iro-awase

ゴオルド

かさねて

「リップつけすぎちゃった。もらって~」

「なんなのそれ、あざとすぎて引くんだけど」


 問答無用で押しつけられた唇は、人工的な香りがした。

 お風呂上がりのキスのような吸い付く感じはまるでない。ぷるりと水を弾くような感触だけ残して、彼女は離れた。


「人の口をティッシュがわりにしないでよ……」

 CHANELのルージュアリュールラックのスティル、つまりベージュ系の口紅をつけていた私の唇は、ジルスチュアートのリップブロッサムの何だか知らないが赤色のせいで、きっと中途半端な色になってしまったに違いない。

「ああもう」

 メイクを直さないとだめだろう。ベッドから立ち上がってバスルームに行こうとした私に、再接近する唇。

「馴染ませてあげる」

 重ね合わせる。こすりつけるような動きをして、でもそんな動きでは口の端までは届かない。

 私は彼女のおでこをぐぐぐと押して、強引に引きはがした。

 彼女は私の口元を見て、ぺろりと舌の先をのぞかせて笑った。

「唇の真ん中だけ赤くなっちゃったね。ちょっと変」

「もう、誰のせいよ」

 彼女の赤い唇の真ん中だけベージュ色になっていないのが理不尽だ。



 2月の金沢の早朝は、九州出身の私にとって耐えがたい寒さに違いないと覚悟していたのだが、泊まったホテルの部屋は空調が効いており、自宅より暖かくて快適だった。このまま二度寝したい気持ちを無理やり抑えこんで、仕事に行くための支度を続ける。

 ひとまず口紅のことは後回しにして、パジャマがわりのTシャツを脱いだ。La Perlaのバルコネットブラをつけてインナーを着て、白シャツのボタンをとめながら、彼女に声をかけた。

「機材のチェックはした?」

「してない」

 目を閉じてため息をつく。

「だって、あなたがしてるんだもん。私が再チェックしなくたって大丈夫にきまってる」

「それじゃダブルチェックの意味がない」

 そう言いながらも、仕事の腕を認められているような気がして悪い気はしない。


 今日は金沢で心臓血管外科のフォーラムがある。私たち二人は、そのフォーラムで行われるパネルディスカッションの議事録作成、動画撮影、あとお偉い先生方の記念撮影とか対談記事の作成とか、そういう仕事をやるために出張してきたのだ。

 こういう仕事で一番怖いのは機材トラブルなので、会社からは当日朝のダブルチェックを命じられているのだが、彼女は私と組んだときはやってくれない。ほかの同僚と組んだときは、ちゃんとやっているようなのだが。

「もし機材トラブルがあったって、あなたなら何とかできるでしょ?」

「そうだけどさあ」

 確かにトラブルがあっても何とかしてきたという自負はある。よくある故障ならすぐに直せるし。でも、こんなの彼女が手抜きをする言い訳のような気がする。


 彼女は既にメイクも着替えも済ませており、私をからかうのにも飽きたのか、

部屋の中をぶらぶらし始めた。ポットの中をのぞいたり、ベッドサイドの時計を意味もなく撫でたりしている。

「あっ、何これ、もしかして朝食!?」

 冷蔵庫を開けた彼女が歓声を上げて、おにぎりとサンドイッチを取り出した。

「総務が予約してくれたこのホテル、朝食なしのプランだったから、コンビニで買っておいた」

「さすが私のハニー。やるじゃん」

「でしょ」

「おにぎりとサンドイッチがあるんだけど。どっち食べていいの」

「好きな方」

 どちらも具は彼女が好きなものを買ってある。

「じゃあ両方」

「はいはいどうぞ」

 おにぎりの包装をぺりぺりとむいていく彼女を眺めながら、ベッドに腰掛けてストッキングを履き始める。

 むき終わったおにぎりを、「はい」と差し出されたので、大きく口を開けてかじり取った。いびつな形になったおにぎりを両手で大事そうに持って、彼女は椅子に座るともぐもぐと食べ始めた。


 セットアップのスカートのホックをとめて、腕時計をしながら、そういえば口紅もつけ直さないといけないんだったと思い出したとき、「はい」と今度はサンドイッチを差し出された。

「あーん」

 あーんなんて可愛げのある食べ方ではなく、がぶりとサンドイッチもかみ切ってやった。

「ねえ、あーんしてで食べるとき、なんでいつも目をつぶるの?」

「私つぶってる? 知らないよ、そんなの。自覚ないし。ただのクセじゃないの」

「えー?」

 彼女はいびつなツナサンドを食べ終えると、今度は玉子サンドを差し出してきた。

「目を開けて食べてね。あーん」

 促されるまま口を開いたとき、うっかり目を閉じそうになったので、無理して目を開けようとしたが、なぜか妙に恥ずかしくなった。

「うう……」

 半目になるのが限界だ。これ以上は目が開かない。なぜなのか自分でもわからない。

「顔赤いよ~。目を開けるの、そんなに恥ずかしい?」

「……うるさいな。仕事が終わったら、仕返ししてやるから」

 目を閉じて玉子サンドを噛み切る。

「ふーん。私、仕返しされたら、仕返しを仕返すから」

 本当に何かされそうな気がして、ちょっと怖い。


 彼女は再び椅子に腰掛け、私に半分近くかじられたサンドイッチを両手で包むように持って、もぐもぐと食べ始めた。そのとき、私はおのれの失策に気づいた。

「ごめん」

「ん?」

「メイクする前に朝ご飯のこと言えば良かったね」

 せっかく塗ったリップが落ちてしまっただろう。

「あとでリップ分けてもらうからいいよぉ」

 それはつまり、また唇を合わせてくれという意味か。

「分けない。自分のを塗って」

 朝は仕事モードに切り替わっているから、行ってきますのチューとか本当はしたくない。それなのに、彼女が可愛く笑うから、なんだかんだで言いなりになってしまう。

「お帰りなさいのチューは好きなんだけどな……」

 小さく呟きながら歯磨きとメイクのためにバスルームへ向かう私に、「あ、コートと靴、ブラシかけといたよ」と彼女が声をかけた。全然恩着せがましくない、何でもないことのような言い方で。そういうのが本当にもう、抱きしめたくなってしまう。


 支度が終わり、それじゃあ行きますか、という空気になったとき、彼女が抱きついてきた。私の服にファンデーションがつかないよう、あごをまっすぐに上げているから、自然と上目遣いになる。

「頼りにしてるね?」

 あざとい。絶対自覚してやってる。それをわかっているにもかかわらず、私には効果てきめんだ。

「うん……」

「そのかわり、おじさんたちとの雑談はまかせて!」

 女二人で現場に赴くと、おじさんたちがきまってなれなれしい態度で声をかけてくるのが頭痛の種だった。男性の同僚と現場に行ったときとは、あきらかに対応が違う。プライベートなことをあれこれ聞かれてうんざりするが、仕事相手だからむげにもできない。社交的な彼女は、そんな煩わしいおじさんのあしらいがうまかった。

「おじさんとあなたが話すの、嫌だし」

 彼女が私の胸を服の上からそっと撫でる。

「ここ見ながら話しかけるおじさんって、ほんと何なの。死んでほしい」

 私のものは人よりちょっとだけ大きめなので、目立ってしまうようだ。だから今身につけているような胸を寄せてあげるバルコネットのブラはやめたほうがいいと思う。ただ、このブラは彼女からのプレゼントで、しかも今日つけていくよう言われていた。私の胸をおじさんが見るのは嫌なのに、おじさん集団と仕事をする日にこのブラをつけろとは一体どういうことなのかまるで理解できないが、彼女がそうしてほしいというのだから、深く考えないことにした。


「そういえば。この前、新人の子に胸を揉ませてたよね」

「ええ? ……ああ、思い出した。あの子、そういうのがウケると思ってるみだいだね」

 実際のところ、休憩時間とはいえ後輩女性から胸をもまれて、いきなりすぎて笑ってしまったわけだが。私が笑うと、新人はほっとしたような顔をした。

「あの子、ちょっと空気が読めないんだと思う」

 女同士で胸を揉むのをギャグか何かと勘違いしている女は、いじめっ子かいじめられっ子のどちらかだと相場が決まっている。あの新人は後者だろう。

「可哀想だから、大目に見てあげて」

「嫌。もうあの子とは口聞かないで。挨拶もしないで」

 面倒なことになった。そう思うのに、なぜか悪い気がしないのはどうしてだろう。きっと本気で言ってるわけじゃないとわかっているからかも。……本気じゃないよね?

「ほかの子に触らせないで」

 これは本気で言ってる気がする。

「そろそろ出よう。遅刻するよ」

 私がスーツ姿には不釣り合いな大きなバッグを肩にかけたとき、再び唇を奪われた。

「ふふ、リップ分けてもらっちゃった」

「もう! また塗り直さないといけなくなったじゃないの」

 唇の中央だけ赤い自分を想像して、げんなりする。

「直さなくても馴染ませれば平気だってば。二人とも同じ色になるまでしようよ」

「もう~!」

 現場に着く前に、トイレに行く時間があるといいんだけど。

 自棄になった私は、自分から彼女に唇を合わせた。彼女は一瞬戸惑ったような顔をしたあと、嬉しそうに頬を染めた。

 つい、きゅんとしてしまう。

 ああ、ベージュは赤には勝てないのだ。



 ふだんより赤っぽい唇で現場に到着した私は、機材の準備をしていて青くなった。

「ICレコーダーが動かない! 今朝は確かに問題なかったのに。予備はあるけど数が足りないな」

 フォーラム開始時刻まであと30分しかない。ダブルチェックさえしていれば、もっと早く気づけかもしれないのに……。責める視線を彼女に向けると、彼女はにこりと微笑んで、「困っちゃったね?」と言った。

「全然困ってるふうに聞こえないんだけど……って、そんなこと言ってる場合じゃない!」

 頭の中で猛スピードで考える。今から家電量販店に行く、いや、まだ開店時間じゃないか。じゃあ、人に借りるか。こういう医学系のフォーラムには医学系雑誌のライターや編集者が来ることがある。彼らからICレコーダーの予備を借りられたら……。でもまだ会場にはそれらしき姿はない。そもそも必ず来るかどうかもわからない人たちだ。あてにするわけにはいかない。幸いビデオカメラはあるから録画するとして、集音マイクは……。

「あなたなら大丈夫だもん、心配するだけ無駄だし、私、おじさんたちの相手してくるね」

 彼女は素の笑顔から仕事用の笑顔に切りかえて、おじさんたちのところへ行ってしまった。

 もう~!

 でも。

 彼女に「ほら、やっぱりあなたなら大丈夫だった」って言わせたい。だから絶対なんとかしてみせる。そう思う自分は、なんかもう、だめなのかもしれない。



<完>

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