第5話 爆発した私
その日、いつものようにアンドリュース様と過ごしていた私は国王陛下から呼び出された。? 何かしらね。
私はアンドリュース様に「ちょっと行ってきますね」と言ってその場を離れた。アンドリュース様は「うん!」と元気にお返事して手を振ってくれた。私は手を振り返して、侍女に後を頼んでその場を離れ、急いで自室に向かった。御前に上がるなら格好を整えなければならない。
私は相変わらずアンドリュース様のお付きをしていて、それが私と王太子殿下の婚約が「事実上」と留まっている理由だった。王太子殿下はとっくに正式に婚約しようとしていたんだけどね。
アンドリュース様はこの時のように、私が一時離れるくらいなら大丈夫にはなっている。しかし、半日が限度で、それ以上私がいないとまだ不安定になってしまうようだ。私が昼の社交に出て、時間が押して帰りが遅くなると途端にご機嫌斜めになるらしい。
私が王太子殿下と正式に婚約すると、私は王族に準ずる身分となる。そうなると今度は身分が高過ぎて第二王子付きの侍女を続けられなくなってしまうのだ。アンドリュース様の事を考えて話し合った結果、婚約は先送りされていた。王太子殿下はがっかりしていらっしゃったけど、私はホッとした。
二年も経てば、王太子殿下が私に飽きて心変わりなさるのではないか、と私は期待していたのだけど、一向にそんな事にはならなかった。
「早く結婚して毎日一緒にいたいものだ」
などと仰って、毎晩別れ際に名残惜しそうに私を抱きしめ、頬にキスをする。いつもお優しく、私への愛情を素直に表してくれる王太子殿下。正直に言うと、彼と一緒にいるのは嫌ではないし、彼の事が好きか嫌いかで言えば多分好きだと思う。
ただ、納得がいかないというか、モヤモヤしているというか、そんな感じがするだけだ。別にこのまま本当に結婚してしまっても大きな不満は持たないと思う。私に王太子妃が出来るとは思えないけどね。
私は身支度を整えて、王族用の控え室に向かった。重厚な落ち着きのある調度で統一されているこの控え室にも慣れた。王宮で行われる社交の時に使うし、王家の方々が出席する式典の時、私もここから入場するので。流石に入場してからの立ち位置は違うけれど。
そこでは国王陛下と王太子殿下がお待ちだった。王太子殿下は「わざわざすまない」と言いながら私を抱き寄せる。ただ、ちょっと微妙な、軽く眉を顰めるような表情をしていた。
「何かあったのですか?」
「いや、隣国の、ボイビヤ王国からの使者が来たので謁見をするのだが、君も一緒に階の上に立って欲しいのだ」
? 私はまだ王族でも王太子殿下の婚約者の準王族にもなっていないから。王族方しか上がれない階に立つ資格は無いはず。
「ちょっと事情があってな。やむを得ぬのだ」
王太子殿下が仰るなら仕方がないけど。なんだか変な事情が絡んでいそうで嫌だなぁ。でも、そんな事は私には言えない。私は了承した。
王族専用通路から、謁見室に入る。へぇ、こんな風になっているのね。階の上にそのまま出られるようだ。
「国王陛下! 王太子殿下! クシャーノン侯爵家ご令嬢カリナーレ様! ご光来!」
という呼び出し役の侍従の声に応えて入室する。同時に国王陛下を讃える曲が流れた。私が王太子殿下に手を引かれて入場すると、階にまっすぐ伸びる赤絨毯の左右に、見覚えのある上位貴族の方々とそのご婦人が二十名ほどいらっしゃった。その顔ぶれからすると、これは結構重要な接見なのではないだろうか。私なんかが出ても良いのだろうか?
私は王太子殿下のお席の後ろに立つ。まだ皇太子妃ではない私には席が無いからだ。目立ちたくないからお席の後ろに隠れられるこっちの方が都合が良い。
「ボイビヤ王国、セレンステ伯爵モーボンテ様、ご入来!」
という呼び出しを受けて大扉が開き、男性が三名、入場してきた。先頭の一人がセレンステ伯爵で、後の二人は従者だろう。
ボイビヤ王国は我が王国の西隣にある王国で。国土の広さも国力も我が王国に匹敵するという大国だ。両国はライバルであり三十年前には大きな戦争までやっている。
そこからの使者なのだから確かに重要な謁見だ。分からないのはその重要な来賓との謁見になぜ私が呼ばれたのかよね?
ボイビヤ王国のセレンステ伯爵は壮年の少し太めの方で、目つきは鋭かった。ライバル国の我が国に派遣されるのだから。彼の国でも重要人物なのだろうし、有能な方なのだろう。
セレンステ伯爵は国王陛下に向けて跪くと。国王陛下の許可を得て、挨拶と陛下の健康を寿ぐ言葉を発した後、本題に入った。
「今日この良き日に、我が国王陛下より両国の未来のための重要なご提案がございます」
すると彼の従者が手に持っていた何かをさっと掲げた。
それは、どうやら肖像画だった。金色の髪の、なかなか美しい少女が描かれているようだ。着ているピンクのドレスは飾りが多くて豪奢だ。多分かなりの身分の方の絵だわね。
そしてセレンステ伯爵は朗々とした声で言った。
「我が王国の第二王女で在らせられますエイミーネ様と、貴国の王太子殿下であるササリージュ殿下との婚姻の提案でございます」
・・・・・・はい? 私はあまりの事に硬直してしまう。
「我が国王陛下の愛娘、エイミーネ様はおん歳十六歳。ササリージュ様とお歳の釣り合いもよろしいですし、ご器量もご覧の通り美しく、お心は清らかで学問にも優れた王国自慢の姫でございます。王太子たるササリージュ様の伴侶として相応しい方でありましょう」
セレンステ伯爵は一気に言い切ると、深々と頭を下げて国王陛下に更に仰った。
「国王陛下は仰いました。『両国の間には不幸な行き違いによる不幸な歴史があった。それは意思の疎通が不足していたのが原因だ。ここで王子王女で婚姻を結び、両国の関係を密にすればそのような事は無くなるだろう』と」
私は心臓のドキドキが止まらなかった。隣国の王女からの婚姻申込みという事態に、私は大きく動揺していたのだ。
「陛下は私をして両国のために良い返事を持ち帰るようにとお命じになりました。ノーラント王陛下とササリージュ殿下におかれましては、何卒賢明なるご判断をば」
セレンステ伯爵は言葉を終えると、従者からエイミーネ様の肖像画を受け取ると、進み出てそれを国王陛下に献上しようとした。
と、国王陛下がはっきりしたお声で仰った。
「ご使者殿。それには及ばぬ」
国王陛下は肖像画の受け取りを拒否した。これは縁談を門前払いにした事になる。セレンステ伯爵が目を剥く。ライバル国からの正式な縁談の申し入れを門前払いにするなんてかなり非礼な事だ。伯爵が怒るのも当然だ。
しかし国王陛下は静かな声で仰る。
「ボイビヤ王国は遠い故、ハーマルベルト王もご使者殿も知らぬ事であったろう。そこは心からお詫びしよう。されど、この縁談を受ける訳にはいかぬのだ。王太子の妃はもう内定している故」
セレンステ伯爵が驚く。
「なんと?」
「そうなのだ。ご使者殿」
王太子殿下が優雅が優雅に立ち上がると、私の手を取り、階の最前部に進み出る。
「このクシャーノン侯爵家の娘、カリナーレこそ我が婚約者なのだ」
・・・・・・王太子殿下がこうもはっきりと私の事を「婚約者だ」と公衆の面前で宣言した事は無かった。そうしてしまうと色々取り返しが付かないからだ。しかしそれをはっきり口に出したのだ。私はこの瞬間から王太子殿下の正式な婚約者になったと言っても過言ではない。
婚約式をして正式な婚約が出来なかったのは王太子殿下としては残念無念だったろうけど、ここではっきり婚約をアピールしておかないと、縁談を門前払い出来ないから仕方がないのだろう。縁談を一度受け入れると、相手が強力な相手だけに非常に断りにくくなってしまう。
なるほどこのために私がわざわざ呼ばれ、既に王太子殿下の婚約者として扱われている事を見せつけたのだ。
セレンステ伯爵は非常に胡散臭そうな表情をした。
「そのような話は聞いておりませんぞ? それに内定しているのにどうしてまだ婚約式をしておられないのですか?」
「それはこちらの事情だ。もう二年も前からカリナーレは私の婚約者として内定している。嘘だと思うならここに居る者達に聞いてみるが良い」
王太子殿下が仰ると、居並んでいた貴族達が笑いながら口々に言った。
「そうなのです。本当の事なのですよ。お使者殿」
「王太子殿下とカリナーレ様はそれは仲睦まじくていらっしゃるのです」
「カリナーレ様はもうこうして準王族として扱われていらっしゃいますのよ」
「ボイビヤ王国と縁が結べぬのは残念な事でございますが、愛し合うお二人を引き裂くような真似は出来ませぬ。どうかここはお引き取り下さいませんか?」
色んな方々から続け様に言われて流石のセレンステ伯爵もたじろいだ。伯爵は私をギロっと睨む。私は内心の動揺を押し隠して微笑んでいるしか無かった。
セレンステ伯爵はお役目だからと、とりあえず縁談を受け取るようにとだ大分ゴネたのだが、国王陛下も王太子殿下も「もう決まった話で変更は無いから」と突っぱね、縁談の受け取りを拒否した。
伯爵は私にも、両国のために身を引くべきではないかと迫り、王太子殿下に私は愛妾にしてエイミーネ様をお妃にするのはどうか? などと提案なさったのだけど、王太子殿下は見るからに不機嫌なご様子で却下なさった。
結局はセレンステ伯爵も諦めるしかなく、国王陛下はボイビヤ王国の国王陛下に丁重なお詫びの書簡を書いて伯爵に持たせ、盛大な宴を行なってセレンステ伯爵の労に報いた。
そうして、ボイビア王国の姫と王太子殿下の、降って湧いたような縁談話は、円満に解決したのだった。
◇◇◇
しかし、この時の事が私の堪忍袋の尾を切る原因となってしまった。
私は、もうずっとモヤモヤしていた。ずっとだ。最初のモヤモヤは有無を言わせずカーリンからカリナーレに生まれ変わらされた時に生まれたんだと思う。
そして、チェリアンネ様を欺いて(本人はご承知のようだったけど)、なんちゃって貴族から段々本物の貴族に化け、アンドリュース様のお世話をしながら社交にも出るようになり、誰にも貴族と認められるようになった。
挙句にいつの間にか王太子殿下の婚約者候補だとか言われ始め、流石にそんな事があるわけがないと思っていたのに、なぜか王太子殿下までその気になってしまった。
そしてどういうわけか誰も私が王太子妃になる事を、なってしまう事を止めようとしない。私はなす術無くどんどん流される。
そしてついに有力な隣国の姫との縁談を蹴って正式に王太子殿下の婚約者になってしまった。
・・・・・・おかしいよね。
・・・・・・おかしいに決まってるでしょう!なんなのよもう! みんな、みんな、おかしいんじゃないの⁉︎
どうしてよ! どうして私が王太子殿下の婚約者なのよ! そんな事あり得ないでしょう? だって私、たったの三年前まで庶民だったのよ? 四年前には食べるものが足りなくて毎日お腹を空かせながら、小さな日雇い仕事を細々とこなしていた貧民なのよ⁉︎ どう考えても王太子妃になれるような女の子じゃ無いじゃない!
国王陛下も王太子殿下ご自身にも出自の話はしたし、知っているのよね? なんで一つの躊躇も無く私を王族にする事が出来るのよ! おかしいわよ!
フェレンゼ侯爵夫人だって、アンドリュース様付き、私付きの侍女のみんなだって知っている筈なのよ! みんな上位貴族のご令嬢で私より遥かに王太子妃に相応しい身分じゃないの! なんで誰も何も言わないのよ!
挙げ句の果てに、隣国のお姫様からの縁談を断ったのよ? そんな事して、隣国の機嫌を損ねたら戦争になっちゃうかも知れないじゃない! なんてことしてくれるのよ!
許せない! 私にそんな価値は無いわよ! 私と全国民の生活を引き換えにするような真似をするなんて! 見損なったわよ! 王太子殿下!
私は怒りなんだか失望なんだか、不安なんだか絶望なんだかもよく分からない感情が一気に吹き出してしまった。ずっと溜まっていたモヤモヤがドカンと爆発してしまったのだ。
私は部屋に引き篭もった。そして侍女に誰も入れないように、特に王太子殿下は入れないように、と命じた。こんな抑えきれない感情を抱えたまま、王太子殿下にお会いしたら私は何をしでかすか分からないと思ったのだ。
アンドリュース様にも「具合が悪いから」と言い含めて来ないようにお願いした。殿下は驚いて心配して下さったみたいだけど、仕方が無い。アンドリュース様には会って王太子殿下には会わないなんて事をしたら王太子殿下だけを拒絶した事になってしまう。
私は引き篭もってベッド中で蹲った。そして懸命に自分の中の感情を押さえ込もうとした。頑張って抑え込まないと、とても人前には出られない。
周囲の人々への不信、同時に周囲の人の期待に応えたいという思い。自分に貼りついた虚像への絶望、自分自身への失望、将来への不安。そして何よりも王太子殿下に対する物凄く複雑な想い。
無理矢理に貴族にさせられ、私の意思を無視して王太子殿下の婚約者にさせられた、と思う反面、私は一度も嫌だと言わなかったし、それは結局受け入れたのと同じ事だとも思う。王太子殿下ははっきり何度も私に愛を伝えたのだし、婚約までに十分な時間も費やしてくれた。断るなら断る時間もあったし、断っても怒って私を処罰するような事はないだろうと、もう彼の事を良く知る私には十分に分かっていた。
だから王太子殿下を拒絶しなかったのは結局私の意思なのだ。恋愛感情はよく分からないとはいえ、王太子殿下に愛されている自覚はあったし、その事が心地良いのは確かで、ならば私はやっぱりあの方の事が好きなんじゃ無いかとも思う。
じゃぁ、なんでこんなにモヤモヤするんかと言えば、それはやっぱりおかしいと思ってしまうからだ。こんな地味で貧相で元々は庶民の私が、あんなキラキラした王子様の婚約者になってしまうなんて、どう考えてもおかしい。
なのに誰しもが祝福してくれて、王太子殿下はお幸せそうで、このままいけば誰もが羨む結婚が「出来てしまう」だろう。そんなの許されるのだろうか? 許されて良いのだろうか。
結局は私は怖かったのだ。恐ろしかったのだ。幸せになる事が、なってしまう事が。王太子殿下に愛されて私も愛していると認めて、全国民の祝福を受けて王太子妃となり、ゆくゆくは王妃になる事が、何もかもが恐ろしかったのだ。
私はそんな感情をぐるぐる抱えたまま二昼夜引き篭もった。
そして三日目の朝、よせば良いのに侍女の制止を振り切って、王太子殿下が私の部屋に入ってきてしまった。それは最愛の婚約者が理由も告げずに突然引き篭もり、何も食べずお風呂にも入らずにいたら、それは心配するだろう。そして王太子殿下が強くご希望なさったら、侍女には無理やり制止は出来ない。
でも、私は会いたく無いから引き篭もったのだ。その事を理解しようとせず、無意識に権力を使って私の意思を無視するその姿勢。その、私が一番引っ掛かっている王太子殿下の部分を、この時私はまた目の当たりにしてしまった。
王太子殿下は布団を被って丸くなっている私の枕元に座り心配そうな声を掛けてきた。
「一体どうしたのだ。カーリン。まだ具合が悪いのか?」
「・・・・・・別に悪くはありません」
「? ならどうしたというのだ。顔を見せてはくれまいか?」
「・・・・・・嫌です。放っておいてください」
「どうしたのだカーリン何があった? また何か嫌がらせでも受けたのか?」
「そんな事はありません。少し一人にしておいて下さい」
会話をしながら、私はグググっと吐き気にも似た感情が盛り上がって来るのを感じた。気持ちが悪い。何がって自分が気持ちが悪い。王太子殿下がお優しくして下さっているのに、拗ねたような態度をしてる自分が。そんな失礼な態度を取っても王太子殿下は怒らないだろうと分かっていてそんな態度を取っている自分が。
そうなのだ。これは自己嫌悪だ。何もかも自分が悪いのだ。分かっている分かってはいるんだけど。しかし、私の感情の盛り上がりは収まらず、ついに臨界を突破しようとしていた。
「カーリン・・・・・・」
「放っておいて下さいって言っているでしょう!」
私は布団を跳ね除けて、王太子殿下に食って掛かってしまった。
「なんですか! カーリンて! カーリンはなんてもういませんよ! 王太子殿下が消してしまったんじゃ無いですか!」
ああ、まずい。私の頭のどこかで理性が必死に叫んでいるけど、噴出した感情は収まらない。
「どうして放っておいてくれないんですか! 私なんてどうでも良いじゃ無いですか! 私なんて痩せっぽちの庶民で、王太子殿下とは遥か離れた世界の人間で、本当は関係がない筈じゃ無いですか! どうして王太子殿下が私なんかを好きになるんですか!」
頭の中はグルグル回って自分が何を言っているのか全然分からなくなってきた。でも、こんな事を言ってはダメだ。これで何もかもおしまいになってしまう。それだけは分かった。私は涙が出てきてしまった。
「おかしいですよ! なんで私が王太子妃なんですか! 他に相応しい人はいっぱいいるじゃ無いですか! 隣国のお姫様を差し置いて、どうして私なんかを選ぶんですか! どうして私が何も言わない何もしないのに、もう婚約なんですか! どうして……!」
うううう、もう私はしゃくりあげてしまって言葉にならない。
「無理です! 私には王太子妃なんて無理です。どうして私なんですか! どうしていつの間にか婚約してるんですか! 私は良いって、結婚したいとも言って無いのに!」
わんわん泣き喚く私を王太子殿下は黙って見守ってくれた。少し固く厳しい表情で。
そして私の感情が少し収まるのを、待っていてくれた。
彼は、私の髪に手を触れ、撫でて私を慰めるようにしながら、やがてポツリと言った。
「分かった。・・・・・・婚約は取り消そう。それで良いか?」
その瞬間に私の中を走り抜けた衝撃の大きさは筆舌に尽くし難い、あまりにショックだったせいで、私はほとんど記憶を失ってしまったくらいだ。
・・・・・・気がついたら王太子殿下はいなかった。私は呆然とベッドに座ってただ泣いていた。
やってしまった。ついにやってしまった。これをしないために一生懸命この二年くらいずっと我慢していたのに。
流石の王太子殿下も怒っただろう、愛想を尽くしただろう。だから「婚約を取り消す」と言ったのだろう。
婚約の解消を告げる王太子殿下のセリフが何度も何度も頭の中でリフレインした。胸が張り裂けそうだ。こうなってみて私は初めて、自分がやっぱり王太子殿下の事が好きだったんだ、本当は好きなんだと分かった。
事情はともかく、お優しく頼りになる素敵な王太子殿下のお側にいられて、私は幸せだったのだ。その事がはっきりと分かった。今更分かっても遅過ぎるけど。
同時に、物凄くホッとしたのも確かだった。婚約解消したという事は、私が王太子妃になる事も無くなったという事だ。どう考えても私なんかにこの王国を背負うことなんて出来ないとずっと思っていた。その巨大なプレッシャーが取り除かれたのだ。
物凄い悲しみと寂しさと、胸に穴が空いたような苦しみと、軽くなった心。私は複雑な思いを抱えながら、これからどうしようかと考えた。
もう、この王宮にはいられないわよね。だって王太子殿下を怒らせたんだもの。アンドリュース様のお付きも続けられなくなるだろう。爵位だって取り上げられるだろうね。
命も危ないかも知れない。王太子殿下はお優しい方だから、そこまではやらないと思うけど、周りの側近達が王太子殿下を侮辱した私を許さない可能性は高い。
となると、もう逃げるしかない。この王宮から逃げ出すのだ。
庶民に戻って、一からやり直そう。王都にいたら危ないから、どこか違う場所へ。故郷・・・・・・は危ないから、どこか違う街に行こう。そこで何か仕事を探そう。お嬢様生活で筋肉も弱ってしまったけど、幸い色んな教育を受けさせて貰ったから、それで出来る仕事が何かあるでしょう。
うん。そうしよう。住み慣れてしまった王宮から出るのは正直言って辛くて悲しいけど、仕方が無い。
と、私は決心したのだけど、後から考えるとこの時の私の行動はここからが無茶苦茶だった。どうも私は自分で考えていたよりもお嬢様生活に毒されていたようだ。あと、やはり王太子殿下と婚約解消したショックで色々おかしくなっていたのではなかろうかと思う。
翌朝、私は侍女に「旅に出るから」と言って旅装の用意を命じた。どうしてこれから脱走しようというのに侍女に旅立つ事をバラしてしまうのか。この二年、なんでも侍女にやってもらう癖が(自分でやろうとすると怒られるので)付いていたからだろう。
侍女は驚いたが、私のただならぬ様子を感じたからか、用意をしてくれた。季節は秋だったのでそれほど厚手では無いがコートと、しっかりした作りのスカート。ブーツ、そして大きな帽子。いやいや、どう見てもお貴族様の旅行衣装で庶民に戻ろうという格好ではないわよね。
しかし私は満足し、馬車の用意まで命じた。一人で行くから二人乗りで良いわね。
そして私はアンドリュース様のお部屋に行った。アンドリュース様に何の断りもなく旅立つ気になれなかったのだ。
アンドリュース様は私を見ると顔を輝かせて走り寄り、ドーンと抱き着いてきてくれた。相変わらず可愛い。可愛くて元気で賢い私自慢の殿下。でも、これでお別れなのだ。そう思うと悲しく離れ難いが、仕方が無いのだ。
私にグリグリ甘えていたアンドリュース様だったが、私の格好に気が付いた。
「どこかへ出掛けるの? カーリン?」
う、気が付かれてしまった。この格好は、何度か王太子殿下とアンドリュース様とで郊外の離宮に小旅行に出かけた時にも着た服だ。アンドリュース様にも一目で旅装だと知れた事だろう。
「え、ええ。少し出掛けて参ります。殿下はいい子にして待っていて下さいませね?」
と私は言ったのだけど、アンドリュース様はじっと真剣な目で私を見て、そして叫んだ。
「僕も行く!」
え? ちょちょっと。そういう訳にはいかない。私はこれから脱走するのだ。
「僕も行く! 絶対! 絶対行く!」
そしてがっちりと私にしがみつき、私のお腹に顔を埋める、こ、困った。どうしよう。
普段は私の言うことに関しては聞き分けが良い殿下なんだけど、こういう風に断固とした態度で主張する時はダメだ。絶対に譲らない。その頑固さと押しの強さは流石に王太子殿下の弟という感じがするのよね。
そして私はこうやって甘えてくれるアンドリュース様に弱い。無理に振り払って旅立つ事なんて出来ない。
私は考えた。こうなったらアンドリュース様と一緒に王都を出て、少し離れた街まで行って、そこでお別れしよう。道中で名残を惜しんで、それから言い含めて、それからお別れしよう。
この時はいい考えだと思ったのよ? 今考えると無茶苦茶よね。
「・・・・・・分かりました。では、一緒に行きましょうか」
私が言うと、アンドリュース様は顔を上げてにぱーっと笑った。天使の笑顔だ。私はこの笑顔が大好きなのだ。
結局私自らアンドリュース様の旅装を整えると、殿下の手を引いて、用意させた小さな馬車に乗り込んだのだった。侍女がや侍従が同行を申し出たのだけど、今回はお忍びでこっそりのお出掛けだからと断り、護衛も騎士二人に留めてもらった。
そして私とアンドリュース様は王宮を出たのだった。今考えると、本当に脱走する気あるのか? と問い詰めたくなるわよね。当時の私に。
しかしこれが王国を揺るがせた、いわゆる「アンドリュース王子及び侯爵令嬢誘拐事件」の幕開けになることなど、その時の私は予想もしていなかった。
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