a-05.理と緑(2)

 何をどうしてそうなったのかは絢人にも分からないが、小石原こいしわらさとしは小さい頃から偏屈の人嫌いで有名だった。

 彼は幼稚園の頃から癇癪がひどく、一度それが破裂すると手が着けられない子供だった。幼稚園の級友たちも先生たちも、彼がいつ何時どんなきっかけで怒り出すのか全く分からないため次第に敬遠するようになり、そのため絢人けんとが憶えている一番古い記憶ではもうすでに彼は独りぼっちだった。実は絢人もこの時離れていったひとりである。

 だが小学校に上がってしばらく経った頃、絢人は雨の中独り傘も差さずにずぶ濡れになりながら帰って行く理を見かけた事がある。不思議に思って理が来た方向をしばらく探すと、公園の砂場の脇の茂みの中に、生まれたばかりの仔猫が数匹入れられたダンボール箱とそれに差し掛けられるように置いてある理の傘を見つけたのだ。それから何日か様子を見ていると、理は学校の行き帰りに必ず立ち寄り餌を与えているようだった。


 それがある日、理が公園に寄らずにまっすぐ帰って行くので気になって様子を見に行くと、くたびれたダンボール箱と二匹の死骸だけが残されていたのだった。最初に見たときはもっと数が多かったのだが、いなくなった仔が自力で出て行ったのか誰かに拾われたのかは絢人にも分からなかった。


 それ以来、絢人は理のことを本当は優しいやつだと思っていて、それとなく様子を見てやるようにしている。


 理の癇癪は成長とともに悪化し、誰も寄せ付けようとはしなかったため、絢人も普段は距離を置きつつ必要な時だけ寄り添うようにした。両親が帰ってこない時に妹のみどりともども夕食に招待したり、教科書や筆記用具を忘れてきた時にさり気なく貸したり、具合が悪い時に保健室へ連れて行ってやったり、そういう軽い世話に留めるようにしていたのだ。

 そうした成果もあってか、理は絢人だけは決定的に遠ざけようとはしない。特に緑の世話に関しては感謝しているようで、明確ではないが感謝の言葉らしきものを言われたことも二度ほどあった。

 そして高校二年に上がった現在、理のことを気にかけているのは理の家族・親族のほかは絢人と柚月と、絢人を通して間接的に見ている美郷だけと言ってよい。他は誰も関わり合いにならないように避けているのが実情だった。



 絢人が考える“理が居そうな場所”はまず屋上。それから教室と図書室、そして校庭の隅のクヌギの大木の根元だ。

 屋上は独りになれる場所が多く、図書室は本さえ読んでいれば誰からも干渉されることはない。教室ではいつも独りだし、クヌギの下は陰になっていて茂みもある。教室から探して屋上、図書室、クヌギが最後ということで絢人の中でルートが出来上がる。

 絢人は入り口から校舎に入ってまず二階の二年生の教室へと向かう。途中、剣道部の面々に見咎められたが軽く詫びて振り切った。

 人影もまばらな教室をざっと巡ったが理のクラスにその姿はない。なら次は屋上だ。


 と、そこへ向こうから黒森くろもり紗矢さやが歩いてくる。彼女は確かどの部活にも所属していないはずで、もうとっくに帰ったと思っていたのだが。でも校内に残っていたのなら理の姿を見ているかも知れないし聞いてみる価値はある。


「なあ黒森、理を見なかったか?」


 声をかけると彼女は少し驚いた顔をして立ち止まった。


「小石原くん?な、なぜ私が彼の行方を知っていると思ったのかしら?」


 聞きたくない名前を聞いた、というような顔で少しムッとしながら彼女が言葉を返す。

 実は意外に理も彼女に告白したひとりである。当然振られたわけだが、理はそれ以来何かと彼女に突っかかるようになっていて、それで彼女は理のことを厄介な相手だと認識して避けるようになっていた。避けるためにはその動向を気にしていなければならないため、もし見かけたのなら必ず彼女はそこから離れるように動くはずで、絢人はそれを見越して声をかけたのだった。


「……まあいいわ。彼なら三階に上がるところを見たから、二階には居ないはずよ」

「そっか、ありがとう」


 やはり彼女は理の姿を見ていた。三階に上がったということは職員室棟三階の図書室か教室棟の屋上のどちらかにいるということになる。礼とともに軽く手を振って、絢人は踵を返して背後の三階への階段に向かう。

 その姿を彼女はじっと眺めていたが、絢人が気にする様子はなかった。



  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 絢人はまっすぐ教室棟の屋上へと向かう。屋上への扉は鍵が壊れていて放置されたままになっているので、誰でも出入りが可能になっている。とはいえフェンスで仕切られた限られた空間にしか入れないが、それでも給水タンクの塔の上や空調の排熱機の裏など、ひとりで身を潜められる場所が多い。

 そして理は、給水タンクの塔の上に座って高い空を眺めていた。


「おーい理。緑が校門で待ってるぞ」


 絢人は理に近付いて、塔の下から声をかける。しばらく反応がなかったが、少し待つと面倒くさそうに理が顔を動かして絢人の方を見る。


 理は見るからに色白で不健康そうな顔つきをしているが、病気らしい病気はしたことがない。小学校の健康診断でも健康優良児として表彰されたことすらあるほどだ。体格も痩せても太ってもおらず、絢人とさほど変わらない。

 たださすがに絢人ほど鍛えてはいないし誰かと殴り合いの喧嘩などもしないので、腕力のほどは人並みでしかない。成績も学年平均とさほど変わらず、運動も含めて目立たない、悪く言えば何の取り柄もない少年だった。

 理の外見で目立つのは主に顔立ちだ。特に不細工というわけではないが、病的に落ちくぼんだ眼窩といつ見ても不機嫌そうな表情で、笑顔など見せたこともない。まるでこの世の全てを呪ってそうだ、と言った級友もいたくらいで、周囲に壁を張っているのが初対面でもよく分かる。何が楽しくて生きてるのか分からない、と周囲から囁かれるのが常だった。


「…………太刀洗か。緑には終わったんならもう帰れって言っとけ」


 ひどくぶっきらぼうな物言いだったが、絢人はそれを『自分に関わりがあるなんて知られたら緑が可哀相だから、式が終わったのならそのまま帰らせろ』の意だと解釈した。

 でもだからといって、理の考えをそのまま容れるわけにはいかない。


「お前が緑を気遣うのは分かるけどさ、せっかくの入学式なんだから記念写真のひとつでも一緒に撮ってやれって。今日はお袋さんも来てないんだろ?緑寂しそうにしてたぞ?」


 緑が寂しそうだと聞いて少しだけ理の顔が歪む。やはりこいつは妹思いの良いやつだと、絢人は改めてそう思った。

 なら、もう一押しだろ。


「別に校内を案内してやれって言ってるわけじゃなし、写真撮ってそのまま一緒に帰ればあんまり人に見られることもないだろ。そう心配しなくてもいいんじゃないか?」

「……それは……」

「可愛い妹の節目のイベントなんだからさ、お前もちゃんと祝ってやれよ。そのくらいしてもバチは当たらんと思うし、むしろ最低そのくらいは恩返ししとかないとダメだと思うぞ?」

「……。」


 小学校でも中学校でも、トラブルを起こす理の代わりに謝って回るのは緑の役目だった。それを分かっている理は押し黙ったまま、しばらく逡巡していたが、やがて立ち上がると諦めたように梯子を伝って塔から降りてきた。


「正門だと言ったな」

「おう。待ってるから早く行ってやれよ。

あ、多分今はウチの母さんと柚月が一緒にいるはずだから」


 桜と柚月が一緒だと聞いて理は再び固まるが、すでに塔を降りていて引っ込みが付かなくなっている。結局、渋々ながらも屋上から出て行った。


「やれやれ。素直じゃないんだから世話が焼けるよな」


 ひとつ軽くため息をついて、でもどことなく嬉しそうに絢人はひとり呟く。

 理がわざわざ校舎の一番高い所に登って空を見上げていたのは、彼なりに妹の門出を祝福するためだったのだと絢人は正確に理解している。だったらもっと直接的に祝ってやればいい、と普通なら思うところだが、幼い頃から誰も信用せずに近付く者を全て遠ざけてきた理は、妹に対してさえもどう付き合っていいか分からなくなっているのだろう。


 絢人は胴着の下からスマートフォンを取り出す。胴着のまま校舎を駆け上がったせいで汗をかいており、画面が少し曇ってしまっていた。それを袖で拭い、妹に電話をかける。


「あ、柚月?……うん。理そっちに行ったから。もう少し待っててやってって緑に伝えてくれ」

『もう見つけたの?お兄ちゃんてホント理さんのことよく解ってるよね』


 半ば呆れたような感心したような柚月の返事。直後に電話の向こうで、理さんこっち来るって~!と彼女が緑に声をかけるのも聞こえてくる。少しガサゴソと雑音がしたかと思うと、次に聞こえてきたのは緑の声だった。


『ケン兄、その、ありがとう……』


 いつもは元気一杯な緑の、あまり似つかわしくないしおらしい声。緑が本気で照れたり喜んだりする時はたいていこの声になる。


「いいって気にすんな。理が来たらウチの母さんに写真撮ってもらいな。

あ、あと待ってる間に柚月とも撮ってもらうといいよ」

『あ、そっちはもう、おばさんが大喜びで何枚も撮ってたから……』


 さすが母さん。考えることは同じだったか。


「そっか。記念写真撮り終わったら理と一緒に帰ってやりな。校舎の案内は明日にでも俺がしてやるからさ」

『うん、分かった。ホントいつもありがとう』

「いいよ。じゃあまた明日な」


 緑の声が少し元気になってきたのを確認して、それで絢人は通話を切る。

 さて、そろそろ剣道部の勧誘に戻らないとな。






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