85 小さな命を救い上げた

 鈴音が向かったのは、アパートとは逆の方向だった。

 この先は、町外れで田畑が広がる、静かで寂しい場所だったはず。


「ちょっと待て、鈴音。どこへ行く気だ」

「もうちょっと先。池で溺れてる」


 こんな所に池なんてあったかと思いつつ、鈴音のあとを追いかける。

 本当に池があった。それも、そこそこ大きな池だ。

 周囲をブロックでお椀状に固められているが、あまり手入れがされていないのか、泥だか苔だかでかなり汚れていた。

 見ただけで、近付けば足が滑って危ないと分かる。


 池の中で、何かが水飛沫を上げていた。

 サイズが小さく、人間ではなさそうだが、たしかに何かが溺れているようだ。

 水藻か何かが絡まっているのか、姿がよく分からない。小動物のようだが……

 一瞬の迷いが判断を遅らせた。


「鈴音、ちょっと待て!」


 止めるのが、ひと呼吸遅かった。

 あっという間に宙に身を躍らせ、とても綺麗とは言えない……それどころか、泥水にしか見えない濁った水面に、鈴音が飛び込んだ。

 ため池に落ちたら危険だと聞いたことがある。

 コンクリートで固めてある面が滑りやすくなっているのはもちろんだが、それ以外にも……詳しくは覚えていないが、一度入ると抜け出すのが困難だったはず。


 俺は急いで周囲を見渡し、何か使えそうなものがないかと探してみる。

 こんな時のための設備は? 浮き輪やロープ、何でもいい。何かないか?

 だが、そんな設備は無いし、役に立つものが都合よく見つかることもない。


 どうする? どうすればいい?

 雫奈や優佳を呼ぶべきか。だが、呼んだところでどうなる?

 もちろん、俺が飛び込むのは絶対にダメだ。

 頭の中でグルグルと思考が巡るが、盛大に空回りしているようだ。

 どうしようかと悩んでいると……


「エイ兄、受け取って!」


 鈴音の声に我を取り戻して視線を向けると、何かがこちらに向かって飛んできた。

 バスケットボールほどの物体が、正確に俺の胸元へと飛び込んできて、俺は難なくキャッチした。……と共に、異臭を放つ水滴を盛大に浴びた。


「冷てぇ……」


 腕の中の物がもぞもぞと動いたのでギョッとしたが、どうやら子犬のようだ。溺れていたこいつを鈴音が助け、投げて寄越したのだ。

 それはいいとして、鈴音はどうやって戻るつもりだろうか。そう思って視線を向けるが、池の中に鈴音の姿がなかった。

 まさか沈んだのか? ……などと、最悪の事態が頭をよぎり血の気が引いたが、次の瞬間、思わぬ方向に気配が現れた。


「どう、エイ兄。この子、大丈夫そう?」


 振り返って鈴音の姿を確認し、安心すると同時に脱力した。

 なるほど、池の中から跳んだのだろう。


「ったく、鈴音、お前まで溺れたらどうしようかって焦ったぞ」

「えっ? ボクなら大丈夫だよ。……あっ、心配させて、ゴメン……」


 俺の言いたいことに気付いたのか、途中からシュンとした様子で頭を下げる。


「悪い。別に怒っているわけじゃなくて、俺が勝手に心配しただけだ。鈴音が無事ならそれでいいし……まあなんだ、こいつが助かったのは鈴音のおかげだ。よくやったな」


 うなだれている鈴音の頭を撫でようと思ったが、手が濡れていることに気付いて引っ込める。

 どうやら鈴音は全く濡れていないし汚れてもいなかった。むしろ、俺の方が大変なことになっていた。

 とにかく、この危険地帯から遠ざかるのが先だ。俺はずぶ濡れの子犬を抱きかかえたまま池から遠ざかり、少し広めの農道に座り込んだ。


 冷静に考えれば、そんなに焦る必要はなかった。

 なんせ鈴音は神様なんだから、そんなヘマをするはずはないし、そう簡単にくたばることもないだろう。

 未だに俺は、この姿に惑わされ、本質を理解できていないようだ。

 そんなことを思いながらカバンを開け、お地蔵様の手入れ用に常備している手拭いを取り出して、震える子犬を優しく丁寧に拭いてやる。

 動いているので生きてるってのは分かるが、詳しい健康状態までは分からない。


「怪我はなさそうだが、身体の調子は悪そうだよな」

「う~ん、ちょっと見てみるね」


 なるほど、見るという手があったか。

 そう思い、何度が手拭いを絞りながら子犬を拭き、あらかた水気が払えたところで、身体を包んでやる。

 落としたり転がしたりしないよう、胡坐を組んだ足の間にしっかりと乗せ、俺も視界を切り替えて観察してみる。


 ……やはり、人間以外だと魂の状態が見えないようだ。

 それならばと、この子犬の魂だけでも見えるようにと調整──デザインするように認識を変えてみる。

 どうやら成功したようで、子犬の魂が見えるようになった。だが、数値は五十八とやや黒に寄っているもののケガレや呪いはないと分かったのみ。考えてみれば、これで健康状態が分かるってわけではなかった。

 どうすれば、そういうことが分かるようになるのか……なんて考えてみるが、何も思い浮かばなかったので、仕方なく視界を戻す。


「どうだ鈴音。何かわかりそうか?」

「う~ん、寒いけど温かいって。あと、お腹が空いてるのかな。怪我や病気は無いみたい。あと、疲れたって言ってるよ」


 たぶん上着よりも肌着のほうが温かいだろう。そう思い、俺は脱いだ肌着を提供して、子犬の身体を包んでやった。これで少しはマシになるだろう。

 汚れた布をビニール袋に放り込み、子犬を抱きかかえて秋月神社へと向かう。

 その辺りまで戻れば店も多い。まだ朝なので開店しているかは微妙だが、最後の砦であるコンビニもある。


「鈴音、一人で買い物に行けるか?」

「うん。……でも、お金ない」

「金なら俺が出す。この子が食べても平気なものとか分かるか? できれば、温かい飲み物もあればいいんだが……」

「任せて」


 小銭入れにお札を折り畳んで入れ、鈴音に渡す。

 ……と同時に、いきなり走り出そうとしたので、慌てて引き止める。


「待て、慌てるな。まだ店が開いてるかも分からん」

「売ってる場所も、値段も分かるよ」


 土地神だと、そういうことも分かるのだろうか。


「お、おう、そうか」

「エイ兄は、秋月神社で待っててね」

「分かった。そっちは任せたぞ」


 俺が買いに行っても良かったんだが、おそらく飛沫を浴びたせいで、かなりドブ臭くなっている。そんな奴が入店したら、店も迷惑だろう。

 鈴音だけで買い物に行かせるのは不安だが、何の知識もない俺が行ったところで、細かくジャンル分けされたペットフードの中から、最適なものを選び出す自信はない。


 俺は犬種も分からない子犬を抱え直すと、鈴音を信じ、歩く速度を上げた。

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