5-02 雨の戦い*
ザァァアアアア。
ハッと前を見ると、そこは土砂降りの雨が降る空間だった。
いつもの、カフェと同じ内装の部屋ではない。周囲は灰色の霧に覆われたように曖昧として、天井の見えない空間から雨が降りしきっている。
濡れていく身体に、はっさくは身を強張らせた。無意識に足を後退させるが、背後で扉が音を立てて閉まる。カシャリと、鍵の掛かる音までした。
はっさくは息を深く吸い、両手を握り締める。一歩、二歩と、前へ進んでいく。
べちゃ。べちゃべちゃ。
雨の音を掻き分けて、前方から物音が聞こえていた。
霧の先で、なにかが動いている。近づくにつれ、曖昧な輪郭がはっきりしてくる。
はっさくは足を止めた。目の前にいるのは、らいむ。床にうつ伏せになり、なにかを抱いている。服はいっさい身につけておらず、なめらかな肌が、雨に濡れていた。
「れもん……、れもん……、れもん……」
小さな呟きが、呪詛のように繰り返されていた。らいむは抱いているなにかの頭を撫で、唇を押しつける。まるで呼吸を委ねるように、深く息を吐き、吸い込む。そして顔を離し、再び呪詛を零しながら、頭を撫で回す。
はっさくは吐き気を催すほど戦慄した。全裸のらいむが抱いているのは、人形。マネキンのように、目も耳も口もないのっぺりとした顔。それに向かって、らいむは口づけを交し、嬌声を上げている。
「らい……、やめろ!」
震える身体にむち打ち、手を伸ばした。
らいむの動きが止まる。顔を持ち上げ、真っ黒な瞳が向いた瞬間。
「ぐっ……!?」
はっさくは腹に衝撃を受け、床に転がった。
顔を上げると、ぬらりと、立ち上がるらいむが見えた。瞳には生気がなく、表情を失った顔が、はっさくへと向けられる。おもむろに右手を持ち上げ、手首についたブレスレットを胸に当てる。
「邪魔……しないでください……」
感情のない声がした瞬間、光に包まれた身体が、真紅の衣装を身にまとう。両手の指に計八つのナイフを挟み、戸惑うことなくすべてをはっさくに投げつける。
「らい……!」
はっさくは立ち上がり、迫り来るナイフを避けた。真紅の袖が視界に入る。一瞬にして距離を詰めたらいむが、右手に持った一本のナイフを振り下ろす。
「……くっ」
はっさくは翼を羽ばたかせ後退し、脳天を突き刺そうとするナイフを避けた。頬に刃先がかすり、血が飛ぶ。
らいむは無表情のまま、翼を広げた。
とっさに、はっさくは右手首のブレスレットを胸に押し当てる。漆黒の衣装に身をまとった一瞬後には、らいむが懐に入り込み、左右に持ったナイフを振り払ってくる。
「らい、落ち着け!」
振るわれるナイフを鉤爪で受け流しながら、はっさくは声を上げた。
らいむは答えない。いつもの穏やかな微笑は面影をなくし、夢鼠を狩る際のような優雅な動きでもない。感情は消え失せ、対象物を抹消しようとする殺意のみが、はっさくへと向けられている。
「らい!」
はっさくは、何度もらいむの名前を呼んだ。その声に、返ってくる言葉はない。
至近距離に迫ってくる右手のナイフを、鉤爪で払い落とす。左から振り払われるナイフを片手で押さえながら、空いた右の脇腹めがけて、鉤爪を突き出す。
「……っ」
鋭利な爪の先は、服の表面をかすっただけ。
らいむは翼を羽ばたかせて距離を取った。
はっさくは落ちるように床へ着地し、うつむく。雨が全身をずぶ濡れにさせ、震えが止まらない。整理のできない思考が、身体の動きを鈍くする。
「終わりです」
冷酷な声が降り注がれ、判断の遅れを悟る。
宙にとどまるらいむが、翼を大きく広げた。無数の羽根が、彼の周りに舞う。柔らかな羽根たちの羽先が標的に向けられた瞬間、それらはすべて鋭いナイフへ変化する。
「
らいむが無駄のない動きで、宙に浮いた得物を次々と
数えきれないナイフが、はっさくへと襲いかかる。
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