8/10 村田喜代子『エリザベスの友達』
九十代で認知症を患い、老人ホームで預けている実母の
福岡を舞台に、認知症との接し方や戦中戦後の追憶を織り交ぜた家族ドラマ。作者の村田喜代子さんは、芥川賞を取った短編『鍋の中』で、一見独り暮らしも出来ているしっかり者のお婆さんの中で、記憶の混濁が起きているという内容を描いていたのだが、ある意味そこへ回帰した作品なのかもしれない。
ただ、『鍋の中』との大きな違いは、三人称視点の語りなので、初音さんの記憶の中にも、読者が入っていけるところだろう。初音さんが過ごした天津は、この先戦争が始まるとは思えないほど、のんびりとしていて、日本人や中国人や欧米人の子供たちが仲良く遊んでいる光景も見れるような場所だった。
それもそのはずで、当時の天津は「租界」と呼ばれる外国人居住区であり、行政自治権を持った場所だった。初音さんは、そこで自分と同じく夫の付き添いで天津にやってきた奥様方と欧米風のあだ名で呼び合いながら交流し、自分とは入れ違いに天津から満州国へ渡った、ラストエンペラー・
しかし、初音さんの追憶は、認知症患者ゆえなのか、だんだんと混沌としてきて、現代と過去の境目はもちろん、自分と友人の体験談も交じり合い、会ったことのない婉容の姿を幻視したり、自分と婉容とを同一視し始めたりする。婉容はエリザベスという英語名を持っていて、タイトルは彼女のことを指しているのだと分かってくる。
また、同時並行して、初音さんと同じ老人ホームに入っている認知症の老人たち、主にお婆さんたちの心の中にも入っていく。その追憶でも中心となるのは、戦時中の体験で、自分と兄弟同然に育ってきたが戦地に送られた馬たちと枕元に現れる牛枝さんや、多産の体質故に背中に幼子を背負いながらで耕作するBGMで砲弾の音が聞いている乙女さんのような方がいる。
そんな風に、初音さんは幸福だった二十代の思い出に浸っているので、勝手に外に出たり、謎の名前を言いだしたりする母を、娘たちにとっては暢気に見えるのかもしれない。しかし、戦争に対峙した若い初音さんたちにとっては、それが処世術だったのだろう。周囲の奥様方や婉容、旅立っていった馬たちや、日本の神様などと、共感したり、交じり合ったりしたりして、過酷すぎる時代を乗り越えていったように感じる。
それでも、辛い記憶は追いかけてくる。初音さんが、窓の外に大きな魚がいると騒いだ時に、その正体が描かれた追憶にはドキリとした。老人ホームのお婆さんが懐かしい唄を歌っていると、突然謝りだしたお爺さんが出てきたりと、生死が隣にあった時代の傷は、老人たちの中に確かに刻まれている。だが、娘たちや介護者たちは、それを知らないので、寄り添ってあげられないというもどかしさがある。
介護する側から描かれる、老人たちの描写は中々だ。生きているのかどうかも怪しいみたいなこともはっきり描かれている。それでも、認知症であるという事を、「可愛そう」「不幸」とは言わずに、むしろそれがボーナスのように語られている。
私たちは、彼らとどんなふうに接していけばいいのか。私たちが認知症になったらどうなるのか。そんなことも考えてしまう一冊だった。
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