55話 ナディナレズレの巨塔 その3

「おかしいっスね。敵がいないっス」


 その異変に最も早く気がついたのはヘーゼルだった。といっても、彼女以外は敵と相対していないのだから当然なのだが。


 彼女は目を細めて廊下の先を見やっていた。これまでの楽な道のりから一転気を引き締め直し、冷めた瞳で冷静に状況を見極めようとしているようだった。


 敵が突然いなくなったということは事実、相手のダンジョンマスターがこちらを認識して対策を講じているということを意味する。俺達は彼女を見習い、慌てて戦闘態勢を取った。


 これから予想しうる事態は三つ。敵のダンジョンモンスターが一点に集まって戦闘の準備をしている可能性。モンスターが罠に変換されている可能性。既存のモンスターの強化に使用される可能性。その三つだ。


 この場合、最も確率が高いのは罠に変換された可能性だろうと、俺達四人の認識は共通されている。


 気をつけるのは、頭上と足元。同じダンジョンマスターとして、ダンジョンに作成できる罠の対策はばっちりと出来ているはずだ。────めちゃくちゃ嫌だったけど全部一回ずつ踏んでみたし。


 けれど、敵の取った手段はそのいずれでもないものだった。


「……何か匂う」


 デリラが鼻をスンスンと鳴らした。それはここ最近なんども嗅いだ匂いだった。


 酵母のエステル香とホップの青草のような香りが混ざった匂い。前世となんら変わらない、だ。


 匂いを感じて数十秒もすると、濃い黄色の液体が階段から流れてきた。浸水された地下鉄のような光景だったが、ひとまずその流れは小川のせせらぎ程度のものだった。


 死を招く罠の出現を待ち構えた俺は一瞬、弛緩してしまう。その仕掛け人と思しき人物を信頼していたせいもあっただろう。


 けれど、初めから罠に対して何の恐れも抱いていないモンスター達は、むしろビールを見たことで一気に警戒を強めたようだった。


 ……そういえば俺達は一度、彼女に負けているのだし当たり前か。


「そう。きちんと心変わりをしたのね」


 アニマが階段の奥にいる何かに向けて、そう呟いた。


 そういえば、アニマはジャクリーンさんに絵を教えていたことがあったのだったか。お互い、初めての友人として色々相談していたのだろう。


「……アニマ。何か知ってるの?」


 デリラが信じられない、裏切られたというような顔をして言った。疑うことを知らない彼女は明らかに過剰だったが、気になることであるのは確かだ。


「アニマ、ジャクリーンさんはあらかじめ何か言っていたのか?」


「ええ。でも安心してください。きっと必要なことなりますから」


 アニマはクツクツと、楽しそうに笑った。芸術家肌の彼女はあらゆることに含みを持たせた話し方をする癖があるが、そうはいっても普段より一際迂遠な言い回しだと思った。


 しかし、彼女の真意を尋ねる前に、その会話はヘーゼルによって咎められる。


「急いだ方がいいっス。多分下の階への扉が閉じてるっスね。水位が上がってきてるみたいっス」


 その言葉を聞いて、俺は初めて気がついた。……流れてくる酒の量が増えている。階段から落ちてくる際に空気が混じりゴポゴポと音が鳴るくらいには。


 あれ?このままだとビールに溺れる?気づいた頃には、歩けばパシャパシャと音がする程度には、床に酒が溜まり始めた。こだわりでもあるのか、ビールはキンキンに冷えている。


「『金剛不壊の四阿』『戮力を持って地を制す』」


 それぞれ障壁魔法を発動して、酒の川を裂く。とにかく溺れないためには、階を登り続けるしかないということのようだ。


「話は後だ。とりあえず進みながら話そう。罠にも気をつけてな」


 障壁には酸素の問題もある。俺達は注意深く、けれど駆け足でもってダンジョンを進んだ。障壁のおかげで足取りは重くないものの、一度濡れてしまった靴の感触がなんとも気持ち悪い。


 それにしても……ビールが絶えず降ってくるって。


「これってつまりそういうことだよな?」


 アニマとジャクリーンさんの事情について話す時間はなかったが、とりあえず裏切られているってことは確認しておこうと、彼女達に尋ねた。

 

「こんなビールが降ってくる塔なんてファンシーなことを思いつくの、ジャクリーンちゃんしかいないっスよ」


「やっぱり、そうだよな。なあ、アニマ。ちょっと聞きたいことがあるんだが……」


 分からなかった事は、自分が元から嘘をつかれていたのか、たった今裏切られたのか。


 別にどっちだって怒るつもりはない。命に関わる場面でも絆が優先されると思うほど思い上がっちゃいない。けれど、真意を知りたい。それだけの思いで、俺はアニマに尋ねた。


 けれどその時、まるでアニマの声を妨げるように、声が鳴り響いた。


『私のおもてなしはいかがでしたか?初めてのダンジョン攻略が楽勝すぎると退屈でしょう?』


「……ええ。ペンキが乾いていくのを眺めていた方がマシだと思っていたところです」


 鳴り響いた声はジャクリーンさんのものだった。ダンジョンを監視し、あらゆる階層に声を届かせるにはダンジョンマスターになるしかない。


 つまり彼女はダンジョンマスターになったということだ。


 ……え?どういうこと?


『ええ。ええ。そうでしょうとも。ですので、もう少し楽しくしてあげようかと思いまして』


「もうダンジョンマスターは倒したってことですか?」


『たまたま倒せてしまいまして。ええ、まったくの偶然ですとも』


 ジャクリーンさんの声は相変わらず常時気楽そうで、全く感情が読めなかった。けれど少なくとも何かを強制されているような感じはしない。


「……主様。目的も済んだみたいですし、もう帰りましょう」


 デリラが冷たく言い放った。ジャクリーンさんと一緒に過ごした日々など彼女にとって取るに足らないことのようだった。


『ああ待って。帰らないでください。マスターを捕らえるのも契約の一つです。今からうちのダンジョンマスター様がそちらに向かいますから、頑張って捉えてくださいよ』


「ええ?もう意味ないでしょう?」


 別に「貴方には今から殺し合いをしていただきます」と言われるシチュエーションには慣れっこだし、それに文句をいうつもりはない。


 けれど今までのそれと違うことは、俺が帰ろうと思えば帰れるということ。これはもはやデスゲームですらなく、ただの「お願い」であった。


『いいじゃないですか。このダンジョンで死んだって、貴方はリポップできるんですから。私達のダンジョンの終焉が、あんな作業みたいな攻略だけで終わりだとか、あんまりだと思いませんか?』


「悪いけど、何を言っているのか一切分かりません!」


 ……最後にダンジョンを操作して遊んでみたい、というわけではないだろう。だが、何かしてほしいことがあるのなら伝えてくれればいいのに、『ダンジョンをクリアしてほしい』以外の願いが何一つ見えてこない。


 思考の渦に呑まれた俺を現実に引き戻したものは、水飛沫の音だった。


 バシャバシャと水飛沫の飛び散る音が


 相変わらずジャクリーンさんが何を目的としていることは一つも分からなかったが、降りてきた男の姿を見て、何をしようとしているのかは理解できた。


 そいつは、やたらとちぐはぐな男だった。それなりに鍛えた身体の青年ながら、顔つきは官僚でもしていたのかと思うくらい厳しい。そして若い肉体ながら、達人のように流れる水のような歩法でこちらに向かってきている。


 そして何より顔つきだ。その顔は死に対して何の恐れもない、ダンジョンマスターがゾンビアタックに赴く際の顔つきだった。


 その足取りが人智を超えた速さであることも、達人っぽさを助長している。どうせDPで強化されているのだろうが、少なくとも俺より弱いということはなさそうだった。


 流石に分かる。あいつがここのダンジョンマスターなのだろう。そういえばナナヤ女神も言っていたな。ダンジョンマスターもモンスターの自信作の一つであると。であれば、契約も可能か。


 かつかつとこちらに歩み寄ってきたダンジョンマスター……リュウジョウと言ったか。距離を調節することも、交渉することもない。ダンジョンマスターがゾンビアタックを仕掛けるための、最も最適な行動である。


 しかしこちらとて、戦闘の準備は常に出来ている。そいつの脚を、アニマがすかさず風魔法で切り取ろうと試みた。一度、リュウジョウが飛び上がって避けるも、人間の身体には限界がある。四人の魔法による集中砲火によって難なく脚は切り取られた。


 「これで止血でもすりゃ、リポップは停止できるッスね」


 脚を狙った理由は敵を捕縛するためである。ダンジョンマスター相手であればまともに戦闘する意味はない。……ダンジョンマスターのりポップは爆速だからな。モンスターになった彼のリポップが未だに速いとは限らないが。


 一先ず縛り上げて事情を聞けば、状況も読めてくるだろうと、俺は彼に武器を構えながら近づいた。


 ────その時だった、脚を失って倒れ伏したリュウジョウの身体が、突然燃え盛った。彼の身体に火種でもあったのか、アルコールに引火して高い炎が上がったのだ。


 火は瞬く間に周囲へと引火され、ダンジョンの白い壁が紅く照らされた。


「……死ねる仕掛けってやつか」


 フランベのように燃え盛る火柱をぼんやりと見ながら、俺はジャクリーンさんと初めて戦った時のことを思い出していた。彼は死に、今から再度向かってくるのだろう。そして彼にとって先程の姿勢は戦闘に最適なものであり、きっと何度でも全く同じ姿勢で俺に向かってくるのだろう。


「……面倒なことになりそうっスね」


 ヘーゼルも障壁で炎を遮りながら、ポツリと呟いた。


 ジャクリーンさんは酒で燃え盛る巨塔の中、決着がつくまでの二択を強いるつもりなのだろうか。ダンジョンマスターだけならいい。けれど、敵のマスターがジャクリーンさんであるとなると、一時たりとも油断はできないだろう。


「上についたら説明してもらいますからね」


 俺はジャクリーンさんに聴こえるように、天井に向かって叫んだ。


 あーもう。女心、わかんねー。

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