第8話
海沿いの町で身なりのいい吟遊詩人風の男がこの世のものとは思えないほど美しい竪琴を奏でながら海を見ていた。
本当は黒い髪なのだろうがほんの少しだけあまりに朝日が眩しくて竪琴に反射し髪は銀に見えた。銀の輪っかが艶めいて。帽子の下の男の顔は見えない。
あれから僕と父は役所でたくさんのお金をもらったよ。父はいらないと。僕は全部いると。僕の名前はね、母がつけた。母のつけた名前の意味を、今も知らず、父は呼ぶ。僕はその響きだけ聞いて幸福に生きてきた。狭い町で、名前を一回聞いたらすぐに友達になれる。幸福なことだ。村八分だってあっていいのに。あってはいけないけれど。父の本を読んだ。沢山あったよ。息子の育て方を書いたものには、驚いたね。あとただひたすら、誰にも遭わず、炭鉱でとにかく反対の地と反対の地を開通させる孤独と不気味な訪問者の話。怖い話なら自分の名を名乗る、しかし全く似てないもう一人の自分が自分に成り代わろうとしているかと思いきや、世にも珍しい似てない双子でね、同じ名で好きに生きてただけで恨み合い、殺し合って、その家系は途絶える。父が書いたとは思えなかった。まだあった。でもね、不思議なことに父の小説には、母親、と言うものが出てこなかったんだ。父に聞きたかったな。あれから父は、大きな街で本の校正の仕事についてしまった。それからだ。君を捕まえる前なら、どんな気持ちで小説を書いているか聞けた気がする。内容は教えてもらえなくても。今、父は何も言わない。なぜなら読んだら読者のそれが全てだからさ。校正の仕事をして、創作を辞めてしまった。書きかけの原稿が僕の手元にこんなにあるのに。あの部屋に、家にいつまでも。でも書いてもらえないんだ。
独り言だ。おかしくなったわけではない。一人語りは得意になった。あれから読み書きを。竪琴。そして、母と人魚の両方を思った。
追いはしなかった。
僕はただ、美しいものを見ていたいだけだった。
立ち上がる。高価な竪琴を桟橋の一番奥まで行って思い切り投げる。
これから僕が書くのは無理だ。さようなら。
竪琴が沈んでいく。奥から恐ろしい速さでぬっそりと人形と魚の組み合わさった化け物が現れる。この世全ての美しさを合わせたような顔をしていた。海の中では髪が広がり、より一層いだかれたいような包容力を感じさせる。彼女には名前があった。
セイレーン。
自分の子がつけてくれた名だ。自分の母は名を戴く前にこの海で永久に生きていくことになったのだろう。
珊瑚礁まで行き手近な出っ張りで竪琴の弦を引っ掛ける。佳き音がした。
この音が、もっと聞きたい。
竪琴と人魚 明鏡止水 @miuraharuma30
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