少年と出会い

 むかしの話だ。ぼくがまだなにも知らなかったころの話。

 ぼくの住んでいたニューラグーン州はいわゆる逆3角形とも長靴とも形をしているのだが、その南、つま先の部分に小さな2つの島がある。フィルメ諸島という。


 かれの名前はグリルシュタインという。むかしは軍隊で将校として大活躍していたというが、いまではその面影はまったくない。軍からもらう年金で酒を呑みながらその日暮らし。

「あのマヌケを助けたのはオレなんだぜ」

 みたいな武勇伝を皆に語り、皆からは

「はいはい、そうですね」

 と、生暖かい目で見られながら、受け入れられている。そんな男である。

 この男の家には地下室があって、そこには酒樽やら食料庫やらが置いてあるらしい。そして時々そこに忍び込んで盗み食いをする奴がいるのだそうだ。

「まったく困ったもんだぜ!」

 と、彼は言うけれど、本当に困っているようにはとても見えない。むしろ楽しそうな顔をしている。

 ぼくは彼の家に遊びに行ったことはない。行ったことがないどころか、彼の顔を見たこともない。でも噂だけは聞いている。

 彼が酔っぱらうたびに言っているからだ。

「オレ様はこの世にひとりしかいないグリルシュタインっていう名前の人間だがよお! あいつはちげえんだよ! ふたりもいるんだぜ!? 信じられねえ話だよなあ!!」

 彼いわく、双子なのだそうだ。双子の兄弟がいて、そいつがもうひとりのグリルシュタインを名乗っているのだという。

 しかし、いくらなんでもそれはありえないだろうと思う。だってグリルシュタインというのは姓であって名前ではないはずだもの。

 だからきっと嘘だと思う。けど……。もし本当だったとしたらどうなるんだろうか? 2人目のほうはなんと名乗ってるんだろうか? それを知る方法はただひとつ。彼に直接会って聞くことだけだ。

 さて、どうやって確かめたものか……と考えているうちに夜になった。寝ようと思ってベッドに入ったのだが、どうにも眠れないので、ぼくは起き出して、台所でお茶を飲みはじめた。

 するとそこで思わぬ出来事が起きた。

 玄関の鍵を開ける音がして、扉が開かれたのである。こんな時間に誰がきたのかと思ったら……なんとやってきたのは、例の彼であった。

「おうっ!! 誰かいるなー!?」

 彼はそう言って部屋を見回した。

 ぼくは慌てて隠れようとしたが遅かった。すぐに見つかってしまったのだ。しかもなぜか彼は、まるでぼくのことをよく知っているかのように言ったのである。

「お前……確かこの間もここで見かけたような気がするぞ?」

 彼はつかつかと歩み寄ってきて、いきなり腕を掴むと無理矢理引っ張ってきた。ぼくは怖くて仕方なかったけれども抵抗なんてできなかった。されるがままにされて、気がついた時にはもう地下室に連れてこられていたのである。

 そこには確かにたくさんの酒瓶があった。食料もあった。でも人はいなかった。ここには彼とぼくしかいなかったのだ。

 地下室には窓がなかった。灯りといえばランプだけだった。地下室の入り口付近だけが明るい。

「やっぱりだぜ!」

 と、彼は嬉しそうに笑っていた。そして続けてこう聞いたのである。

「お前の名前は何ていうんだ?」

 どう答えたらいいのかわからない質問だったので黙っていると、突然頭を殴られた。すごく痛かった。そしてまた殴ろうとして振り上げた手を彼は止めた。

「まあいいぜ……」

 そしてポケットから煙草を取り出して吸いはじめた。そしてふっと煙を吐き出すとぼくに向かってこう言ってきた。

「ここに来れる人間は限られている。それをお前が知ってしまったんだからしょうがないな」

 彼はぼくの顔を見ながらこう続けた。

「お前がここに来たことは内緒にしておいてやるよ」

 そして今度は笑顔になって、にやっと笑ってくれた。ぼくは何が起こったのかわからなくて呆然としていたけれど、だんだん恐ろしくなってきたのと同時になんだかおかしくなってしまって思わず笑い出してしまった。それにつられて彼もまた大声で笑い始めた。

 それからぼくたちはしばらくの間ふたりだけで笑っていた。……という夢を見たのだった。目が覚めたら朝になっていた。あれはいったいなんだったのだろう……。

 ともかく今度彼に会った時にいろいろ聞こうと思う。でも彼はなかなか会うことができないのだそうだ。なので今はただひたすら待ち続けるだけである。ある日の昼下がりのこと。ぼくが家で勉強をしているとドアベルが鳴った。ぼくはちょっとびっくりしながらも急いで玄関に向かった。

 扉を開ける前に確認した。

 誰が来たのかわかったからだ。その人はもうすぐそこまでやってきている。そして扉の前で立ち止まった。…………

 息を大きく吸う音と吐く音が聞こえてくる。

 少し間をあけてからその人は言った。緊張しているのかいつもより声が低い。

 ぼくも同じくらい緊張しているので何も言わないでおいた。ぼくらはそのまま見つめ合ったまま動かなかったのだが、しばらくしてぼくはその人の名前を呼んであげた。すると向こうはホッとしたように表情を和らげるとようやくぼくに声をかけてくれたのだった。

「こんにちは」

 と言ってくれて、ぼくも

「こんにちは」

 と答えた。そしてふたりで挨拶を交わすことができた。ぼくはうれしくなった。

「上がってもいいかな?」

 とその人が聞いてきたので、もちろんだよと答えようとしたところでハッと思い留まった。

 この前注意されたばかりなのだということを思い出したのである。知らない人を簡単に家に上げてはいけないよ、と言われていた。でもぼくにとってその人のことはとても大切な存在だから問題はないよねと思った。でもやっぱりちゃんと言うことにした。

「ごめんなさい。だめです」

 と言ったところ、相手はとても驚いていたようだ。どうして駄目なのかを説明しなければいけなくなった。しかし説明するとなると難しいので困っていると、その人も察してくれたらしく

「それじゃあ、また今度にしようね」

 と、優しく言ってくれたのである。ぼくも安心したのでうんとうなずいてみせた。そうしてぼくらは別れたのだった。別れ際に、明日なら会えるかもしれないということを告げて。


 さて、次の日の昼過ぎ。ぼくはまたひとりで散歩に出かけた。目的はあの人に会うことである。今日こそはきっと会ってみせるぞ! 意気込んでぼくは歩いた。しかし、残念ながら出会うことはできなかった。しばらく歩き回って疲れたので近くのベンチに座って休んでいると、そこにやってきたおばあさんが

「隣いいかい?」

 と聞いてきた。

「はいどうぞ」

 ぼくは快く返事をした。そしておばあさんと一緒に座り込んだ。すると彼女は急にこんなことを言い出したのである。

「昨日あんたと同じ年くらいの子に会ったんだけどねえ」

「へえ」

「その子、最近引っ越してきたらしいんだわ。それで、あたしがその子と話をしてる時、誰かに見られているような気がしたんだよ」

「え? そうなんですか?」

「ああ。だけど、辺りを見回しても誰もいなかったし……気のせいだと思おうとしたんだけども……どうしても忘れられなくてさぁ。あんたも何かそういうことあったりしたことはないかい?」

 そう言われてもぼくには特に思い当たることはなかったので、そう答えるしかなかった。けれど、おばあさんの話はまだ続いていた。

「その男の子なんだけど、顔が真っ赤になって、息遣いまで荒かったのが印象的だったな。それに汗びっしょりだった。病気なんじゃないかと心配になってしまってねぇ。結局話しかけられなかったのよ」

「ふうん……」

「もしまた見かけたら声をかけてあげておくれ。よろしく頼んだからね」

「はいわかりました。見かけたらすぐに声かけますね!」

「頼むよ」

 そう言うと、おばあさんは去っていった。

 ぼくはその後ろ姿をじっと見つめていた。なぜかわからないけど不安な気持ちになった。

 でも今は気にしないことにするしかない。なぜならぼくには約束があるからだ。明日もまた会う予定なのだから。

 そして夕方頃。いつもの場所に向かうと、すでに彼が来ていたのでぼくはすぐに駆け寄った。すると彼はぼくの姿を見つけるなり笑顔を浮かべた。それから、ぼくをぎゅっと抱きしめてくれた。ぼくはすごく嬉しかったので彼の背中を軽く叩いてやった。

「おーよしよし。寂しくなかったか?」

 そんなことを言われたけれどぼくはよくわからなかった。なぜだか胸騒ぎがしたのだ。そのことを彼に話すかどうか迷っていたのだが、ふいにあのおばあさんの話が頭をよぎり、ぼくは彼に聞いてみることに決めたのだった。

「実は……」

 と切り出すと彼は不思議そうな顔をしながらも話を聞いてくれた。

「ふうん……。見られてる感じがするのか」

 彼は真剣に考えてくれている様子だった。その横でぼくは何度もうなずき続けた。「なるほどなぁ」

 とつぶやくように言ってから少しの間黙っていたが、

「それは確かに変だ。気味が悪い。でも、大丈夫だよ」

 と言ってくれた。ぼくもそう思うことにして、ふたりで笑い合った。

 ぼくの不安も少しずつ和らいでいったのであった。

 夜中のことだった。ぼくはその人に呼び出されて家を出た。

 待ち合わせ場所は公園である。いつもふたりで会う時に待ち合わせる場所だった。

 そこでその人は待っていた。

 ぼくがやってきたのを見るととてもうれしそうだった。ぼくもまた嬉しくなった。

 ところが、その人の様子がおかしいことに気づく。何やら息苦しそうだ。しかも汗を大量にかいていて服がぐしゃぐしゃになっている。ぼくは怖くなった。恐ろしくなった。その人は必死にぼくに向かって手を伸ばした。その手を掴むためにぼくも慌ててその人のもとに駆け寄る。

 すると突然その人の姿が消えてしまった。

 そこには地面があるだけだった。

 どういうことだろう。ぼくは何が起きたのか理解できず混乱した。とにかくぼくもその場所へ降りてみた。やはり地面には何もない。何もないというより土だけが広がっていた。周りにも誰もいない。まるで初めからそこに何も無かったみたいだ。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。もしかしたら、これは悪い夢なのではないのかなと思ったところで、

「もう終わりなんだね」

 と聞こえた気がして、思わずハッとした。その声はどこかで聞いたことのあるものだったからだ。そして思い出したのである。その声はさっきまでのその人とまったく同じ声だったのだから。そのことに気づいた瞬間ぼくは背筋がゾクッとした。ぼくは急いで立ち上がって振り返る。

 しかし、そこにはすでに誰もいなかった。辺りを見回してみてもどこにもその姿はなかった。本当に幻だったかのように消えてしまっていたのである。ただひとつ違っていることがあった。

 さっきまでぼくが掴んでいたものがそこにあった。それはあの人が着ていたはずの衣服と持ち歩いていた荷物の全てである。

 それが、地面の上に落ちていた。

 そういえば、とぼくは思い出す。あの人の名前ってなんていったっけ? いつもあの人と呼んでいて一度も名乗られたことはなかったはずだ。今さらながら、あの人の本当の名前を知りたいとぼくは思った。今となっては知る方法もないけれど。それでもぼくはいつかまた会えることを願った。だってぼくらはまた会えるはずなのだから。明日も必ずここで待っている。またこの場所に来るから。だからその時は必ず名前を聞かせてほしい。そう心の中でぼくは呼びかけたのだった。


 ぼくは今日もその場所にやって来た。

 あの時と同じ場所でひとり座る。今日こそその人が来てくれるような気がして。ぼくはじっと待ち続けた。けれどやっぱり現れることはないのかもしれない。ぼくがそう諦めかけた時、誰かがこちらに向かってくる足音がした。ぼくはパッとそちらを見る。

 あの人だった。間違いない! そう確信してぼくは立ち上がり、その人のもとへ走った。そして勢いよく抱きついた。

 彼はぼくを見て驚いたようだったがすぐに笑顔になってくれた。そして優しく抱きしめ返してくれた。ぼくはすごく嬉しかったので彼の腕をポンポンと叩いた。すると彼も笑顔のままぼくの頭を撫でてくれた。

 それから、

「また会ったね」

 と言ったのでぼくも

「うん!」

 と答えた。

「君は僕のことが好きなんだよね?」

 と聞かれたので

「大好き!」

 と大きな声で答えた。

「僕も同じ気持ちだよ。でもね……」

 彼は急に悲しそうな表情になった。どうしたというのだろう。

「ごめんね……」

 彼は謝ると、ぼくのことをそっと抱きしめてくれた。

 そして次の瞬間、目の前が真っ暗になった。ぼくはそこで意識を失ったのだった。

 次に目を覚ました時はもう夜になっていた。

 あれ、ぼくは何を……

 と考えながら、ふいに自分が横になっていることに気がつく。起き上がろうとすると体が動かないことに気づく。そこでようやく自分の身に起きている異変を自覚する。

「ああ、目が覚めたのかい?」

 声がしたので目を向けると、彼が椅子に座っているのが見えた。

「ここは……」

「病院だよ」

 彼は微笑みを浮かべている。

「え?」

「君が倒れているところを見つけたんだ。お医者さんを呼んだんだよ」

「そうなんですか……」

「気分はどうかな」

 ぼくは彼の問いかけに首を振って答える。特に悪くはないみたいだ。

「よかった」

「ありがとうございます」

 それから少し沈黙が続いた後、ぼくは思い切って質問をしてみた。

「ぼく、何があったんでしょうか。教えてください」

 すると、しばらく黙っていたがやがて話し始めた。

「うん……。実はね……。実は……、君が死んだんじゃないかと思ったんだよ。でも、死んでなかった。それで安心して力が抜けちゃったからなのかな……。その場に倒れたらしくて……。そのままずっと眠っていたみたいなんだ……。でも、どうしてこんなことになったのか、まだわからないらしい。検査もしてみるけど原因がはっきりしない限り治るかは分からないそうだよ。しばらくはこのまま入院することになるかもね」

 ぼくはそれを聞いてゾッとした。ぼくは死ぬ所だったということだろうか。もし死んでいたら、と考えると怖い。それに、もしかしたらそのことでぼくを嫌いになってしまうかもしれないと思うと不安になる。せっかく仲良くなったのに、そんなことになってしまったら、悲しい。

 そう思うと涙が出てきた。必死に耐えようとするもののどんどん溢れてきて止まらない。ぼくは必死に手を動かそうとした。するとその手は温もりに包まれる。見上げると彼がぼくの手を握ってくれていたのだ。

「心配しないで。大丈夫だから」

 そう言ってくれるので余計泣きそうになる。ぼくはその手を強く握り返した。すると彼もまた強く握ってくれる。それだけでとても心強かった。だから今は泣くことにする。この人のためにも泣こうと思ったのだった。そしてこれからもずっと一緒にいたいとぼくは初めて願うことができたのだった。

 翌日、朝から病室を訪れた彼に昨日あったことを全部伝えたかったけれど、うまく話すことができなかった。けれど、彼は最後までぼくの話を聞いてくれた。そして最後に言った。

「また会いに来てもいいかな。今日も来るからね」

 と。ぼくはもちろん喜んで承諾した。すると、じゃあ行ってくるねと言って、頭を軽く撫でてくれた。それがすごく嬉しくてぼくは大きく手を振ったのである。そうして彼は帰って行った。ぼくはその後ろ姿が見えなくなるまでじっと見つめていたのだった。

 それから毎日のようにあの人は来てくれた。いつも優しく話しかけてくれてぼくも嬉しかった。でも、ある日突然来なくなってしまった。

 ぼくはどうすればいいかわからなくてすごく寂しかった。でも我慢するしかないと思いながら、あの人が来てくれるのを待っていたけれど結局会えずじまいで、退院することになった。もうあの人には会えないかもしれないという気持ちがだんだん大きくなっていって辛くて仕方がなかった。けれど諦めたくなかったのでまたあの場所に通って待つことにした。そしてそのたびに期待して待って、またガッカリして帰るを繰り返していたのだがある時ついにあの人が現れたのだ。ぼくが座っているすぐ横に立っている姿が見えた時、ぼくは本当にびっくりした。これは夢ではないかと思って目をこすったりしたくらいだった。そしてすぐにぼくは立ち上がって抱きついた。彼は驚いたようだったがすぐに笑顔になってくれた。そしてぼくのことを優しく抱きしめてくれたのだった。

 ああ、よかった。とぼくは安堵のため息をつく。そしてまた会えたことを喜んだ。嬉しかったので、彼の腕をポンポンと叩くと、彼も同じように応じてくれた。それどころかぼくの頭を撫でてくれたので、ぼくはとても幸せな気分になった。

「君は僕のことが好きなんだよね?」

 彼はぼくの目を見て真剣な表情で問いかけてきた。なのでぼくも大きくはっきりと答えた。

「大好き!」

 と大きな声で答えたのだ。

「僕も同じ気持ちだよ。でもね……」

 そこで急に彼は悲しそうな表情になった。どうしたというのだろう。

「ごめんね……」

 彼は謝ると、ぼくのことをそっと抱きしめてくれた。

 そして次の瞬間、目の前が真っ暗になった。ぼくはそこで意識を失ったのだった。


 次に目を覚ました時はもう夜になっていた。

 あれ、ぼくは何を……と考えながら、ふいに自分が横になっていることに気がつく。起き上がろうとすると体が動かないことに気づく。そこでようやく自分の身に起きている異変を自覚する。

「ああ、目が覚めたのかい?」

 声がしたので目を向けると、彼が椅子に座っているのが見えた。

「ここは……」

「病院だよ」

 彼は微笑みを浮かべている。

「え?」

「君が倒れているところを見つけたんだ。お医者さんを呼んだんだよ」

「そうなんですか……」

「気分はどうかな」

 ぼくは自分の体を見回しながら答える。特に悪くはないみたいだ。

「よかった」

「ありがとうございます」

 それから少し沈黙が続いた後、彼は思い切ったように口を開いた。

 実はね……。実は……、君が死んだんじゃないかと思ったんだよ。でも、死んでなかった。それで安心して力が抜けちゃったからなのかな……。その場に倒れたらしくて……。そのままずっと眠っていたみたいなんだ……。でも、どうしてこんなことになったのか、まだわからないらしい。検査もしてみるけど原因がはっきりしない限り治るかは分からないそうだよ。しばらくはこのまま入院することになるかもね」

 ぼくはそれを聞いてゾッとした。ぼくは死ぬ所だったということだろうか。もし死んでいたら、と考えると怖い。それに、もしかしたらそのことでぼくを嫌いになってしまうかもしれないと思うと不安になる。せっかく仲良くなったのに、そんなことになってしまったら、悲しい。

 そう思うと涙が出てきた。必死に耐えようとするもののどんどん溢れてきて止まらない。ぼくは必死に手を動かそうとした。するとその手は温もりに包まれる。見上げると彼がぼくの手を握ってくれていたのだ。

「心配しないで。大丈夫だから」

 そう言ってくれるので余計泣きそうになる。ぼくはその手を強く握り返した。すると彼もまた強く握ってくれる。それだけでとても心強かった。だから今は泣くことにする。この人のためにも泣こうと思ったのだった。そしてこれからもずっと一緒にいたいとぼくは初めて願うことができたのだった。

 翌日、朝から病室を訪れた彼に昨日あったことを全部伝えたかったけれど、うまく話すことができなかった。けれど、彼は最後までぼくの話を聞いてくれた。そして最後に言った。

「また会いに来てもいいかな。今日も来るからね」

 と。ぼくはもちろん喜んで承諾した。すると、じゃあ行ってくるねと言って、頭を軽く撫でてくれた。それがすごく嬉しくてぼくは大きく手を振ったのである。そうして彼は帰って行った。ぼくはその後ろ姿が見えなくなるまでじっと見つめていたのだった。

 それから毎日のようにあの人は来てくれた。いつも優しく話しかけてくれてぼくも嬉しかった。でも、ある日突然来なくなってしまった。

 ぼくはどうすればいいかわからなくてすごく寂しかった。でも我慢するしかないと思いながら、あの人が来てくれるのを待っていたけれど結局会えずじまいで、退院することになった。もうあの人には会えないかもしれないという気持ちがだんだん大きくなっていって辛くて仕方がなかった。けれど諦めたくなかったのでまたあの場所に通って待つことにした。そしてそのたびに期待して待って、またガッカリして帰るを繰り返していたのだがある時ついにあの人が現れたのだ。ぼくが座っているすぐ横に立っている姿が見えた時、ぼくは本当にびっくりした。これは夢ではないかと思って目をこすったりしたくらいだった。そしてすぐに立ち上がって抱きついた。彼は驚いたようだったがすぐに笑顔になってくれた。そしてぼくのことを優しく抱きしめてくれたのだった。

 ああ、よかった。ぼくはホッとしたように目をつぶった。


 そういえば、グリルシュタインのことを忘れてた。かれはある日道ばたで野垂れ死んでいた。

 それを聞いてぼくはわけもなく哀しくなった。

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