DUEL

arm1475

DUEL

 この地下迷宮が拓かれてから果つ事を知らぬ闇が、打ち払われかねないほど激しく震えていた。

 迷宮の隅々に行き渡る、屍の温もりという表現が相応しいほどの昏く重い空気を、一筋の白刃が斬り分ける。

 そこには、大刀が収まった鉄鞘を背負う鎧武者の青年が、両刃剣を握り締めて暗闇の中に佇んでいた。

 鎧武者は瞑って浅く呼吸を繰り返し、耳を澄ませて周囲を伺う。

 鎧武者の正面にある闇の奥で、突如何かが蠢いた。

 ガツリ、ガツリ、と、何か重い図体を持った、牛馬の蹄らしき爪音が続いていた。

 やがて、鎧武者の吐息が止まる。

 次の瞬間、鎧武者は眼をかっと見開き、獣の様に吼えた。

 否。鎧武者は一言も声を発していなかった。

 吼えたのは、鎧武者の全身から一気に噴き上った、禍々しいまでの闘気。

 全身の毛と言う毛が全てざわめき、全身の細胞が沸騰しているかの様な、凄まじいまでの気勢である。

 鎧武者が噴き上げた闘気が、彼が手にする剣の刀身を包み込んだ途端、鎧武者は剣を振り上げ、正面の蠢く闇目掛けて突進する。

 鎧武者が握り締める、鏡の様に研ぎ澄まされた鋼の両刃刀は、光の疾風と化し、再び暗闇を斬り分けた。

 その閃きは、闇の奥に潜む巨大な影の輪郭を闇色から浮かび上がらせた。


 それは水牛の様な輪郭を持っていた。

 外見とは裏腹に、アダマンタイト鋼やダマスクス鋼の様な高密度の超金属に匹敵する硬度の皮膚を持った、『塞牛さいぎゅう』と呼ばれる妖獣であった。

 この妖獣が誇る、絶大な防御力を備えた堅い皮膚と山の如き体重は、それに立ち向かった者が手にする刀剣を易々と受け止めてしまう。

 そして、相手が怯んだ隙に、肺に取り込んだ空気を高重量高密度の体内で圧縮する事で造り出した、マグマの温度に相当する超高温の熱気をその顎から吐瀉し、相手を一瞬にして炭化させてしまう恐るべき能力を発露し、屠る。向こうにするには余りにも危険な妖獣なのである。

 そんな恐るべき防御力と攻撃力を誇る妖獣の能力をもってしても、鎧武者が闇を滑らせ征くこの閃光の刃を防ぐ事は叶わなかった。

 残像すら空を斬り疾る刃は、熱気を吐瀉せんとする『塞牛』の口へ水平に滑り込み、そのまま腰部まで一気に突き抜けて二つに分けてしまったのである。

 『塞牛』の体内に溜っていた高熱の圧縮空気は、断たれた身体の隙間から一気に噴き出し、小山の様な背中を十ヤード上にある天井にめり込むまで噴き飛んだ。

 一閃にして『塞牛』を屠った斬撃を放った鎧武者は、闘気を帯びた刃を討ち放ったままの姿で、大きく深呼吸し、ゆっくりと姿勢を戻した。

 そして、背中の鞘に収まったままの、鯉口を封印糸で封印されている大刀の柄先を右手で撫でると、未だ鋼がぶつかり合う音が聞こえる左の方を向いた。


 そこでは、鎧武者と同じ鋼の鎧や、金銀のデコレーションが施された法衣を纏った五人の男女が、幅広の銅剣を振り回す、中途半端に装備された鎧の下に爬虫類の様な青白い体色を持つ鬼、『凌鬼りょうき』の群れと交戦していた。

 戦況は、戦力がほぼ互角であったが為に、膠着状態に陥っていた。


「――皆、離れろ! 『凍破』を仕掛ける!」


 『凌鬼』と交戦していた鎧武者の仲間達は彼の声に反応し、間断無く攻め入る『凌鬼』達の刃を払い退けて急いで後退した。

 『凌鬼』達が、彼らが怯んだものと思い、歓喜の声を上げて追撃せんとしたその時、脇から迫り来た巨大な青白い光球に、全員あっと言う間に飲み込まれた。

 光球に飲まれた『凌鬼』達の身体が即座に凍り付く。そして次の瞬間、砕け散ってしまった。

 『凌鬼』達を一瞬にして凍壊させた光球を放ったのは、『鋼牛』を瞬殺したあの鎧武者であった。

 鎧武者は『魔導法』と呼ばれる、自然界の理を施行者の感覚を司る生体エネルギーを触媒にして変異させる法術の一つ、『視覚の魔導・〈凍破〉』を以て、『凌鬼』達を全滅させたのである。


「ひぃえぇ。流石、〈狂君城塞〉イチの実力を持った『魔導剣士』、〈冠位マスターのサコン〉。たった一人で全滅させちゃった」


 凍結し自壊して行く妖物達を、何処かしら哀れむ様な目で見ていた、『探索士』職の技能を持つハルは身震いしながら言う。

 もっとも、その威力に戦慄したのではなく、自分達の居る地下迷宮の玄室内に広がった、〈凍破〉の魔力がもたらした冷気に、であるが。


「……大丈夫か」


 サコンと呼ばれた鎧武者は、本当に心配しているのかと疑ってしまうくらいに無表情な面を仲間の方へ向け、両刃の剣を鞘に納めながら仲間の許に近寄りながら訊いた。

 すると、先程の戦闘で左肩に受けた刀傷から血を流して苦悶の相を浮かべている、小柄の筋骨隆々とした青髭の男を看ていた、皮鎧を装備した金髪の少女が青年の方へ振り向いた。


「ラキが怪我しただけで、他は何とか無事よ」

「そうか」


 鎧武者=サコンは淡泊そうに呟いて頷くと、ラキと呼ばれる怪我をした仲間の傍に寄る。


「……傷は浅そうだな。ラキの傷は俺が治す。セルナアはいざという時の為に『心力法』を温存しろ」


 セルナアと呼ばれた、可憐な美貌を持つ少女に一瞥もくれず、冷淡に言うサコンは、屈んでラキの肩に傷口に手を当てると、何やら小声で呪文らしきものを詠唱し始めた。

 すると、傷口に当てられたサコンの掌から淡い白光が広がり、見る見る内にその傷口を塞いだのである。ラキは傷口が塞がれていくのと共に痛みが消え失せ、十秒足らずで完治してしまった。


「……『魔導剣士』に転職クラスチェンジしても、『聖戦士』時代に培った『心力法』の冴えは相変わらずね、サコン」


 傍らで、サコンの見事な法術治療を見て感心しながら見ていた女魔導師は、〈狂君城塞〉で一、二を争う美貌を笑顔で弾ませた。

 サコンは、当然の行為と言わんばかりに、無表情のまま何も応えず立ち上がり、辺りを見回した。

 やがて、サコンの昏い眼差しは、玄室の出口である、大きな鉄製の扉へ向けられて静止した。


「……奥にまだ、奴の気が漂っている」

「本当に、この先の玄室に、奴が居るの?」


 セルナアに問われたサコンは、こくり、と頷き、


「ああ。噂に間違いが無ければ、な」


 セルナアはサコンをじっと不安気に見つめる。


「だけど、相手は魔族よ。――それも最高階位に属する、生ける伝説の悪魔。……もう、魔界に還っているのでは?」


 セルナアがそう言うと、無表情であったサコンの貌に一瞬、殺意の様な色が走った。


「それは無い。この〈紅き妖魔師の迷宮〉全体に広がる、凄まじいまでの邪気。これこそ、魔族の、それもかなりの力を有した存在の気配」


 そして一呼吸置き、


「……未だ、奴は居る」


 サコンはそんなセルナアの疑念を諌めるかの様に、静かにしかし力強く否定した。

 セルナアはすっかり気圧され、反論出来なかった。

 俯くセルナアの肩を、傍らから、か細い掌が触れた。


「……セルナア、御免なさいね。不断はああじゃないんだけど……相手が相手だけに、サコンも気が立っているのよ」

「シヴァさん……」


 セルナアが振り向くと、シヴァと呼ばれる先の美貌の女魔導師が、うなじを撫でながら済まなそうに笑っていた。シヴァは困った時、自分のうなじを無意識に撫でる癖を持っている事を知っているセルナアは、


「……私、この迷宮の尋常じゃない邪気に、少し臆病風に吹かれてたみたい。……馴れたつもりだったんだけど、こんな深いところでは流石に辛いかな」


 セルナアは、サコンの背中に一瞥をくれて、儚げに微笑んでそう呟いた。

 サコン達一行は、屠った妖物の残骸を除け、玄室の中央に結界を張り、そこで暫しの休憩を取った。

 刻を計る為に多色蝋を累積させた刻蝋〔ときろう〕が、二色程溶け落ちた所で、一行は結界を解き、次の玄室目指して、腐臭の漂い始めた玄室を出た。


 程なく、昏い迷宮の通路を突き進む一行の目前にある闇の奥に、この迷宮で死した者の血肉で造り上げられた様な、そんな悪夢のような錯覚を覚える、赤茶けた大きな扉が浮かび上がった。


「……此処、ね」


 シヴァが思わず身震いして言う。

 『気』を操って戦う『魔導剣士』でなくとも、この扉の向こうから発せられる凄まじい邪気は、はっきりと感じられた。

 間違いなく、この扉の向こうに奴が居る、と。

 サコンは険しい貌をして正面の扉に手を当て、暫し黙り込んだ。


「サコン……」


 不安に駆られたセルナアが問う。

 サコンはゆっくりと仲間達の方へ面を向けた。

 仲間に見せたサコンの表情は、何かの限界を今にも越えて爆発しそうな、妖魔の群れをも圧倒せしめる彼の不断をも知る者ですら、殆ど見た事の無い表情をあらわしていた。

 必死の相、とでも言うべきであろうか。

 サコン程の強者でさえ死を覚悟する、『奴』とは一体?


「皆な。本来の迷宮探索を無視して、此処まで俺の我が儘に良く付き合ってくれた。

 しかし、皆なも判るだろう、この玄室内の途方も無い邪気――」

「まさか、帰れ、何て言わないだろうな?」


 ラキは蓄えた顎髭を震わせながら苦笑してみせた。


「手前ぇの勝手で地下九階まで付き合わせておいて、ハイお払い箱かい?冗談じゃねぇ!」

「駄目だ、と言っても付いていくからね」


 シヴァはしたり顔で意地悪そうに言う。ハルや、〈狂君城塞〉いちのポーカーフェイスで知れる、お下げ髪の『賢者』スォーズマンも、珍しく口元に笑みを浮かべて頷いた。


 セルナアだけが、サコンを黙って見つめていた。

 何故か、怒りと憎しみを帯びて。


 サコンは仲間の覚悟を理解した。

 そして、ゆっくりと、一人だけ様子の違うセルナアの顔を見た。

 セルナアはまだサコンを睨んでいた。

 サコンはそんなセルナアに何も言わず、再び扉に振り返って手を掛けた。


「…………行くぞ」


 サコンの重く低く響く声が、他の仲間達を身構え直させた。笑う者は既に居らず、本来斯くあるべきであろう、戦慄の色が各々の貌に走っていた。

 サコンは扉を押し開けた。

 同時に、玄室内部より凄まじいまでの質と量を備えた邪気が、洪水の如く溢れ出て来た。

 セルナアは邪気に圧倒されるが、身震いして気を取り直す。

 先陣を切るサコンの背を見つめながら、セルナァは此処までの道程を感慨深げに回想し始めた。――――



 もう、二年も前の事である。



 セルナアはいつもの様に、〈狂君城塞〉直轄の訓練場にて、一人前の『心法師』と成る為の『心力法』の修行を終えた後、〈紅き妖魔師の迷宮〉に挑んだ『魔導剣士』の兄アレスと、その親友で、戦いに於いて傷付いたその身を『心力法』を駆使して癒しながら戦い続ける、驚異の戦闘技能を備えた『聖戦士』職の青年、サコンが居る迷宮探索隊の帰還を、城塞の入り口で待ちわびていた。


 アレスとサコンは、訓練場のそれぞれの師匠から印可を賜った程の優れた冒険者であった。

 特にアレスは、『気』を支配する戦闘術を得意とする『魔導剣士』だけが使いこなせる、希少な破邪の片刃剣『覇王殺し』の所有者でもあり、他の冒険者達から、最高位の称号を冠した〈不敗のアレス〉と謳われていた。

 セルナアはいつもの様に、元気な姿で来る二人の帰還を楽しみにしていた。

 いつものように笑顔で迷宮の中から出てきて、笑顔で迎える自分に二人して、自宅までの帰路で、迷宮内で見つけた希少価値の高い古代の魔導秘宝の謂れや冒険譚を語ってくれる事が、修行で覚えた彼女の疲労を癒してくれるのだ。

 もっとも最近の彼女は、兄の親友の笑顔を見る方が一番の楽しみとなっていた。

 いつかは、兄や彼とあの迷宮を探索する冒険の時を共有したい。そんな淡い想いが、彼女の修行への励みであった。

 西日が世界の曖昧な色に染め変え、光がその日の力を失おうとしていた頃になって、漸く彼らは帰って来た。

 いつものように。――否、その中に居るべきハズの兄を除いて。


「……サコン?」


 セルナアは、亀裂だらけの鎧を纏って精魂尽き果て、まるて魂の抜けた様な面持ちの『聖戦士』を見て、例えようのない不安に駆られた。


「……ね……ぇ……アレス兄さんは?」


 セルナアは、決して訊きたくなかった問いを口にした。

 口にする事など絶対にない、と信じていたから、その声は余りにも弱々しいものであった。

 サコンは何も答えようとせず、やがて力尽きたかの様に俯いてその場に跪いてしまった。

 不安の余り、次第に動悸が早くなって行くセルナアは、何も答えてくれないサコンの後ろを付いていた、焼け焦げた法衣を纏い、眼を赤く泣き腫らして消沈するシヴァを認めた。


「シヴァさん! 兄さんは……兄さんは!?」


 だがシヴァも、俯いて何も答えようとしなかった。


「お願い……教えて!私だって、冒険者の端くれよ!……覚悟は……覚悟は出来ているわ!」


 セルナアは今にも泣き出しそうな貌を必死に堪えて訊いた。

 そんなセルナアを見て、漸くシヴァが口を重々しく開いた。


「……あんな化け物が居たなんて……思いも寄らなかったわ。

 ……まさか……あの〈蒼き戦慄〉が、『魔導法』最高位の呪文、『神覚の魔導・〈爆炎〉』を唱えてくるなんて…………!」

「〈蒼き戦慄〉って――」


 セルナアは瞠った。


「――確か『豪魔ごうま』の二つ名だったよね………………そんな莫迦な!」


 セルナアたちが信じられないのも無理も無い話である。

 〈爆炎〉と呼ばれる『魔導法』の呪文は、攻撃呪文の中で究極の破壊力を備えた高等呪文である。

 見た目は文字通りの凄まじいまでの爆炎が相手の身を灼き尽くすのだが、その正体は、目標物が存在する空間に反物質を生成して対消滅現象を起こさせ、空間ごと破壊する、究極の破壊術なのだ。

 六感全てを超越した、第七感たる『神の感覚』を触媒として消費する最高位の法術だけあって、〈紅き妖魔師の迷宮〉に潜む妖物の中では、迷宮に挑む冒険者達が挙ってこの地下深くにその行方を追っている、迷宮の主たる〈紅き妖魔師〉と、時折、彼に魔界より召喚される、『魔界六大天魔』が一人、〈血色の烈風〉の二つ名を持って恐れられる魔神『風呀ふうが』以外唱えた事が無い。

 近年行われた、王家直轄の魔導法院の調査でも、生体エネルギーを触媒にせずに直接、魔力を消費して施行するには余りにも膨大な魔力量を必要とする為、その二人以外唱えられないという結論が出され、定説とされていた。


「……地下九階の城塞寄りにある玄室で、山の様な蒼い巨躯を持つ奴と遭遇して、アレスは透かさず奴の片角を『覇王殺し』で斬って先手を取った迄は良かったわ……。

 次の一太刀で仕留めようとアレスが『気』を溜めていた時――奴は放ったのよ、〈爆炎〉を!!」


 シヴァは悲鳴のような声で締めると、それ以上語る事が出来なくなり、その場に蹲って泣きだしてしまった。

 セルナアはシヴァの説明を聞きながら暫し放心していた。

 しかし程なく、ある事象を思い出すと、セルナアははっと我に返った。


「――で、でも! 兄さんの亡骸なり、灰なり残っていれば、城塞寺院の高僧様達が蘇生させてくれるわよ!

 一体、何処?灰なら誰が持って――――?!」


 引きつる笑みを浮かべるセルナアの問いを遮ったのは、サコンが差し出した、鉄鞘に収まった兄の愛刀『覇王殺し』の一振りだった。

 セルナアはサコンより『覇王殺し』を手渡された。

 無言で友の愛刀を差し出した彼のその手は、小刻みに震えていた。


「アレスは〈爆炎〉の直撃をまともに受けて……『覇王殺し』を残して灰になってしまったわ……。

 他の皆なも大ダメージを受けて……あのままだったら全滅していたわ。

 サコンはそう判断して、消滅し切っていないアレスの灰に『心力法』最高位の呪文、〈再生〉を掛けて……再度、アレスの太刀で撃退させようと…………!」


 悲痛を堪えて再び開口し始めたシヴァの言葉の、ある一つの単語に、セルナアは激しく反応した。


「……〈再生〉……ですって!?」


 次の瞬間、セルナアの貌に怒りが走り、手にしていた『覇王殺し』を無防備のサコンの顔に叩き付けた。


「サコン! どうしてっ?!何で、あんな成功率の低い危険な蘇生呪文をっ!?」


 セルナアは顔を真っ赤にして怒鳴った。

 問い詰められるサコンは、鞘を受けて負った額の傷から頬へ伝い落ちる新たな流血を拭おうともせず、沈黙を守っていた。


「賭けだったのよ……!

 成功すれば、甦ったアレスが片角の奴を断つ……だけど、失敗して完全に消滅してしまった……。

 ――仕方が無かったのよ……もう……後は無我夢中で、何処へ転移するか判らないのを覚悟で〈瞬移〉の呪文で脱出したのよ……生還出来たなんて奇跡よ…………!」


 シヴァはサコンを苦悶の相で弁護した。

 しかし怒りに我を忘れたセルナアにはその声は届かず、夕映えの空にサコンを責めるセルナアの悲痛な声ばかりが響き渉るのみであった。


「何でよ……何で、兄さんをそのまま連れて還って来なかったの!?

 サコン! 兄さんを返して! 返してよぉっ――っ!!」



 翌日、セルナアは意外な話を耳にした。

 『聖戦士』のサコンが、訓練場で『魔導剣士』の修行を始めたと言うのである。


 その日以来、セルナアはサコンの姿を見掛けなくなった。

 互いに意識して疎遠になった事もあろうが、セルナアが漸く『心法師』として迷宮に挑めるだけの実力を備え、訓練場で知り合った他の冒険者達と探索隊を組み、日の出前に迷宮に入り、夜更け過ぎに帰還する多忙な毎日が繰り返される様になったのもその理由であった。


 暫くして、『魔導剣士』の修行を終えたサコンも別の冒険者達と探索隊と組んで迷宮に挑む様になった。


 日に日に増える彼の武勇伝だけが、セルナアの耳に入るだけだった。


 『魔導剣士』サコンの武勇伝が次第に増えて行く度、セルナアは自宅の居間に飾っていた兄の形見の愛刀を無意識にじっと見つめる回数が増えていた。

 修行を積んだ『魔導剣士』以外の者がその鯉口を切れば、その者は自らの『気』を全て吸い尽くされて死に至ると恐れられている『覇王殺し』は、兄の師匠によって封印を施されていた。

 セルナアは、宝の持ち腐れと思いつつ、不思議とこの刀から兄の気配を感じられる気がして、どうしても手放す気にはなれなかった。

 時折、本当にそれだけなのか、と小首を傾げる事があった。


 果たして自分は何を待っているのだ、と。



 そして、一昨日の夕刻。迷宮の地下九階に於いて、アレスを斃した片角の『豪魔』が出現し、七組の探索隊を壊滅させたらしいという話が城塞中に広がるや、迷宮行を終えたセルナアの前に、あの〈不敗のアレス〉に負けるとも劣らない、凄まじい『気』を纏った『魔導剣士』の青年が現れた。


「……『覇王殺し』を貸して欲しい」


 セルナアの眼を見据えて請うサコンに、セルナアはゆっくり首肯した。


「……但し、私も連れて行く事が条件よ」




 一対の戦鬼が、溢れ返る邪気の大海の中で静かに対峙していた。

 それを、五人と、一体の、それぞれの仲間が見守っていた。


「何故――〈血色の烈風〉が片角と一緒なのよ?!」


 シヴァは玄室に入るなり悲鳴をあげた。

 場数を踏んだ冒険者達でも滅多に遭わぬ――遭いたくない、巨大な朱色の体躯を持つ魔神、『風呀』。

 それが一行の目前に片角の『豪魔』と一緒に待ち構えていたのだ。余りの事に、サコンを除いた五人は恐慌を来してしまった。


「恐らく……片角は魔神の後継者なのだろう。あの実力なら頷ける処がある」


 一人冷静でいるサコンは、魔神の凄まじき邪気に気圧されて狼狽する仲間を庇うように立ちながら感嘆した。

 驚愕の敵を向こうにしても、サコンの狙いは、只一つだけであった。

 サコンは片角を睨み付ながら、背負っていた『覇王殺し』の収まった鉄鞘を徐に外して口元に寄せると、鯉口を封印する呪文が細かに刻まれた封印糸を歯で噛み切った。

 すると『覇王殺し』は、深呼吸をするかの様に、鯉口の隙間から、サコンが纏う『気』を一気に吸い込み始めた。


「駄目よ、サコン! いくらあなたでも、〈爆炎〉を唱えるヤツを二匹も相手にするなんて危険よ!」


 セルナアはサコンが身構えた事に気付き、恐怖を堪えて叫んだ。

 しかしサコンは退かない。

 それ処か、何とサコンが全身から放出する『気』は、次第に二匹の妖物の邪気を圧倒し始めたのである。

 この『気』こそ、〈不敗〉と呼ばれるまでの熾烈な修行を二度繰り返した男が極めた成果であった。その凄まじい殺意色の気迫は、迷宮を跋扈する『豪魔』が唸り声を上げて怯え始めたコトからも分かろう。


「セルナア」


 思わずセルナアは瞠った。

 凄まじく立ち上る『気』の奥から、とても懐かしい安らいだ声がセルナアを呼んだのだ。


「……これは仇討ちでも、俺と片角との勝負でも無い。

 あいつの昇華の為なんだ」

「あいつ……?」


 言われて、セルナアの脳裏に、不思議と直ぐに懐かしい青年の顔が甦った。

 サコンが言う、あいつ、とは、昔から一人しか居なかった。

 サコンは片角を見据えたまま、ゆっくりと『覇王殺し』の鯉口を切る。

 鞘の中から僅かに見せた刀身は、露の様な青白い光を纏って煌いていた。


「あいつは……奴を斬らんと自分の『気』をこの剣に溜めて散って逝った……。言わば、あいつの魂がこの中に封じ込められたままなのだ。

 だから俺は、この破邪剣を使いこなせる『魔導剣士』となって、この刹那を待ったのだ」

「サコン……!」


 セルナアは、そして他の仲間も見た。

 この『魔導剣士』の会心の笑みを。

 それを見た美しき『心法師』の胸には、かつての想いが懐かしく去来していた。

 緊迫の糸は今も尚、その場の全ての存在を繋ぎ止めていた。

 その糸を断ったのは、片角の『豪魔』であった。片角は〈爆炎〉の呪文を詠唱し始めた。


「いけない! サコン! 


 それに気付いたセルナアが思わず叫んだ。

 同時に、片角は呪文の詠唱を終え、〈爆炎〉の力が放たれた。


 刹那、サコンは満身の力を込めるが如く、自らの『気』を込め纏う『覇王殺し』を鞘から雄々しく引き抜き、居合いの一閃を討ち放った。


 互いが、極限の力を放った。


 その極限同士の激突がもたらした結末は、想像を絶する結末を生んだ。

 片角が放った〈爆炎〉の威力を、サコンが居合いで放った『覇王殺し』の剣圧が僅かに勝って弾き返したのだ。

 『覇王殺し』の剣圧が加わって自乗された究極の破壊力は片角に跳ね返された。

 果たして、片角は存在する空間ごと一瞬にして消滅してしまった。後に残ったのは、文字通り真空の穴であった。

 『風呀』の巨影は、あの禍々しい邪気と共に、いつの間にか玄室内から消えていた。

 今の激突に巻き込まれた様子も無い。かといって暗がりに潜むような姑息な存在でもない。禍々しくとも、神の眷属である。

 冒険者たちに須く恐怖の対象であるそれは、同時に、孤高をもって冒険者たちに立ち向かう誇り高き魔神でもあった。

 事実、混乱していたセルナアたちは気づいていなかったが、サコンと片角の『豪魔』の対峙の最中、『風呀』は一切の手出しをせず、まるで二人の激突を見守るように沈黙していた。恐らくは、サコンの『気』に臆した後継者の無様な姿に失望して、さっさと魔界へ戻ったのであろう。

 勝者のサコンもしかし、無傷とは言えず、纏う鎧が燻っていた。

 〈爆炎〉の威力を弾き返した刹那、僅かだがサコンの『気』と対消滅を起こし、サコンの身体を焦がしたのである。


「サコン!」


 暫し放心していたセルナアは、漸く闘いが決着した事に気付くと、慌ててサコンの許に駆け寄る。

 幸い、サコンの身体は火傷程度で致命傷は皆無であった。


「熱ぅ……火傷するから未だ触らん方が良い」

「莫迦ぁ…………こんなに……無理して…………!」


 セルナアは溜らず泣き出し始めた。

 サコンは少し困った様な顔をして戸惑う。そして、ふう、と軽く深呼吸してから、焦げた左親指でセルナアの頬の涙を拭ってやった。


「……セルナア」

「ん?」

「未だ……君に謝っていなかったな……」

「……うぅん。良いのよ、もう」


 セルナアは静かに頭を横に振って微笑んだ。

 サコンも微笑みを返した。

 ふと、サコンは、右手に持っていた『覇王殺し』が、ゆっくりと軽くなって行く事に気付いた。

 役目を終えた『覇王殺し』からは、抜き放った時の輝きは失われ、本来の主の後を漸く追うのか、燃え尽きた魂の様に塵と化し、やがて全て玄室の虚空の中へと消え去った。


「……さようなら」


 セルナアは破邪の剣が昇華していく様をサコンの胸の中で見届け、祈る様にそう呟いた。



                  完

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