夢の旅路Ⅱ

 やばいまずいどうしよう。


 着ていた服は水の壁に突っ込んで洗ってる最中だ。


 まずい。


 お兄ちゃんの服借りて着ようかな? いや、そもそもお兄ちゃんは着替えを持っているのか?


 やばい、どうしよう。


 裸を見られるのも相談するのも恥ずかしい!


 まじでどうしよ。服を持ってくればよかったなあ。そしたらリュックはもう要らないなんてことにならなかったし、気を遣わせずにすんだのに!


 ああすればよかった、こうすればよかったという後悔にうちひしがれながら、何かないかと考えを巡らせた。


 そうだ、あるじゃないか! 夢衣!


 物凄く久しぶりに中身入りの水泡を作り出し、あれ? これ自前のリュックじゃないか? って気づいて悶絶した。


 お兄ちゃんごめん、私何も要らなかったわ!


 しばらくうずくまってから頭を振って思考をどこかへやり、夢衣を中から取り出した。


 お兄ちゃんにはなんて話せば良いんだ。私のできること、お兄ちゃんにずっと黙ってるべきかな?


 悩みながら夢衣で適当に猫に化け、浴室を後にした。


「ニャー」


 お兄ちゃんに話しかけると、演奏をやめて不可解そうにこちらを見た。


「どういう風の吹き回しかな?」


 首をかしげながら、私をしばらく見つめてから顔を真っ赤にして顔をそらした。


「素直にはやめにそう言ってくれれば良いのにっ」


 猫の姿のまま首をかしげた私を置いて、お兄ちゃんは外に出た後、何かの植物を育てていた。


 お兄ちゃんの反応とこの行動から服を作ってくれてるのだと察し、まさか裸見えてたのかな? なんて思うと顔が真っ赤になってきた。


 でも、もし見えたとしてもどうして!?


 見えてた可能性が高いから浴室へ戻って夢衣を外し、丸まって顔を赤くした。


 まじか、見えてたのか、まじか!


 まだそうと決まった訳じゃないけれど、そうとしか思えなくて死にたいくらい恥ずかしくなった。




 しばらく膝を抱えて丸まっていると、お兄ちゃんが声をかけてくれた。


「着替え、気に入らないかもしれないけどここに置いておくね。またしばらく演奏するから、ゆっくり着替えると良い。体冷えたりしてない?」


 いやもうこれ絶対見えてたわ。


「……殺してくれ」


 自然と口をついて出た言葉だった。


「えぇ……?」


 お兄ちゃんはすごく戸惑ったような声で反応している。


「見えてたなら見えてたって言ってよ! 私も隠すタイプだけどなんかこいつミスってんなって思ったら教えてよ!!! 変に気を遣われる方がつらいよ! きついよ! 殺してくれええ!」


 私の最後の叫びを聞いたお兄ちゃんは大声で笑っていた。


 お兄ちゃんが大声で笑うなんて、初めて聞いたからちょっと、いや、かなり嬉しかった。


「ごめんごめん。あのね、夢魔の夢衣ってさ、看破出来るんだよ。だから、姿を隠しきりたいなら夢魔の国の中か、相手の夢の中でないといけないんだよ。知らなかったんだね……その……もう少し痩せた方が……」


「それは余計な一言! 言われなくてもわかってますっ!」


「そ、そっか」


「自分じゃ気づかない、気づいてないこと教えて欲しいって言ったの!」


「ごめん……今の体型もかわいくて好き」


「な、にゃにいってんの!?」


「だって、自分じゃ気づけないことって」


 言葉にならない叫び声をあげると、お兄ちゃんは鼻で少し笑った後に演奏を再開した。


 からかわれたのか面白がられたのかわからない!


 片割れが中学生の時、クラスメイトの男子が罰ゲームつきの遊びをしていたのを思い出した。


 罰ゲームの内容は片割れに告白するというもので、片割れはすごく鬱陶しく感じていた上に、罰ゲームだとわかりきっていたから不快感を示すと誰が好きでお前なんかに言うかとか喧嘩腰で返事されてたっけかな。


 嫌なら関わらなければいいのに。


 でも、お兄ちゃんのこれはそれとは違って、なんだか……。


 照れくささや嬉しさが素直にこみあげてきて爆発しそうだった。


 嬉しくて幸せが溢れて止まらない反面、魂って体型とかいろいろ変えられるのかという疑問が湧いてきた。


 後で聞こう。


 それより自分じゃ気づけないことであんなこと言われるなんて思わなかったな……。明日からどんな顔して一緒にいればいいんだろうか。


 耳まで熱いのを感じながら、お兄ちゃんの用意した服を着てみた。


 普通の服と変わらない生地に、葉っぱを繋げたり編んだりした部分もあって、全体的に緑色をしていた。花びらもあしらってあって、なんかちょっと可愛らしい。


 すごく軽い服で、着ているのかどうかもわからないくらいだ。

 

 本当にこの短時間で作ったのか疑ってしまうくらいにはすごい出来だ。魔法みたい。




 着替え終わり、部屋に戻るときすごく緊張した。


 壁越しに演奏しているお兄ちゃんの背中が見えるし、お兄ちゃんを見るだけでなんだかすごくドキドキする。


 さっきくれた嬉しい言葉が頭の中に何度も木霊する。


 好きって、どういう意味の好きだろう。可愛いを強調するための『好き』だろうか。


 相手からの好意をなかなか受け入れきれなくてそんな事を考え出す自分がいた。


 いや、そもそも好意かどうかなんてまだはっきりわかってないじゃないか。きっと、きっと気のせい。


 意識しそうだったし、浮かれているけれど本当は自分の思っている好きじゃないかもしれないのが怖くて、気のせいだと言い聞かせ、気持ちを落ち着かせて部屋に入ったけれど、どうしても意識しちゃって、ぎこちなくなってしまった。


 でもちゃんとお礼を言わないと。


「おにいちゃん、これすごいね。軽くて着心地良くてデザインも好……良くて。ありがとう!」


 好きという単語を言えなくて、違う言葉で表現してしまうくらいには意識してしまっていた。


 お兄ちゃんの方を見れないからどんな反応をしているのかわからないけれど、弦楽器を奏でる手が止まっていないのは確かだった。


 怒ってるのかな? それとも、声が小さくて聞こえなかったかな?


 そんなことを思っていると、お兄ちゃんの声が弦楽器の演奏に乗って聞こえてきた。


「似合ってるよ。すごく可愛い。ところで、好きな花とか、背中につけたい憧れのものとかある?」


 また変な声をあげて叫びそうになったけれど、お兄ちゃんの質問も気になった。


 もしかしてリュックがいらないのを気にかけて違う何かでサポートしようとしてくれてるのかな?


 照れくささや恥ずかしさでパンクしそうになりながら一生懸命考えようとしたけれどなかなか思い浮かばない。


 顔が赤い自覚がありながら考え込んでいると、幼いころに観たアニメで憧れていたことを思い出した。


「羽かな?」


 憧れていたのは、天使が悪戯をして回って空を飛んでいるシーンだった。


 ものすごく自由で、ものすごく楽しそうで、私も羽があったら空を飛びたい、羽があれば空を飛べてあんな風に悪戯できると思っていたっけ。


 まだこっちに連れていかれる前の話だ。保育所に通っていたころだったかな。


 今となっては、蒸気や雲に化ければ一時的に空を飛べるけれど、羽があって自由に飛ぶのとはまた違うから……。


 懐かしい思い出、懐かしい憧れに思いを馳せていると、お兄ちゃんが少し悩ましそうな顔をしながら演奏を止めた。


「羽かあ……」


 無茶で無理なお願いだったかな?


 他の物を提案しようと思っていたけれど、お兄ちゃんが私の後ろに立ち、そっと抱きしめてくれた。


 緊張して息が詰まり、一気に心臓が暴れだした。


 顔が熱くて頭がくらくらして、真っ赤になってるんだろうなと他人事のように思いながら、体が強張って動かなくなるのを強く感じる。


 抱きしめられたのは一瞬だけで、背中に少し重みを感じ、回されていた腕は蔓になっていた。


 まさか?!


「どうかな? 思うような羽じゃないかもしれないけど」


 首を回して見てみると、葉っぱと花が見えた。


「ごめんね。どうしてもさ、花の妖精だから植物にしかなれなくて。夢魔の夢衣を使えば鳥か何かになって羽が生えているような真似事できたかもしれないんだけど、夢魔になると吸精しないといけなくなるから」


 お兄ちゃんは知らないところでも気を遣ってくれていたんだ。


 胸の奥がじんわりと熱くなってくる。


「別に吸精されてもいいんだけどな」


 お兄ちゃんになら別にいい。


 そんなことを思って言ったけれど、お兄ちゃんは嫌そうな反応をした。


「……僕はしたくないから。君が良いといってもね」


 なんだか少し嬉しかった。大事にしてもらえてるように思えて、心がどんどん温かくなる。


「ところで、全体がどうなってるか見えないんだけど、どうなってるの?」


 どんな羽がついているのかワクワクしながら聞いてみると、お兄ちゃんは自信なさそうに答えてくれた。


「生け花とかみたいに、枝と葉っぱと花がついてる状態だよ」


 聞いてイメージしただけで直接は見ていないけれど、羽とはかけ離れていたとしても、お兄ちゃんがつけてくれたものだからすごく嬉しいんだけどな。


 言葉にして伝えるのは恥ずかしくてできなかったけれど、嬉しい気持ちがあるのは確かだった。


「あ、良いこと思いついた。ちょっと一回解くからじっとしててね」


 お兄ちゃんがまた元の姿に戻り、背中から抱きしめてくれている状態になってすごくドキドキした。


 背中の方からとてもいい花の香りがする。


 また腕が蔓になり、今度は綺麗な白色が背中についているのが見えた。


「背中に花を生やしてみた。花弁が大きくて綺麗で羽っぽいやつ。こっちの方が羽っぽくて良いかなと思って」


 視界に映っている部分だけでも十分綺麗で大はしゃぎしそうなくらいには嬉しい。すごく神秘的で透明感のある白色だ。なんて綺麗なんだろう。


「これはなんて花?」


 お兄ちゃんはふふふと笑っている。


 どうして笑っているんだろう?


「秘密」


「なんで!」


「なんでも」


「なんでもって言われてもなあ。気になって夜も眠れなくなるよ」


「……それは困っちゃうね」


 妙な間に少しだけドキッとしてしまう。変な意味じゃないんだろうけど。


 そんなことを思ってからすぐ、いったい何考えてるんだろうな、なんて思い始める自分がいた。


 お兄ちゃんはただの保護者だから……。


「気になるなら、今度図書館で調べてみると良いよ。勉強がてら。もしこの花が気に入ってもらえたなら、明日からこの姿でついていっていいかな?」


 迷わず頷いた。何度も何度も頷いて嬉しさを全面的に出していると、お兄ちゃんは鼻でふっと笑っていた。


「相当気に入ってくれたみたいで良かったよ」


 お兄ちゃんはそう言い終えると変身を解き、そっと腕を離した。


 ちょっとだけ名残惜しさを感じつつも恥ずかしさがあって、そういえば本のお姉さんから預かった本は何が書いてあるのかが気になった。


「本読もうかな」


 お姉さんからもらった本は全部で二冊。


 ブラックホールのような表紙の本と、タイトルもなにもない無地の本。


 まずブラックホールのようになっている表紙を開けてみると、日記のような内容で文字が書かれていた。


 なんだろう? エッセイ? それともただの日記?


 どんな内容かに興味をもって目を通し続けてしばらくしてから絶句した。


 これ……記憶の本だ。しかも、これってもしかして優しいお兄さんの……?


 優しいお兄さんに物心がついたときから、気さくなお兄さんに出会うまでと、出会ってからの話が書かれている。


 セラピストのお兄ちゃんから聞いた内容と同じ出会い方だ。洞窟でボロボロになった幼い気さくなお兄さんと出会って冒険に出たって。


 片割れの本と違い、日記形式で文字が書き連ねてあり、挿絵はなかった。


 人それぞれ記憶の本の文章表現やレイアウトが違うのを初めて知った瞬間でもある。


 あまりに面白くて続きが気になり、ページを読み進める前に珍しく自分にブレーキがかかった。


 お兄ちゃんが演奏を始めたから、意識が逸れたためでもある。


 興奮交じりに記憶の本を渡されたことを話してしまうか、黙ってこのまま読み進めるか……。にしても、どうして本のお姉さんはこれを私に?


 いろいろなことが頭に浮かんでくる。本当に、どうしてお姉さんはこれを?


 もしかしたらお兄ちゃんが冒険の話をしてくれるかもしれないし、これを読むのは後回しにした。続きが気になって仕方がないけれど、もう一冊は何だろうか?


 何もないページが一枚、タイトルも目次も何もなく、複雑そうな魔法陣の描かれたページが一枚、魔法陣のページの裏側も魔法陣で、何もないページが一枚。


 なんだろう? 西洋版の御朱印みたいだな。


 次のページからは箇条書きのように読めない文字が横書きでずらっと並んでいた。


 なんだろう? レシピ本?


 ページを指で挟んで、ぱらぱらとめくってみると、どれも似たような書かれ方をしているページばかりで、最後にまた違った模様の魔法陣があった。


 何の本? 魔術書?


 私の反応に気づいたらしく、お兄ちゃんが心配そうに声をかけてくれた。演奏する手は止めないまま。


「何かあったの?」


 話すべきか悩んだけれど、わからないことだらけだから正直に聞いてみることにした。


 優しいお兄さんの本のことは伏せたまま、この読めない本をお兄ちゃんに見えるようにして広げて見せた。


「それは僕にもわからないな……。旅立つとき本の虫から渡されてたやつだよね? 魔術書の類かもしれないね。そういえば、うっすら文字が光ってるみたいだけど、触ってみた? 本の虫は何も言わずにそれを渡したの?」


 お兄ちゃんの質問にちょっとだけ思い出す時間をもらってから頷いた。


「何も言われなかった。ただちょっとにっこりしてから渡されただけ。文字にはまだ触ってないよ」


「なんだろうな……。あいつ、僕たちの中でも何考えてるのかわからないからな……」


 お兄ちゃんは少し警戒しているけれど、本のお姉さんってそんなに危ないのかな?


 そんなことを思いながらそっと文字に触れてみると、文字がぼうっと燃え始めた。


「わっ!!」


 大声をあげる前にお兄ちゃんは演奏をやめて私の手から本を叩き落していた。


 文字が燃えたこと、お兄ちゃんがこんなに速く動くのを初めて見た驚きで息が詰まり、心臓が一瞬強く跳ね上がった。


「怪我は!?」


 お兄ちゃんが私の両手を優しく握ってまじまじと見ていた。


 綺麗な顔で優しくて……温かくて大好き。


 もし仮に顔が整っていなくても、お兄ちゃんの心遣いや優しさが大好きで安心できるから、きっと同じように思っただろうな。


「痛いところない?」


 優しい声、優しい心、優しい言葉で心配してくれて、なんだかすごく嬉しかった。思わず涙が出てしまいそうなくらいに。


「ないよ」


 顔が熱くて恥ずかしくて照れくさくて、目を逸らしながら答えると、そっと抱きしめて頭を撫でてくれた。


「咄嗟だったとはいえ、本を叩き落しちゃってごめんね。君にとって本は大事なものなのに。怪我がなくて本当に良かった」


 息が詰まりそうなくらい心臓が暴れて爆発しそうだった。


 無理だこんなの初めてされた! 死ぬ!


 あまりにでかい気持ちが抑えきれなくて、お兄ちゃんの腕から無理に抜け出し、本を見てみた。


「ごめんね」


 お兄ちゃんの言葉に首をゆっくりと横に振る。


「……あり……がと」


 消え入りそうな声で言葉を一生懸命紡いで出すと死にたくなった。


 死ぬ、気持ちが抑えられなくて頭のてっぺんから噴火しそうで死ぬ。


 無理無理無理! 死ぬ! いうんじゃなかった!!


 本を抱えながら水の床を転げまわりそうになっていると、燃え始めた文字が読めることに気づいた。


「あ、あれっ? なんか読める」


 声が裏返りながら本を指さすと、お兄ちゃんも一緒になって本を見た。


 やだ恥ずかしい死ぬ。隣に来ないで。


 思わず突き飛ばしそうになったけれど、ぐっと我慢して燃えている文字に集中した。


 そうだ、集中だよ。気持ちを抑えるんじゃなくて逸らせ。


 これは本のお姉さんから教えてもらった魔法の一つじゃないかな? なんだったっけ?


 お姉さんの稽古でもらった魔術書辞典を取り出して調べてみたところ、気になる異性との子どもを授かれる魔法と書いてあって勢いよくパタンと辞書を閉じた。


 ぶぁあ! なんて変な声をあげそうになったけれど、何とか抑えることができた。


 なんて魔法を仕込んでんだあの人は!!!


 お兄ちゃんは不思議そうな顔でこっちを見ている。


 見ないでえええ! ちくしょう! こっちを見るな!


 気持ちが昂っているのを抑えきれなくて思わず本で自分のおでこを思いきりたたいた。


 無理!


「ど、どうしたの?」


 お兄ちゃんが慌てふためいていて、あまりの申し訳なさに消えたくなる。


 無理……無理……!


 なんとなく、本のお姉さんが笑っている姿が頭に浮かんできた。


 まさかこうなるのわかっていたんじゃないか!?


 あれやこれやと考え込んでいると、お兄ちゃんが頭をそっと撫でてくれた。


 み、みられたかな? 魔法の辞書の内容と文字、両方ともみられたかな? 気まずくて顔をあげられないよ!!!!!


 うずくまって叫びそうになっていると、お兄ちゃんがそっと魔術書に手を伸ばしているのが見えた。


「これ、なんていう呪文だったの?」


 よっしゃ!! 見られてない! 良かった!!!


「それは秘密だよ」


「そ、そう? 君の反応と関係ある気がしたんだけど」


「ない」


「本当に?」


「ない!」


「そ、そうか」


 お兄ちゃんが魔導書を手渡してくれて、ようやく少し顔をあげることができたけれど、顔が熱くなりすぎてくらくらしていた。


 そういえばこの呪文、さっき触れただけで燃えたけど、今はおさまってるな。


 一つ下の呪文に触れてみると、同じように燃えて文字が読めるようになった。


 これはなんだろうか?


 お兄ちゃんをちらっとみてから辞書を引いてみると、寝るときにリラックスできる魔法らしい。


 上のやつのせいで変な意味に思えてしまって悶絶しそうだったけれど、関係がないと切り離した。


「この呪文とかどうかな。寝るときリラックスできるんだってさ」


 上の呪文のことは伏せてお兄ちゃんに提案してみると、すごく感心したようだった。


「そんな魔法があるなんて、欲しがる人は喉から手が出るくらい欲しいものだね」


 使ってみたらどうなるのか、お兄ちゃんの評価も反応もよさそうだし、使ってみたいな。


「試しに使ってみるよ。危ないかもしれないから離れてて」


 念のためお兄ちゃんと距離をとり、呪文を読み上げた。


 別に口に出す必要なんてなくて、黙読しながら文字をなぞるだけで良い。


 本のお姉さんから教わった、魔導書、魔術書を用いた魔法の使い方だった。


 大昔、魔法を使うには魔法陣を書いたり素材を用意したり、様々な準備が必要だったらしい。


 杖や水晶、剣、本、いろいろなものに魔法を封じ込めることで使いたいときにすぐ使えるようにする技術があったとかなんとか。それがきっとこの魔術書だ。


 魔法や魔術の違いは学んでいたけど結局はっきり区別をつけて覚えられなかったな。


 精霊が関わるのがどっちだったっけ魔術だったかなー。


 片割れが区別をつけられず内容は覚えられるように、私も区別をつけて覚えるのが苦手でどっちがどっちだったかわからなかった。


 ま、いっか!


 魔法の効果が発動されたのか、私の目の前には眩しくないけど見惚れてしまうような光が舞っていた。


 綺麗だな。


 確か、見ていて落ち着けるものが見えたり、聞こえたり、匂ったり、感じられるようになるんだったか。


 水の中にいるようなふわふわしてひんやりして、熱すぎず寒すぎない、ちょうど良い心地よさ。


「すごいな……この魔法は」


 お兄ちゃんには何が見えているのだろうか? 目を輝かせながら見回している。


「寝るときって言ってたけれど、もしこのままお風呂へ行ったらどうなるのかな?」


 お兄ちゃんは少し心配そうに聞いている。


 確か辞書には……。


「問題ないって。その人が眠たい時に発動してくれるみたいだから」


「魔法って便利だね。奇跡みたいだ。僕にだって使えるんだけどさ、こういうのは初めて見たから。あいつ、こんなに良い魔法持ってるなら使ってくれても良かったのに」


 少し口をとがらせているお兄ちゃんを見るのは新鮮で良かった。


 お兄ちゃんがお風呂へ行っている間、しばらくベッドに寝転んで心地よさを堪能した。


 なんだか星空がもっとにぎやかになったみたい。


 家が水でできているから、水中から見上げた満天の星空を堪能しているようで心地が良い。気を抜いたらこのまま眠ってしまいそうだ。


 寝てもいいかなと思ったけれど、お兄ちゃんがあがるまで待っていたかった。


「あれ? 寝てても良かったのに」


 お兄ちゃんはちゃんと着替えを用意していたらしい。


 どこにしまっていたかわからないけれど、とてもすっきりして寝やすそうな服になっている。


「君が壁の中に服をいれていたから、真似してみたんだけどあれでよかった?


 お兄ちゃんの返事に、まどろみながら頷いた。


「洗い終わったら勝手に出てきてつるされてくれるよ。水がロープみたいになって伸びるようにしてある」


「すごいなあ。君はすごく成長したよ」


 お兄ちゃんの言葉に思わずにんまり笑っていると、そのまま寝てしまいそうになった。


 まだ寝るわけにはいかない。聞きたいことがあるのに。


 意識が飛ばないように頑張って目を開け、お兄ちゃんに聞きたかったことを聞いてみた。


「お兄ちゃんには何が見えてるの? 私はねえ、水の中から見上げたみたいな綺麗な星がたくさん見えてる。涼しくて心地良い空気と感触。匂いは花の香りかな」


 話していると自然と目蓋が下がった。ふわふわしてて気持ちが良いなあ。


「すごく心地良さそうだね。僕には生まれ故郷のような花畑が見えてるよ。たくさんの花の香りに、懐かしい柔らかな日差し。もう滅びた世界の、戻ることのできない懐かしい景色。みんなと出会ったあの日のような……」


 お兄ちゃんの寂しそうな顔、懐かしさに思いを馳せている顔、幸せそうな顔、全部好きだと思った。


 お兄ちゃんが隣のベッドに寝転んだ。


「こんなに良い魔法、使ってくれてありがとう」


 照れ臭くて顔が熱くなってきた。


 あんまり照れ臭くて、ちょっと話を逸らしたいな。


「そういえばさ、吸精したくない理由、聞いても良い? 具体的に。吸われると何か悪いことがあるの?」


 お兄ちゃんは少し唸ってから返事をくれた。


「吸いすぎると無気力になったり、精神的にすごく疲れた状態になったり、放心状態になる。君たち人間の心が疲れきったときのようにね。だから、あんまり吸いたくないんだ。君のことが大事だから」


 お兄ちゃんは顔を少し赤くしていて私も顔が熱くなってきた。


「じゃ、じゃあさ、投げかけられた感情のエネルギーとかを吸うのはどう? まあ、吸うのは投げてきた元の人間なんだろうけど。例えば、八つ当たりしてきた人がいるとするでしょ? その人の怒ったエネルギーがこっちに向いてるんだから、食べちゃっても何も問題ないし影響ないんじゃないかな?」


 吸精がどういう原理かいまいちわかっていなかったけれど、何となく思ったことを口にしてみただけだった。


「なるほど……確かめたことなかったな」


 お兄ちゃんは頷いて唸っている。


「気にはなるけど、確かめるのは不安だな。吸われた人に何かあってからじゃ……ちょっと」


 お兄ちゃんはすごく優しいな。


 私だったら何かあっても大丈夫そうな人を使って試すのに。


 八つ当たり、言いがかり、人を傷つけて平気なやつの感情で実験するだろうな。何があっても、罪悪感があっても、後で自分に言い訳できそうだし。


 だから、お兄ちゃんのことがますます好きになった。尊敬もできる。一般的に良いと言われている方向で私にはできなさそうな考えをしていて、人格がとても立派だと思えたから。


「君も、確かめるのは不安でしょう? 思うのは自由だけど、実際するってなったらできない子だよ」


 そう……なのかな。


 考え込んでいると、お兄ちゃんが顎に手を当て、頷いてから提案した。


「吸精の仕方、知りたくない?」


 物凄く興味があった。


 迷わず頷くと、お兄ちゃんは少し困ったように眉を下げ、丁寧に教えてくれた。


「そうだな……。今日食べた木の実にバナナやパイナップルがあったでしょ? それぞれの木の実ごとに食べ方が異なるように、吸精にもやり方があるんだ。バナナは皮を剥いて食べるけれど、吸精は相手の心を吸いやすくする必要があるんだ。バナナでいうところの、皮を剥いて実を食べるための行動」


 お兄ちゃんは話し終えると、少し躊躇いながら私の手を握った。


 心臓が跳ね上がり、顔が熱くなってくる。


「……これでもう吸える。その……いきなり手を握ってごめんね」


 お兄ちゃんが手を離してしまうのを名残惜しく感じたけれど、素直に言えなかった。


「喜び、悲しみ、怒り、不安、安心、油断、憎しみ、恐怖、幸せ、様々な感情で心がいっぱいになって溢れると吸精ができる心の状態だ。どの感情が一番昂ったかで当人の状態も少し違う。心が不安定に揺れているのは恐怖や不安、絶望だ。舞い上がってふわふわしてるのは多幸感や喜びだよ」


 お兄ちゃんは私が手を握られると喜ぶのわかっててやったのかと気がつき、見つめてみるとこちらに視線を向けずに話を続けた。


「状態を教えるためにやっただけで吸うつもりはないよ。よし、やってみる?」


 お兄ちゃんの言葉にうなずき、何をするか考えて思いついたのが服を脱ぐ一択しかなくて、いざやるとなるとできなかった。


 他にお兄ちゃんの感情に働きかけられることが思いつかないしわからなかった。何をすればいいんだろうか。


 悩んでいると、お兄ちゃんが腕組をしながら目を閉じていた。


 驚かせばいいってこと?


 大声を出したり突き飛ばすのはためらわれた。あまりに目を閉じている姿が神秘的すぎたのと……叩いちゃってもお兄ちゃんはずっと優しくし続けてくれたから……。


「……できない」


 なんだか悔しくて涙が出てきた。ただただ悔しくて、何がどうして悔しいかうまく説明できなかった。


 お兄ちゃんに見られないよう、目を閉じている間に背を向けた。


「それはどうしてか聞いても良い?」


 お兄ちゃんに聞かれるとますます返事ができなくて、余計に感情をおさえられなくなってきた。


「あっ……」


 泣いているのに気づかれただけでなく見られてしまい、声を荒げそうになったけれど、お兄ちゃんが動揺しているのがわかった。


 これが吸精できる状態なんだ。


 何となく感じ取れた感覚だったけれど、ここからどうするのかわからなかったし、お兄ちゃんに吸精したいと思えなかったから、無意識に吸ってないか不安になった。


 安心したことに、吸精できる状態は一瞬だけで、お兄ちゃんはすぐ気を持ち直してくれた。


「今のがそう?」


 聞いてみると、お兄ちゃんは頷いた。


「そうだよ。できたね。吸精まではしなかったみたいだけど」


 それを聞いて安心した。


 ちゃんと傷つけずにすんでいたのだと。


「今何を思った?」


 お兄ちゃんの質問には答えられず、一回頷くだけにした。


 照れくささや恥ずかしさがあった。相手がお兄ちゃんだから心配したのかもしれないし、他の人にも同じように思ったのかもしれない。


 お兄ちゃんはそれ以上追求しようとせず、用意したベッドへ歩いて行った。


「使ってもいい?」


 お兄ちゃんの質問に頷いて答えると、お兄ちゃんは笑顔でお礼を言ってから寝てしまった。


 魔術書を開いてみてみると、さっき使った呪文の文字が消えてなくなっていた。


 あれ? おかしいな。


 もしかしたら一度きりなのかな。だとしたら慎重に使わないとな。


 本当に一度きりか、勘違いではないのか試してみたかったけれど、それはまた今度にした。


 お兄ちゃんも寝てしまったし、記憶の本を開いて読んでみようかな。


 優しかったお兄さんではなく、片割れの方の本を先に読んだ。今どんな調子なのだろうか。


 読んでて元気になれる漫画を見つけ、辛い生活の中でちょっとずつ頑張っている様子が書かれていた。


 やはり、優しいお兄さんと本の書かれ方が違っていて、これが人それぞれ異なる個性として現れているのだと思わされた。


 片割れのは動く挿絵がついていて、心情を中心とした出来事をまとめた日記だな。


 基本的にあんまりいい言葉をかけられていないからか、人から言われたことはあんまり書いてない。


 何があったか、何を思ったかが多い印象。


 今日の一日の内容を読み終え、優しいお兄さんの本に手を出してみた。


 気さくなお兄さんと洞窟で出会い、羽の人のお願いを聞いてあちこちお遣いという冒険に出かけ、いろいろな人たちと出会い、別れ、仲間が増えることもあった楽しい思い出たち。


 これで物語のシリーズが書けるんじゃないか? なんて思えるくらい読んでて楽しいものだった。


 あまりにたくさんの楽しい出来事を日記形式で読むことができて、お腹がいっぱいになった。まだまだ話の続きがたくさんありそうだ。


 続きを読むのが楽しみになりながら優しいお兄さんの記憶の本を閉じた。


 にしても、なんで本のお姉さんはこれを私に? 優しいお兄さんもあの大変な魔法の条件に挑戦したのかな?


 たくさんの疑問が浮かんできたけれど、確かめるには帰るしかなかった。


 正直なところ、あんまり帰りたいと思わなかった。


 私はどうしてこっちに連れてこられたのかわからなくなっていた。


 みんな片割れの方ばっかり心配して、冒険に出るってなったら少しは心配してくれるのかと思ったら盛大に見送られて。止めてくれるかなとかちょっと思ってたところがあったのに。


 でも、冒険には出てみたかったから別に良かったんだ。良かったんだけどさ……。


 複雑な気持ちが心の中でぐるぐる渦巻いていた。


 気さくなお兄さんは心配してくれてたんだなってわかったけれど、他のみんなはどうなんだろう。


 私っていらないんじゃないか? どうしてここにいるんだろう?


 自分がここにいる理由がなにもわからなかった。


 守るために分けて連れてこられて氷漬けにされて、気づいたら体が勝手に動いてるのを客観的に見て、平気なわけがない。


 私の体なのに。


 そもそも周りにいるやつら誰だよ。


 夢で見たと思ってた人たちが周りであれこれ話して何かしててさ、平気なわけあると思う?


 ずっと不安で寂しかった。片割れがこっちにきたときは少しほっとしたけれど、言葉にしづらい気持ちがたくさんあった。


 片割れにしたことは自分がしてほしかったことをしてみただけだった。


 本当は体を返せと言いたかったけど、あっちであいつの受けてる仕打ちを見たら戻りたいと思えなくて、こっちに連れてこられて良かったなんて自分に言い聞かせてきた。


 本当はどこにもいたくなんてない。どっちにもいたくない。だから飛び出してきた。


 捨てられた。


 そういう気持ちを抱えながらこんなところまできてしまった。


 寂しい、つらい、どこにもいたくない。わけがわからない。


 セラピストのお兄ちゃんのことは大好きになれそうだけれど信じきれなかった。


 監視しに来たんじゃないかと思ってしまうところがあって、そんなわけがないと自分に言い聞かせたくて、でもどこかで心を開けそうで、開くのが難しかった。


 みんなには一緒にいるのを秘密にするよう言われているけれど、それはどうして?


 何もかもわからない。


 わからないだけじゃなくて、つらかった。本当は信じたいのに信じきれないし、ずっと疑ってばかりなのが。


 冒険って楽しくワクワクしながらしたいものだったはずなのに、どうして。


 沈みそうになるのを頭を振ってどうにかした。


 よそう。考えても無駄だ。私に休まる場所はない。


 片割れはどうだろうか? ここがやつには落ち着く場所なのだろうか。


 少しだけ羨ましくて憎たらしかった。


 私にはどこにもないよ。


 もう一度頭を振って考えを振り払った。


 寝よう。寝てまた明日だ。

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