第6話
ヒヤリと、しかし舟の反対の淵に飛びついた。
どうしてこんな大きいおびれが。
少年だってこの湾で獲れる魚には詳しい。
しかし、時たま人々を襲うサメでもない。
大きな大きな鯨でもない、鮮やかな何かだ。
その時ふいにとんでもないものが小舟に投げ込まれた。水飛沫をあげフジツボをつけた錆色のそれは、どこか誰かの宝物のような涙を誘う金色を残していた。竪琴だ。
ただし、ちいさい少年の薄い胸板に収まるくらいの。こんなものは、と考えて、ああ、もっと大きなのをみたことがある。と少年は思い当たった。
サーカスの一員が弾いて見せていたハープというものだ。それでもあのときはどんちゃん騒ぎでハープの、ねいろ、というものが少年にはわからなかった。竪琴を知っていたのは、たまに吟遊詩人も流れてくるからだ。それはもっと美しく商売道具で金色に綺麗に輝いていたけれど。
ざっぷりと胸元を濡らしながら、少年は、恐ろしいとも感じず竪琴を観察する。
どこから飛び出してきたのかは恐ろしいので見られなかった。あわぶくがあがり音となって小舟の上のの少年の元まで届く。
ねえ。あなた罪人ね。
海の中からだというのに言葉がはっきりと聞き取れる。ついで、黄色の毛糸の広がったようなものが海面に広がり、そこから化物のように女が現れた。
鼻がツンと上を向き、髪は乾いていれば鮮やかな、おそらく町では珍しい、あの吟遊詩人の竪琴のような金色。肌は青白いかと思ったら、どこか発光しているかのようにぼんやりと周囲の景色をぼかす。目は、閉じていた。しかし人間のそれよりずっと長く多いまつ毛がある。
一番うつくしいのは唇の形だった。上下がふっくらしつつも、すこしふやけ、どうかこの膨らみを撫ででぬるみに落胆してほしい、そんなことを思わせながらも。なぜかその女はうつくしいものだと頭の前の部分が告げる。目を見てはいけない。女は小舟のそばには顔を出したが、こちらの手が届かない場所にいた。
引っ掻かないで。そしてお願い。それの音を鳴らして。
女は自分が最低限整った容姿を武器にできると分かった上で奇異の目線を向けられることを知っているようだった。
少年は思う。これは人間の女ではない肩まで海面に浸かりゆらめくそれのいう通りに、竪琴の琴線を弾いた。
音が鳴ると、やっと女は目を開けた。開けられたとでもいうような表情で。
ありがとう、わたしのじゃ弾けないの。私の見る?
目を見開いた人魚の目が、黒く、それでいて自分と同じ色で少年はなぜか泣きそうになった。ここで黒いまなこに出会えるなんて。なぜだろう。相手の目は幾分か自分よりも瞳が大きく、余計に化物じみて見えるのに。
少年にはこれの正体がわかる。呼び名はただの人魚だ。言われてみれば魚のような黒い瞳だが恐ろしさはない。少年は知っている。
「僕は船乗りじゃない。だから、海には、引き摺り込まれない。」
これはひとつの神秘で真実だった。
すると人魚は耳障りな金切り声で喋り出し、それは頭を抱えたくなるほどひどいものだったが、人魚は海中に戻る。
罪人のあなたを引き摺り込んでも誰も咎めない。
海中に戻ったあたりから彼女の言葉が不思議な音となって耳をとろかす。ずっと聞いていては飛び込みたくなるほどに。彼女の体は緑のワカメで巻かれていた分厚くひだのあるそれは、奇しくも自分が選んだシャツに酷似していた。
そこに絶妙に尖らせた桃色の珊瑚と、おそらく魚を取る網で編んだ袋部分に真珠を散りばめるように飾っている。
尾は、こんなに逞しいようで鱗の並びの美しい緋色は見たことがないというくらいに鮮やかで背から半分を切ったら多分儲けられそうだと考えた。少年はそんなにお金が好きなわけではないし、人魚の解体をしたいとも思わない。人魚は空のカモメのように海面を八の字に似た軌道で泳いでいる。
カモメは滑空して去っていき、少年を化物と一人にしてしまう。
人魚の手は水かきがつき爪の代わりに背鰭や尾鰭に似た扇状のものが広がっていた。不気味だが美しい。少年は考えることがこの場所で意味を成さないと思った。竪琴を、弾いてやる。弾いてやるといっても曲なんか奏でられない。ただ弦をある限り適当にはじいてやるだけだ。
人魚は喜んだ。黒い眼(まなこ)を小さくし、上半身を跳ねさせ、尾鰭で綺麗な流水の紋様を海面に描く。
ふと少年は思う。もう夕方だった。ずいぶん弦を弾いた。人魚に、ただ、ひとつ、会話をした。
君、家族はいる?
人魚は答える。同胞がいるわ。皆美しく、逞しい。
まだ語らねばならなかった。
子供はいる?
竪琴を横に置き、服を脱ぎながら少年は聞く。
マッチは大事だ。ぜったいに濡れない場所がいい。
この際下も脱いでしまおう。
ムスメ、っていうものがいるの。そう女の子よ。娘。不思議な響き。
海面の少し下から優しくて麗しい声を聴かせてくれるようになった。もっと喋ろう。
君の名前は?
名前なんてないわ。名前はね、娘がつけてくれるの。私が産んだ娘が、私の名をつける。
私も母に名前をつけた。すると母は解き放たれて同じ海にはいなくなる。
わたしの名前は何かしら。
たのしみなの、まだあかちゃんというもので。
もういいか。どうして外だと声が割れるの?
人魚の声は沈んだ船乗りたちを癒したり、海に誘うものだからそういって顔を上げると、少年の裸体があった。細く骨張り、白く美しい、船乗りたちの体のまだ途中。人魚は今となっては絹のような金髪を靡かせて上昇しそして。少年の死んだ珊瑚色のドレスで頭を覆われた。
ひとが二言三言言葉を交わして談笑するような長いような、短いようなそんなひと時を少年はシャツを使って人魚が海水の中に戻るのを阻止した。
細くとも父譲りのたくましい筋力が、少年にも備わっていた。ばたつくものの首をしばらく固定し、大人の女に似たものを引き上げた。
もう、夕闇だ。少年はたった一本のマッチを無駄にすることなく、下着姿でズボンで手を拭きマッチ箱を慎重に開け、マッチを取り。
照明弾に着火させた。
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