落ちこぼれ学院生活③

 それからはまた図書館にこもり、日も暮れてから部屋に戻った。食欲はなかった。例の三番街での殺人の話は講義室でも噂になっており、もはや誰かに言い出す期は逸してしまったことをノエルは嘆いた。

 いや、そんなもの最初からあったかどうか。

「どうしたものか」

 寝台の上に投げた首飾りを見て、呟く。例の男が殺されてしまった以上、手放せば危機が去るという保証はない。むしろ、目立つような取引が一番危険であると考えるべきだろう。となると、隠し持つのが現状は一番安全であるということになる。

 幸いにも、今日は一日何もなかった。このままであれば、単に見てくれのいい首飾りである。

「でも詳細不明の呪物を持ち歩くのもな」

 意識の先鋭化だけが効能であるなら、問題はないだろう。しかし、ノエルにはそうは思えなかった。月と夜天。路地裏と地に伏した三人の男。瞼の裏に焼き付いた光景までもが、首飾りによって引き起こされたものだとしたら。

「身に着けるべきではないかもしれない」

 しかし部屋においておくのも怖い。

「埋めるか?」

 万が一にでも掘り返されたらと思うと、日がな一日、気が気ではないだろう。

「八方塞がりだ。僕じゃどうしようもないよ」

 ノエル・フォーチュンでなければ。

 首飾りを枕の下に入れ、ノエルは横になる。一日気が張っていたからだろう。睡魔はすぐにやってきた。

 ノエル・フォーチュンでなければ。

 落ちる直前、つつと涙が垂れて、枕を濡らした。


 

 学院は帝国一の教育機関であり、研究機関である。ゆえに、生徒はもちろん、教授陣の中にも夜半まで書物とにらめっこしているものは少なくない。あるいは、生活のリズムを後ろに倒した、夜半こそが活動期という人間もいる。王都の開発にも携わっている、都市学のチャーリー・フィリップス教授などはまさにこれである。

 となると学院側としても配慮をしないわけにはいかない。そういうこともあって、消灯時間と言われる深夜の零時が、必ずしも学院内施設の閉館時間とは限らない。学院で暮らすほとんどの人間にとってなくてはならない図書館などは、午前三時まで開いていたりする。

 だからまあ、深夜一時過ぎに訪れる生徒がいても、おかしくはない、のだけれど、館内で調べ物をしていたいくらかの人々は、現れた人物を見て、一様に驚いたような表情をした。眠気も覚める、といった風。

 あれ、見間違いかな。あいつがこんな時間に図書館に来るなんて。

 生徒の方はといえば、そういった周りの反応を気にする様子もなく、入り口に近いところで、図書を手に取っては、ぱらぱらとめくって戻す、という奇妙なことを始めた。読んでいるというよりは、眺めているといった感じで、その上で何かを探している気配もない。気でも触れたか。近くで論文課題に取り掛かっていた教育課程前期のミシェル十六歳女性は思った。

 そんな風にして二十冊ほど消化したところで、生徒はむんずと上を見上げた。

 上。つまりどれだけ背の高い人間であっても届かないような位置に設えられた棚である。図書館の壁はほとんど本棚と同義なのだ。

 生徒はしばし眺め、やがて手をすっと手を伸ばした。

 すると、棚にあった本の一冊がことことと揺れ始め、最後には落ちてきて、生徒の伸ばした手の中にすっぽりと収まった。そして、中身を眺め終えると、先ほどまでの行為を反対になぞるように、ぽいと投げて元あった場所へ収納して見せた。言わずもがな魔術である。局地的に風を起こして、その圧でものを動かしたり、軌道を操ったりしているのだ。が、その精度は即席で行っているにしては高く、たまたま見ていたジェシー二十二歳男性をおおいに驚かせた。

 生徒がそれを繰り返していると、一人の男性が脚立を持って現れた。

「すみません。こちらを使っていただけますでしょうか」

 生徒は無表情に頷くと、脚立を用いて作業に戻った。

 そんなことが一時間ほど続いた。生徒と脚立は図書館の奥まで入り込み、今ちょうど眺めているのは、『セグネイトン地方における民俗宗教の歴史』である。

「……む。ヘレーネの神々との関連性に関するこの考察は少々こじつけめいている気がするが」

 呟いて、返す。

 そこで集中力が切れたのか、生徒はいったん手を止めて、ぐるりと周囲に視線を巡らせた。見渡す限り本本本本本。とはいえ学院生からすれば見飽きたものだろうに、熱い吐息を洩らして、

「……この世の楽園か?」

 と、通路の横を通りがかった男が、二歩三歩と引き返してきて、恍惚とする生徒に声を掛けた。

「おいおい誰かと思ったら、ノエルじゃねえか」

 長身痩躯の、切れ長の瞳を持った男だった。投げやりな愛想を浮かべ、彼は生徒の肩を叩いた。親し気だが、その挙措は乱暴だ。

「どうしたこんな時間に。あれか、ラッセルの言ってた、なんだったかな」

「む?」

 眉根を寄せたのは生徒の方だ。男の方をまじまじと見る。その顔には誰だこいつと書いてある。男の方はそれをどう解釈したのか、

「なんだ。ついに落ちこぼれが祟ってボケが始まったか?」

「いや、最近忘れっぽくてな」

「いつもだろうよ」

 男は舌打ちをして、生徒が抱えている書物に目を向けた。

「そうだ。論文だ論文。終わらなくて泣きながら資料集めしてたんだろ?」

「論文……?」

 ああ、と生徒は思い出したように頷いた。

「論文だな。そうだ。足りない部分があってな。補足の為に居残っていたのだ。だから悪いのだが、気が散るので向こうへ行っていてはくれまいか?」

 男の目が点になった。生徒の方も小柄というわけではないが、その体躯の差はいかんともしがたいものがある。挑発するような物言いはかなりの恐れ知らず、実際、男の方はそう返されることを想定もしていなかったらしい。みるみるうちに面が厳めしくなり、こめかみに血が昇っていく。

「いい度胸してるじゃねえか」

「ああ。魔術師として必要なものだからな。それは」

 男は怒りを暴発させる寸前で、ため息によってそれを逃がした。

「……覚えとけよ」

 踵を返し、去っていく男に、生徒の方は何ら感慨を見せなかった。

 かくして生徒は一人きりに戻り、また独特な読書へと回帰していく。

 閉館時間になり、先ほどの司書に退館を促されるまで、以降、生徒の集中は途切れることを知らなかった。

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