第4話 追い詰められる私
……熱病からようやく回復した私は、久しぶりに夜会に出席した。もちろん、王太子殿下に手を引かれてだ。薄緑のドレスの私と、水色のジャケットの王太子殿下が腕を組んで入場すると、会場にざわめきが沸き起こった。な、なんでしょう。
会場を歩いて出席者から挨拶を受ける間も普段より強く注目を集めている気がする。私が久しぶりに夜会に出たからかしら?
すると、お会いしたフェバット伯爵夫人は妙に華やいだお顔で言った。
「王太子殿下と何かございましたか?」
ギクリとする。な、なんで分かったのかしら。私が社交笑顔のまま固まったのが分かったのだろう。フェバット伯爵夫人は楽しそうに微笑みながら言った。
「王太子殿下があんなに甘い雰囲気を出されていたら誰にでも分かりますよ」
そ、そうなの⁉︎ 私は慄く。鋭過ぎるのでは?
「入場した瞬間に皆様も分かったようですわよ。どよめきが起きましたもの」
あ、あれってそういう意味なの? 私は頭を抱えたくなった。
あの日以来、王太子殿下の態度が砂糖もかくやというくらい甘くなったのは事実だ。いや、もう、本当に。
そもそも彼は、私が熱で生死の境を彷徨っている間、ほとんど寝ずに看病してくれていたそうで、周囲が何度も止めてもけして私の側を離れようとしなかったそうだ。
そして私が目を覚ましてからも、毎日毎日長時間私の枕元に来て、私の手を握りつつじっと見つめながら微笑むという、ちょっと私にとっては甘い拷問のような事をしでかしてくれた。侍女やお医者やアンドリュース様がいらっしゃってもお構いなしだ。侍女なんて甘い空気に当てられて頬を染めていたわよ。アンドリュース様は兄と私が仲良しで嬉しそうだったけど。
とても寝ていられず、私は早々にベッドから出て職務に復帰したのだけど、それでも王太子殿下は毎日毎日私の所を訪れた。お、お仕事は良いのですか? 王太子殿下はお仕事も多くて教育も高度なものを受けていると聞いていますけど!
「君に会うために大急ぎで終わらせているのだ。問題無い」
なんでも、夜寝る時間を削って職務の時間を捻出しているらしい。それで昼間に私の所に来ているらしい。ダメじゃないのそんなの!
しかし王太子殿下は涼しい顔をしている「君の所にいるのが一番疲れが取れる」などと言っている。待って! それ錯覚ですからね!
そして今回の夜会では、新しいドレスが当然のようにプレゼントされて、王太子殿下がそれを身に纏った私を嬉しそうに抱きしめ、そしていつもよりも丁重にしかも密着して社交の範囲を超えたキラキラした笑顔を振り撒いて入場したのだ。・・・・・・それは分かってしまっても無理は無いのかも知れない。
そもそも、王太子殿下が貴族たちからご挨拶を受ける際には、私はいつもは離れている。当然よね。私は王族じゃ無いのだから。ところが今日は私を王太子様が離してくれず、私まで一緒に挨拶を受ける事になった。殿下が私を離してくれたのは、ダンスを三曲踊ってからだ。その後はお互い別の人と踊らなければならなかったので。
王太子殿下との入場はいつものことだが、考えてみれば異例な事がいくつもあった。それは周囲から「何かあった」と見られるわよね。うぐぐぐ。
「ようやく観念なさったという事でよろしいのでしょう?」
「なんですか観念て。よろしくなんてありませんよ」
私は必死に否定したのだけれど、フェバット伯爵夫人は面白そうに笑うだけで取り合わない。
「元々、王太子殿下は明らかにカリナーレ様にご好意をお持ちだったのですもの。後はカリナーレ様次第でしたでしょう? カリナーレ様が王太子殿下のお気持ちを受け入れたという事でございましょうに」
違いますよ! なんだかしっくりおさまったみたいな顔なさっていますけれど、全然違いますからね! いつ私が受け入れたんですか。っていうか、どうして王太子殿下が前から私に好意をお持ちだった事になっているんですか!
と、声を大にして抗議したいところだけど、ここは社交の場。そんな事は出来ない。上品に否定する言葉も思いつかずにまごまごしていたら、誤解の根本原因に捕まってしまう。
「待たせたな。カーリン」
そう言って颯爽と現れた王太子殿下はサッと私の手を取り、腰を抱く。そしてさりげなく私の頭に頬擦りをする。周辺でまたざわめきが起こった。こ、この人は! 止めて下さい。誤解が深まります! 見てくださいよフェバット伯爵夫人なんて「良いもの見た」って感じで目を輝かせているじゃないですか!
というか、誤解で済ませる気は全然無さそうだった。王太子殿下はフェバット侯爵夫人に「済まないけど私の恋人を返してもらうよ」と言ってのけたのだ。こ、恋人? そんな事公言して良いんですか?
「いえいえ。殿下がお幸せそうで良かったですわ」
フェバット伯爵夫人は一つも動じる事なく言ってのける。それに対して王太子殿下はキラキラ笑顔で「ああ、私は今本当に幸せだからな」といっそ見事に惚気て見せた。私はもうどうにでもなれ! という気分だ。
ちなみに、この日の夜会にはアンドリュース様はいらっしゃらない。時間の遅い夜会だったので、私はドレスを着てからアンドリュース様を寝かし付け、それから出席したのだ。
だから、いつもなら私にあんまりくっつき過ぎると、ヤキモチを焼いて私と王太子殿下の間に割って入るアンドリュース様はいない。そのせいで今日の王太子殿下は遠慮なく私にベタベタと貼り付いていた。私は逃げようがない。
ぴったり密着して会場を歩き、貴族の方々と歓談する。これはもう、王太子殿下の狙いは明白だった。彼はこの夜会で「カリナーレは私の恋人になったのだ」と宣言するつもりなのだ。
どうやら元々かなりの人が私と王太子様の関係を疑っていたようだから、こうまではっきりと態度に示せば「ああ、やっぱりね」と思われるだけで、大した問題も無く貴族界に私達の関係は受け入れられるだろう。受け入れられてしまうだろう。いーやー!ちょっと待ってよ!
困る。非常に困る。何が困るのかというと、私に全然そんな気が無いのが一番困る。
正直な話、私は男女間に起こる恋愛について物凄く疎いのだ。それはそうだろう。
故郷にいた時から、私しは物心がつくとひたすら働いていたのだ。家の手伝いから始まり、少し大きくなると母の針子仕事を手伝ったり、近所の家の赤ん坊の子守りをしたり。ゴミ拾いとかドブさらいの仕事をした事もあったわね。他にも小さな女の子ながら色んな仕事をした。
王都に出てきてからは子爵邸で休む間もなく一生懸命に仕事していた。要するに、私はこれまで恋愛などする余裕のない生活を送っていたのだ。だから私は男の子に恋をしたことなど無かったし、男の人からの好意を感じた事も無かった。まぁ、下働きの綺麗な女の子は、従僕といい仲になっていたりもしたから、私に素質が無かっただけかも知れないけどね。
それがいきなり、恋愛関係の真っ只中に放り込まれても困るのである。しかも単純に男性としてみてもあり得ないくらいの美少年であり、更に身分は王太子であるような方にいきなり溺愛されても私は困惑して当惑するしかない。
王太子殿下が好きか嫌いか以前の問題なのだ。何が何だか全然分からないのである。しかし、王太子殿下は待ってくれない。待つ気が無い。多分だけどこの人、自分が好意を向けたのにそれが拒絶される筈が無いと思ってるんじゃないかと思うのよね。ありとあらゆる意味で恵まれている方だから。
しかし当たり前だけど王太子殿下からの求愛を拒絶は出来ない。これは私が庶民でなく本物の侯爵令嬢であっても出来ないだろう。不敬になってしまうし、王太子殿下の名誉を傷付ける行為になってしまう。王族のお望みは叶えるのが臣下の義務である。
しかしながら好きだかどうだかも分からない方の求愛を受け入れて良いものか。何だかそれは不誠実な気がするのよ。まして王太子殿下は実に誠実に私に向き合ってくれている。私は庶民なのに一つも疎かに扱う事など無く、むしろどこのお姫様か、というくらい丁重に扱って下さる。それでいて私が気を抜けるように、私が地を出してしまっても何も言わない。
はっきり言って夫にするなら理想的な人なのよね。この人。正直に言って、この人が王太子殿下でなければ、私はえいやっと結婚に踏み切ったかも知れない。庶民でも貴族でも結婚は家同士が本人の意向とは関係無く決めるものだ。最初は愛情など無くて当たり前である。親が選んだ相手が、彼ほど素敵な方だったら私は諸手を上げて万歳しただろう。
そういえば結婚は普通は親が、家同士の関係を考えて決めるものよね。じゃあ、王太子殿下のご意向だけでは決まらないという理屈になる筈だ。王家の家長はもちろん国王陛下。国王陛下なら実は庶民である私を将来の王妃にするような真似は許さないだろう。
と、思うじゃない? ところがですよ。国王陛下はラブラブ指数が突然上昇した私と王太子殿下(いや、私抜きで王太子殿下が一方的にラブラブしているんだけど)を見ても全然驚かなかった。そしてこう言った。
「結果的には其方を侯爵令嬢にしておいて良かったな」
侯爵令嬢なら王太子妃にするのに不足がないからだそうだ。ちょっ! それで良いんですか? 私は中身平民なんですよ? しかし国王陛下は流石は万民の上に立つ貫禄で仰った。
「庶民よりろくでもない貴族なぞ沢山おる。其方がその辺の貴族令嬢より素晴らしい女性である事は分かっているのだ。何の問題がある」
問題ありますよ! 大有りですよ! と言いたかったが、王国では国王陛下の御言葉お考えは絶対だ。国王陛下が良いと言ったら良いのである。
国王陛下は私が命懸けでアンドリュース様を助けてくれた、と感謝して下さっていたし、自分が無理を押して私を侯爵令嬢にしてしまったのだから、良い縁談を組んでやらねばと思ってもいたらしい。
その場合、ネックになるのは私の生まれの秘密だけど、相手が王太子殿下であればどう秘密を誤魔化すか考える必要が無い。
「名案だな」
と国王陛下は頷いて納得なさっている。いやいや。ちょっと待って下さい! 王太子殿下のメリットはどうなっているんですか? 王太子殿下の婚姻なんて重要な政治のカードでしょうに!
「それはササリージュにとっては好いた相手と結ばれるというメリットがある」
王太子殿下は頷いているけど、王族の婚姻は好き嫌いでは済まないと教育で習いましたよ。
「そして王家にとっても、其方に面倒な近い親族が一人もいないというのは大きなメリットなのだ。そんな上位貴族令嬢なぞ普通はいないからな」
これには私も沈黙した。確かにそれはそうかも知れない。
カリナーレには既に父も母もいない。兄妹もいない。更に母方の祖父母も亡くなっていて、父方の祖母がチェリアンネ様らしい。つまり、近い親戚がいない。本当に孤児になっていたら親戚が後見人になったかもしれないが、私の後見人は国王陛下だ。
この状態で私が王太子殿下と結婚すると、私たちの後ろ盾は国王陛下だけになる。一枚看板では頼り無く見えるかもしれないが、なまじ王太子妃に強力な親族の後ろ盾が付いてしまうと、国王陛下と対立した時が面倒になる。国王陛下が既に強力な権力をお持ちの我が国では、有力貴族に王太子妃を送り込まれて権力の上昇を図られるより、身寄りの無い私が王太子妃になった方が国王陛下にとっては有利な面があるのだ。
つまり王太子妃に相応しい上位貴族令嬢で、身寄りの全く無い私は王太子妃にするにはもってこいなのだという考え方もあるわけだ。……そんな。
ということで「其方達の双方が望むのなら私には異存は無い。むしろ大歓迎だ」という事だった。王太子殿下が喜んだことは言うまでも無い。
そういうわけで着々と外堀が埋まって行くのを私は唖然として見ているしか無かった訳だけど、もちろんだがこの私たちの婚姻について反対意見が無い訳では無かった。というか、熱烈に反対している人達がいた。
王太子殿下が大好きで、本気で王太子殿下と結婚したいと願っている上位貴族のご令嬢達である。
◇◇◇
王太子殿下は本当に兎に角モテる。彼が夜会に出れば瞬時に貴族令嬢にごそっと取り巻かれる。そうねえ、大規模な夜会だと二十人くらいになる事もあるかな?これは王太子殿下狙いのご令嬢が、王太子殿下ご出席の夜会を狙い撃ちにして出てくるからでもあるけど。
その年齢層は幅広く。七歳から十九歳まで。これは王国で結婚をしても良いと定められている年齢が七歳以上で、貴族で二十歳以上にもなって結婚していないと嫁き遅れと呼ばれてしまうからだ。もちろん、七歳のご令嬢は親に言われて来るのよ? 本人の意志では無く。でも、王太子殿下に優しくされるとそんな小さな子でも夢中で王太子殿下を追っ掛け始めるんだけど。
ちゃんと適齢期な、しかも十六歳の王太子殿下と同じ歳かやや下のご令嬢(歴代の王族の妃に年上は少ないそうだ)はもうこれは本気である。ガチで王太子妃の座を狙っている。そのため、王太子殿下がお出での夜会には絢爛たる格好で出席され、王太子殿下に猫なで声でこれでもかとアピールしていらっしゃる。そういう方は香水もきつくて、庶民出身でそういう匂いに慣れていない私は頭が痛くなってしまうのよね。
これまでは私はたとえ王太子殿下のエスコートで入場しても、王太子殿下が方々からのご挨拶を受ける時は離れていたので、その隙に王太子殿下はご令嬢方に取り囲まれてしまっていた。そしてご令嬢方は王太子殿下のエスコートを受けて入場する私を憎悪すら感じる極悪な視線で睨んでいたので、私は危うきに近付かずと思って社交の最中は王太子殿下からなるべく離れて他のお友達と歓談をしていたのだ。
ところが私に執着し始めた王太子殿下はエスコートしても私の手を離さず、貴族諸卿のご挨拶もそのまま受けるようになる。ダンスタイムが終われば他の方と踊っていてもすぐに戻ってきて、私にぴったりと貼り付いていた。これでは他のご令嬢が王太子殿下に絡む事が出来ない。
中には勇気あるご令嬢もいて、私と王太子殿下がぴったりくっついているのにも構わず、ぐいぐいと入り込んで来ようする方が居た。私と王太子殿下の会話に無理矢理割り込んで来るのだが、そうすると当然だが王太子殿下のご不興を買ってしまう事になる。
「其方、少し黙っておれ。私はカーリンと話をしているのだ」
普段は寛容でお優しい王太子殿下に叱責を受けるのでワンダメージ。王太子殿下が私を愛称でお呼びになるのを聞いてツーダメージといったところだわね。その瞬間のご令嬢のお顔は見ていられなかったわよね。申し訳ない。私にはどうしようも無いけれど。
そんな事が起こると、ご令嬢方の私への嫉妬だか憎悪だかというような感情は天井知らずに燃え上がる事になってしまう。睨まれる。嫌みを声高に言われる。こっそり足を引っかけられる。ドレスを汚される。これがご令嬢方からだけやられるなら兎も角、ご令嬢の兄や弟が私にダンスを申し込んできて、私の足をわざと踏んだり、意地悪なステップで私を引き回したり、隣で踊っている方にぶつかって行ったりするのだ。油断も隙も無い。
勘弁して欲しい。私が何をしたというのか。しかし、あんまり酷くなると、私のお友達や随伴している侍女達がそれとなく私を守ってくれるようになった。私が感謝すると、同伴してくれていたフェレンゼ侯爵夫人が一切崩れない社交笑顔のまま怖いことを言った。
「お守りしているのはカリナーレ様だけではありませんよ。このまま意地悪がエスカレートして王太子殿下のお目やお耳に入ったらどうなると思いますか?」
……あの王太子殿下なら激怒して全員を牢屋にたたき込んでしまいそうだ。
「そんなモノでは済みませんよ。未来の王太子妃殿下への反逆だとして打ち首にしてしまうでしょう」
ひー! それは確かに私を守ってるようでその実ご令嬢方を守っていると言っても過言では無い。ただ、あからさまに私をがっちりガードしてしまうと、逆に王太子殿下に不信感を持たせてしまうからそれもまた難しいのだそうだ。
そういうことが続くと、私は社交に出るのが嫌になってきた。どうして私がそんな苦労をしなければならないのか。そもそも私はアンドリュース様のお守りがお仕事だ。社交なんて私の仕事では無い。
「王太子妃なら当然社交もお仕事ですよ」
フェレンゼ侯爵夫人が当たり前のように言うが、私には王太子妃なんて無理だって言っているじゃない!
「今や事実上の婚約者と認定されている貴女がいなければ王太子殿下は社交に出られませんよ」
婚約者がいるのに一人で夜会に入場したり、他の女性をエスコートするなんてことは恥ずかしい事だとされている。故に、既にしっかり恋人認定を貴族社会から受けてしまっている私と王太子殿下は、セットで無いと夜会に出られないのだ。そんな事を言われても! 私は何にも同意した記憶が無いのに?
「嫌であれば嫌だとはっきり言わなければ伝わりませんよ? どうしても嫌なことは言うしかありません。王太子殿下はご寛容な方だから、貴女がはっきり嫌だと仰る事は無理強いしないと思いますよ」
確かに王太子殿下は度量が大きい。以前の庶民で偽装侯爵令嬢だった私を仕方なく面倒を見ていた頃は兎も角、今や私にベタ惚れな王太子様は私に無理強いなどするまい。それは信じられる。
が、その私の要望が「王太子妃なんてなりたくない!」でも王太子殿下は認めて下さるのだろうか? 貴方とは結婚出来ませんすいません、なんて完璧な拒絶の言葉で、王太子殿下を思い切り振る行為だ。無理よね。無理無理。流石の王太子殿下も激怒して、私を王宮から追い出すことだろう。いや、それではきっと済まないわよね。
うーん。考え込んだ私は、王太子殿下に恐る恐るこれだけを言ってみた。
「あの、殿下? お願いがあるんですけど」
「なんだカーリン?」
「……私、あんまり社交に出たくないんです。遅い社交に出ると翌朝眠くてアンドリュース様のお世話に支障が出ますし。大丈夫でしょうか?」
アンドリュース様を良い訳に使った卑劣な作戦である。理由も無く社交に出たくないなんて言ったら、追求を受けてしまいそうだったので。
すると、王太子殿下はあっさりと仰った。
「分かった。減らそう。私も忙しかったから丁度良い」
「へ? でも、殿下にとって夜会はお仕事ですよね? 以前なさっていたように、私は置いて誰か既婚の方をエスコートされて出れば……」
私はまだ正式な婚約者じゃないから、王太子殿下が既婚女性をエスコートする分には問題無いはずだ
すると王太子殿下はニッコリと甘く微笑んだ。
「私はもう、君以外をエスコートしない。そう決めたのだ」
うぐぐっ……。直球の惚気だった。剛速球だった。流石に私も顔を赤くしてしまう。殿下の後ろに立っていたフェレンゼ侯爵夫人が『だから言ったではありませんか』という顔で首を横に振っているのが見えた。侍女達は顔を赤くして目を輝かせている。
という事で、王太子殿下は夜会に出席する回数を減らし、必然的に私が社交に出る事も減った。するとどうなるかというと、夜会で王太子殿下に歓談がてら根回ししておくことがあった貴族の方々は、王太子殿下に会えなくなり(執務室での接見は時間が限られるし、予約が必要だし、身分によって順番が入れ替わったりしてなかなか王太子殿下にお会い出来ないのだそうだ)大変困ってしまったのだそうだ。
そして当然、王太子殿下に会ってアピールしたいご令嬢方、そこまで本気では無くても王太子殿下の大ファンという方々も、王太子殿下に滅多にお会い出来なくなってしまった。彼女たちも王太子殿下欠乏症に掛かって大変困ってしまった。
どうして王太子殿下は社交にお出にならなくなったのか? どうもカリナーレ様がご機嫌を損ねて社交に出たくないと仰ったらしい。どうもカリナーレ様に嫌がらせをやった者がおるらしい。迷惑にも程がある! どこのどいつだそんな馬鹿者は! と色々困った人々が私に嫌がらせをしていた者達を探し出して叱り付けたのだそうだ。そんな訳で、久しぶりに出たある社交において、私の前にしょんぼりした様子で私に嫌がらせをした者達が並んで謝罪をしにやってきた。私は知らなかったから驚いたわよ。
最大限の謝罪の意を表す、跪いて頭を垂れ、両手を後ろで組む姿勢(打ち首をされる時の姿勢で、首を切られても文句は言わないという意味があるのだそうだ)をしてまで謝罪をされれば、私は謝罪を受け入れるしか無い。彼ら彼女らの謝罪の理由を聞いた王太子殿下は激怒したが、私が慌てて謝罪を受け入れると「次は無いと思え!」と恐ろしい口調で仰るだけで済ませてくれた。
そんな訳で結局私は社交を減らす訳にはいかなくなった。私が出なければ王太子殿下も出ない。殿下が出なければ王国の政治が滞る。その事がよく分かったからだった。幸いと言って良いのかどうなのか、この頃六歳の半ばを過ぎたアンドリュース様はお一人で寝ることが出来るようになり、私は寂しかったのだが、お陰で夜会に毎日のように出る事が出来るようになった。なってしまった。
毎日のように夜会に、王太子殿下と腕を組んで入場して、貴族諸卿のご挨拶を受けて回る。そんな事をしておいて「いや、私は王太子様との婚約なんて承知していませんよ?」なんて言い草はもう通らない。誰がどう見てももう私は王太子殿下の婚約者、未来の王太子妃として扱われているのだ。何でよ! どうしてよ! 庶民の私がそんな風に扱われて、なんで誰も疑問に思わないのよ。
そうしている内に私は十五歳になった。王太子殿下は十七歳。貴族女性の結婚時期はバラバラだけど、貴族男性の結婚は十七歳から二十二歳までに行われる事が多いらしい。つまり、王太子殿下は結婚適齢期に入ってきた訳である。
美少年から美青年に脱皮しつつある王太子殿下は、もう見ているのも難しいくらいの美男子におなりになっていた。背は高いが均整の取れた体格で、騎士としての訓練もしているからたくましい筋肉も付いている。栗色の髪は相変わらずつやつや。鋭くも優しい目は深い紺色で、美しく通った鼻筋。流麗な輪郭。麗しい口元。艶っぽくさえある首元。なんというか。こんな美男子がこの世にいるんだなぁという感じなのよ。
その彼は相変わらず私とべったりだった。こんな地味な容姿の私にはこんな美男子は釣り合わない。おかしいわよ。王太子殿下ならもっと釣り合いの取れる派手な美人な令嬢が選び放題な筈なのに。どうして私なんかを選んだのよ。今からでも遅くないからもっと相応しい方をお妃にお迎えするべきだと思うわ。
アンドリュース殿下も変わらず私に甘えて下さる。彼も七歳になり、背もかなり伸びた。出会った頃は抱き付くと私の膝あたりだったのだが、今では腰の上くらいになっている。結構たくましくなって、元気に庭園を走り回り、剣術の基礎や馬術の基礎も習い始めていた。でも、私の姿が見えないと不安になるところは変わっておらず、どうしても私がいなければ駄目らしい。
この頃の私は王太子殿下の「事実上の婚約者」にしてアンドリュース殿下の「姉代わり」で国王陛下の「娘も同然」という立場だった。なかなかもの凄い立場だったのだけれど、私はもう慣れてしまっていた。それはそうよね。毎日そういう扱いを受けていれば誰だって麻痺してしまうわ。それに二年も侯爵令嬢を演じていれば何もかも身に付いてしまい、庶民の地はもうほとんど出なくなってしまっていた。貴族を演じるストレスも大分減っていた。
そして私はある意味諦め始めていた。どうも私はこのまま王太子殿下と結婚するしか無さそうだと。だって王太子殿下も国王陛下も、貴族の皆様方も、私を敵視していたご令嬢でさえも、すっかり私が王太子妃になるものだと決めつけてしまっているのだもの。私の意志は誰も確認しないし気にもしない。そりゃそうよね。私は王太子殿下と国王様に、勝手に侯爵令嬢にされたんだもの。命惜しさにあれを許容した時から、王太子殿下のご意向に逆らう事なんて出来なくなってしまったんだもの。
その王太子殿下が私を妻にとお望みなのだ。私は従うしか無いのよね。誰もがうらやむ王太子妃の地位に、素直に上がりなさいと。まぁ、そういうことね。別に王太子殿下が嫌いな訳じゃないし、大事にしてくれる事は確定だし、アンドリュース様は可愛いし、国王陛下はお優しい。皆も敬ってくれる。庶民出身だなんて事はもう誰も覚えていない。何の問題も無い。そうよね。何の不満があろうか。ある訳無いでしょう。あーあ、私は幸せねー。
……とこの頃の私は自分に必死にそう言い聞かせていたのだ。不満を漏らしてはいけない。そうしないと社交に出たくない騒動のような大問題に発展する可能性があるから。今や私は王国の重要人物。その私が個人的感情を爆発させたら、国家的な大問題になりかねない。その事はもう嫌というほど分かっていた。だから私は我慢するしか無いのだ……。
そう。分かっていた。分かってはいたのよ?
しかしその私の心をかしめていたタガは、実に些細なことで弾け飛び、私の不満は爆発してしまった。そして案の定国家的な大問題を引き起こすことになる。
きっかけは、王太子殿下の元に届いた一つの贈り物だった。
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