第19話 あの世

 防刃仕様の肌着をつけていたとはいえ噛まれたところには鈍痛が走っていた。肌着というよりかはウェットスーツに近い材質でこんなので本当によく助かったものだなと感心した。薄手の肌着を貫通することは全くなく、その肌着には噛まれたというあとすら残っていない。しかし、大量の汗を吸い込み、肌着を思うように脱ぐことができない…。


 「これくらいの装備であれば、一対一で暴徒、いや”あ”と呼びましょうか…。”あ”対峙したとしても、怪我無く生還できます。しかし…、この装備は我々自衛官の5人分しかありません…。そのうちの1着は今後も自由に使えます…。」

これくらいの大装備をしないと”あ”と遭遇し、事を構えた場合は無事では済まないということの裏返しである。相手は目に入ったもの、音が聞こえたものに対して無差別に襲い掛かる、そこに人の意思が介在しているとは思えない…。やめてくれと懇願したとしてもこちらが絶命するか、逃げ切るまでやめることはしないであろう。


 「なんで…こんなところに小倉さん…、いや…”あ”を閉じ込めているんですか…。しかも、フリーに動けるように…。」

 「苦渋の決断です…。我々は”あ”のことを知らなさすぎます…、習性…、対抗手段…、なにをしてくるのか…。どうすれば葬り去れるのか…。」

情報が規制されており、この避難所にいる人々の中で”あ”に関しての知識を持っている人はいないであろう、”あ”自身を除いては…。皆…結論は見えていたのだ、”あ”を知るためには”あ”を使うしかない。


 ”あ”に関してわかったことは、見境なく襲ってくること、噛んでくること、痛覚などはなく、人でいう致命傷を与えたところで生き返ってしまうということくらいだそうだ。聞いていた内容から特に追加の要素もなく…”あ”の理解は難航を極めているようである。


 「結局どうすれば葬りされるんだよこいつは…。丸尾さんの話だと首だけでも生きるって言っていたじゃないか…。」

 「わかりません…。今のところ被検体はあの1体しかないので…。」

”あ”を知るための貴重なサンプルなのであろう…、自衛官としても”あ”を葬り去る方法の検証をしたいと思っているが、その一歩が踏み出せないのであろう。人という秩序、倫理観・道徳観という概念も含めて。しかし、真司のいうこともわかる…わからないということは恐怖なのだ。たとえるなら、幽霊も除霊の仕方がわかっていればたいして怖くはないであろう、そういうことだと理解した。


 「もし、葬り去り方がわかるとして、あなた達にその一線を超える覚悟はありますか?」

究極の質問である…。人ならざるものではあるが人の形をした生物を殺せるか?そういうことだ…。


 私には到底無理だ…、ゲームではフィクションとわかっていたから傍若無人にゾンビ達を蹴散らしていたが、これは現実だ。ゲーム内のキャラクターの様に銃が使えるわけでもない、バットで殴り倒せる様な力があるわけでもない。噛まれたら終わり…ダメージでヒットポイントが減った、それを回復剤を飲めば大丈夫なんて事もないのだ。


 皆もおなじ様な事を考えているのであろう、真司とカズもヤンチャだとはいえ、喧嘩で殴る蹴るは多分できるだろうが…。その先の一線を超えて、人を死に至らしめるということをできる者は一握りだろう…。それこそ、自衛官の方々も一緒であろう…。


 「この沈黙はわかっていただけたものと理解しました…。しかし、酷なことを言いますが、自分の身、誰かを守る時はその一線を超えてもらいたい…。」

これから起こり得ることに対しての助言であろう…。ナオキと相村さんが体育館での誘導に失敗した場合…、最悪のケースを見据えて。


 一線という、安全な世の中では考えてこなかったことを初めて突きつけられる…。この世の中はもう、”あ”の世の中なのだ…。かろうじて残存している世の中の秩序に縋りついているがもう世の中は変わったのだ。


 「平和だったあの世の中には戻らないんですね…。もう、私たちは”あ”のいる世の中で生き抜かないといけないんですね…。」

 「はい…。この避難所だけでもと我々自衛官はやってきたつもりでしたが…、全ての梯子が外されました。」

防衛線は内部での”あ”の発生により、瓦解。食料もずっと持つわけではない…。更にはトドメとしてインフラの停止という訳だ…。


 これだけの材料が揃えば、これから起こることは目に見えている…。内部からの崩壊だ…。避難者の不平不満の爆発、”あ”による避難所機能の崩壊…、略奪、秩序なき混沌…、上げ出したらキリがない…負の連鎖である。


 「もし、この避難所がダメになった場合、北海道を目指してください…。土地面積に対して人口が少ないので、”あ”の被害がまだ及んでいない可能性があります…、及んでいたとしてもその影響は小さいでしょう。」

更に樫木さんは私の顔を見てこう続けた。


 「中西さん、東京の…ご友人は諦めて下さい…。あそこは”あ”の巣窟でしょう…、もう…。」

私も重々東京の現状は理解していた…。しかし手元の携帯ではKさんはまだゲームをしていると出ている…生きているはずだ…しかも自分の家で…。


 「我々がいるうちはやれることはやります…。しかし、我々も神様でも何でもないので、自分の身が危ないと思った時は真っ先にこの避難所から逃げてください。」

避難所がダメになるという前提で樫木さんは話されている。そんな話を聞いていたのかの様に、樫木さんの持つトランシーバーから声が出てくる。


 「失敗、失敗。2名暴徒化。負傷者不特定多数…至急応援を!」

先程の仮定の話が現実になったと知らせる様にトランシーバーからは声が漏れ続ける。


 幸いなことに私や真司達は汗のせいで防刃仕様の肌着が脱げておらず、そのままの格好で現地に急行してくれと樫木さんに言われるがまま足を踏み出した。


 走っている最中にヘルメットやその他装備を装着し体育館の前にやってきた。体育館から出てくる人間で人だかりができており、負傷した人たちも出て来ていることが目に見えた。


 「私たちだけで大丈夫か…?」

 「わからない…。何をすればいいかも全くわからない。」

 「ナオキだけでも救出しよう…。そのほかはもう考えても仕方ない。全員は無理だ…。」

私たち3人は”あ”から身を守る装備はつけているものの、戦う術はもっていない。自衛官の様に訓練を受けたわけでもなく、さっき”あ”相手にビビり散らかしながら鬼ごっこもどきの訓練をしたたけだ。


 正直にいうと、体育館の中に入りたくなかった…。足は恐怖に震え、手は物を掴むことができないくらい感覚がない。


 「兄さん、はっきりいって俺は怖い…。主人公とか言ってたけど、こんな時勇者とかはどんな気持ちなんだろうな。」

 「きっと怖いさ…。勇者は誰よりも臆病だと思う…。臆病だからこそ勇者になれるんだよ。」

死んでしまっては元も子もない…、生きて生きて生き抜かなければ…。生き残った末に勇者という称号が与えられるのだ…。勇者は勇気がある者ではない、人一倍生にしがみついた結果なのだ。


 私は大きく一歩を踏み出し、阿鼻叫喚の体育館に足を踏み入れた。


 体育館は思ったより荒れているということはないが、所々に血染みができている…。泣き叫ぶ声、大声で奇声を上げ逃げ回ってる人。そして、それを追い回す”あ”。


 体育館の中に入ったはいいが、何をすればいいかわからない。ナオキの姿はなく、相村さんが必死で少人数のグループを守っている。


 「数が合わない…。”あ”の数が…。」

トランシーバーでは2人と聞いていたが、奇妙な動きをしている人物は5人ほどいる。2人は目立った外傷はなさそうだが、3人は服が血まみれで痛々しい。


 「ど、どうすれば…。わからない…。」

私がパニックに陥ったところ、真司が体育館の金属製のドアを閉めて金属性のドアを蹴り始めた。


 蹴られたドアは金属が打ち付けられる様な鈍い音を体育館中に響きわたらせた。その音に引き寄せられる様に3人の”あ”が差し迫って来た。


 痛々しく赤く染まった服…、一体は鼻がない…。もう一体は耳を多分噛まれたのであろうか…耳がない。もう一体は…。そんなことを冷静に観察している自分がいた。走って来ている”あ”がスローモーションの様に見えていた。


 「兄さん!何してんだ!」

カズの声で我に返った…。相手が飛びかかれる距離まで迫っていた。


 「兄さん、危ない!」

カズは私の前に飛び出し、”あ”の突進を受け止めた…。カズが押さえ込む”あ”…。服に食い込む歯…。


 「真司!兄さん!」

その呼び声に私の脳内を刺激した。その時に考えたことは何故か、感電してしまった人間の引き剥がし方に関してのやり方であった。


 私は大きく助走をつけて、”あ”に向かって走っていった。そして、全身に重力を感じ、床に体が打ち付けられた時には一体の”あ”は吹っ飛んでいた。そう、それは自画自賛するほど美しいドロップキックだった。


 「真司、後2体だ頼む!」

私のドロップキックを見た真司も同様にドロップキックを”あ”にお見舞いしていた。


 私が体勢を立て直そうとした時、カズは”あ”の首根っこを掴み床に叩きつけた…。関節がなった時とは比べ物にならない音とともに、”あ”はその場で痙攣し出した。


 「なんとか…やったのか…。」

 「ぁぁ…。」

 「イッテェ…、貫通はしてないが歯形は絶対についているな…。」

3体をやったことでアドレナリンが出てしまい、私たちは若干の興奮状態になっていた。そのため、周りが見えていなかった…。


 追いかけ回されて奇声を上げていた女性の声が聞こえなくなっていた…。


 「おいおいおいおい…。顔半分が…。」

先程まで走って奇声を上げていた女性の顔半分が食い荒らされていた…。その女性は立ち上がり…隠れていた子供達に迫ろうとしている。


 「早すぎる…さっきまで人として逃げ回っていたというのにもう”あ”になってるのか…。」

そんな落胆に満ちた声を発していた時には、真司はもう走り出していた。先程よりかなり高くジャンプし、子供に迫るその”あ”に対してドロップキックをかました…。


 真司の足は的確に”あ”の頭を捉え、壁と”あ”の頭はサンドイッチされた…。鼓膜を劈くような破裂音とともに、子供達の目の前には生のハンバーグを連想するような塊が飛び散った。


 「もう大丈夫だ…。」

真司は子供達のにゆっくりと手を差し伸ばしたが、子供達から向けられた目線は畏怖と怒りの眼差しであった。


 「お母さん…。お母さん…。」

子供達は頭の無いその”あ”に縋り付く…。この女性は子供達を守るために必死で奇声を発し、”あ”を引きつけていたのだ…。自分が”あ”に殺される事も厭わずに…。


 真司はまた走り出した…。この女性を追い回していた”あ”の元に…。その”あ”は、もう事切れている死体を貪っている。


 真司はフルフェイスのヘルメットを脱ぎ、ヘルメットの顎紐を持ち、その”あ”に向かって走った勢いそのままに頭にフルスイングした。鈍い音とともに、”あ”は床に倒れた。


 真司は倒れた”あ”を何度も、何度も、ヘルメットで殴りつけている。自分のやってしまったことを悔いているかのように…何度も何度も、その頭の原形がなくなり、床を叩いたとしても何度も何度も叩き続けた…。


 そして吹っ切れたかのように、立ち上がり、最後の相村さんが抑えている”あ”に向かって歩み始めた。


 「ありがとう、助かった…。」

相村さんが真司に声をかけたが、真司はその言葉が届いていないようである。


 相村さんが体重をかけて手足を押さえていた”あ”の首を何度も、何度も踏みつけた。


 「真司くん、大丈夫。もう大丈夫だから!」

言葉は届かない…聞こえていない…。何度も何度も首が折れ、天井を見上げるように顔が上がって来た”あ”はまだ口が動いていた…。


 「まだ動いてるよ…こいつ。」

真司中での一線の境界はもう壊れてしまったようだ。”あ”は人ではなく、殺すべき、忌むべき対象に成り下がったのだ…。


 鉄板の入った安全靴を動く”あ”の口に突っ込みゆっくりとゆっくりと押し込んでいく…。顎は外れ、口内が剥き出しになる。


 「これでもう噛めない。」

そう言うとあたりを見回し、割り箸を持って来た。その割り箸をおもむろに”あ”の目に突き刺した。


 「これで目も見えない。でもまだ動いてる…。」

割り箸を耳の穴に突っ込みサッカーボールを蹴るように思い切り蹴り飛ばした。割り箸は深々と刺さったとともに頭が宙を舞った。


 地面に落ちたその頭を持ち上げ、真司は笑った。

 「これで皆んなもう安心だよ!」

この世の幸福を全て詰め込んだような満面の笑顔で高々と宣言した。


 「真司…。」

 「兄さん、俺わかったよ…。この世界の悪は”あ”なんだ…。この悪者を倒すのが主人公の役目なんだってね!」

秩序なき今、ルールは自分となる…。真司はその秩序を”あ”は悪とする事で守っているのだ、PTSDに近いのであろう…。しかし、この自分で決めた秩序を崩壊させてしまうと怨嗟の念、自責の念に耐えることはできなくなるであろう…。


 「あぁ、そうだな…。それでこそ主人公だ…。」

私は間違っているとは言えなかった。この秩序なき”あ”の世には正解などないのだから…。

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