険な顔を捉えている。

 これに対して、俺は腹の中で呆れ返るような息を吐く。


(はぁ、なんつー大振りだよ。しかも、振る前に思いっきり右手を後ろに振ってるし。これじゃ、よけてくださいと言っているようなもんだぞ)


 シオンの身体機能がどれほどのものかはわからない。

 だが、ダリアの暴力は冷静であれば素人でも余裕で躱せるもの。

 俺は鞭の軌道を見極め、体を少し後ろへ下げる。

 その際、鞭の穂先を瞳に捉えた。


(ほ~、なかなかの動体視力だ。シオンお嬢様は良い目を持ってんな。そういや、野犬を相手にするルーレンの素早い動きも見えてたっけ)

 

 お嬢様とあって身体機能に期待はしてなかったが、思ったより良さそうだ。

 俺に当たるはずだった鞭はくうを切り、その勢いでダリアの身体が左側に振り回される。

 そこへ一歩踏み込み、右手で彼女の右肩を左へ押して、足を引っ掻ける。


 ダリアは自身によって振り回された勢いと俺の右手に押された弾み。そこに足を引っかけられたため盛大にこけた。


 ドンガラガッシャーンと派手な音を立てて、埃舞う床に突っ伏すダリア。

 俺は倒れた彼女に近づき、耳そばで母を心配する声を掛ける――――殺し屋としての凍てつく気配を交えて。



「大丈夫ですか、お母様?」


 何気ない言葉。だが、一音一音に鋭き殺意の棘を付けて、彼女の鼓膜を痛みで突き刺す。

「ひっ」

 ダリアは短い悲鳴を上げると無様にバタ狂い、慌てて俺から距離を取ってマーシャルのそばへ寄った。



 今の言葉は、彼女だけに届けた殺意。

 マーシャルやルーレンやダリアのメイドにとってみれば、何が起こったのかわからない。

 ダリアは震える茶色の瞳で俺を捉えようとするが、それもままならない。

 俺は殺意の欠片もなく、静かに佇む。


 今、ダリアは、先程の言葉、耳に届いた痛み、心に感じた恐怖。

 これらがなんであったのか? そもそも恐怖が存在したのかもわからずに混乱している。

 俺は彼女へ言い知れぬ恐怖という奴だけを渡して、診療室から去ることにした。



「マーシャル先生。診断の結果、問題ないようですので、私室で休みたいのですが?」

「え? ええ、構いませんよ」

「そうですか。では、ルーレン。部屋まで案内してくれるかしら? なにぶん、記憶がありませんので」

「は、はい、畏まりました。ですが、本当に……?」


 ルーレンはダリアへ恐る恐る視線を振った。

 彼女はこのまま立ち去ってもよいものかと悩んでいる様子。

 だから、俺がダリアに許可をもらう。


「お母様、お先に失礼致しますわ。お母様はどこか痛めていないか、マーシャル先生に診て頂いては?」

「え、あ、ええ。そうします」


「では、ごめんあさーっせ。行きましょう、ルーレン」

「は、はいっ」



――シオンが去った診療室


 母ダリアはすでに閉じられた扉を震える瞳に宿しつつ、とある女性の名を心の中で唱える。

(スティラ……)

 だが、すぐさま自分の発言を否定するかのように首を大きく横に振った。

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