第36話

 忙しい毎日の始まりだった。


 朝から授業に出て、夕方からレポートなどの課題に取り組み、ちょっとでも時間があれば予習や複習をする。おまつに手伝わせて魔法の練習もする。そして夕食の後、食堂がクローズになったらペナルティである寮内の清掃で、暁はへとへとに疲れきっていた。


 勉強だけならまだしも、毎晩巨大な空間を風を切るスピードで駆け回って掃除するなんて体の方が悲鳴をあげていた。いい考えだと思った暁の作戦は、ひたすら自分の体力を奪うだけだった。


 それに、足腰の疲労もさることながら、魔法を使った後の激しい倦怠感と空腹ときたらどうだ。早く走るほど加熱するエンジンと消耗するガソリンといったところだろうか。一週間もしないうちに暁はおまつに肩や腰を揉んでもらったり、よもぎのお灸をしてもらうようになっていた。


 その疲れぶりをおまつは嘆きながら「仮にも久遠寺のお嬢様がなんだって掃除なんか……」とか「こんなに体を酷使するなんて、いったいなんの為に魔法を勉強してるんですか」とぶつぶつ言った。


「セントラルパークの木も葉っぱが落ち始めてますね」


 おまつがお茶を入れながら、疲れた顔をしている暁に話しかけた。


「そう? もう?」


「冷え込むようになりましたからね」


「おまつは……セントラルパークへはよく行ってるの?」


「ここいらで広大な緑のある場所といったらあそこですから」


「散歩に行くの?」


 日本から持ってきた緑茶ももう残りわずかであることを暁は知っていた。思えば日本を出てそう大した月日が流れたわけでもないのに、今はひどく遠く感じる。


 惜しむようにお茶を啜っていると、おまつは窓の外へ目を向けながら、


「私達は自然界から多くのエネルギーを得ているんです。それがないと変化の術だって使えませんよ。鷹住の山にいればこそふんだんに力を供給できましたけど、こんな大都会じゃあねえ」


「……」


「暁様にお仕えすることが決まった時から準備はしてきたんですけどね。薬草なんかも持って来ましたけど、それだけでは……。やはり自然の中から力を得ないと。車だってガソリンがないと走りませんから」


 そう言うと今度は暁の顔をじっと見つめた。


 ――自然から得る力ね――。暁は溜息を漏らした。するとおまつが今度は焦れたように、


「もう! 暁様、鷹住の山のことを忘れてしまったんですか? あそこにいればこそ神々から守られ、山から自然の力を得られて久遠寺の一族は強い力を奮うことができたんじゃないですか。今の暁様はね、エネルギー不足なんですよ」


 なかば叱りつけるように言われて、暁ははっと我に返った。――掃除をするから疲れるのではない。力を使うから疲れるのだ。そしてそれは力が不足するからなんだ――。


「……忘れてたわ」


 暁が立ち上がると、おまつはさっと壁にかけたコートを取り、うやうやしく暁に着せかけた。


「夕飯までにはお戻りを」


「うん」


「それから」


「なに」


「どんな理不尽なことが起ころうとも、力を使ってやりかえさないこと」


「分ってるよ!」


 暁は麻の葉文様の刺し子と財布がポケットに入っているのを確認すると、


「いってくる」


 と、勢いよく稲穂の簪を引き抜き「階下へ!」と簪を振った。おまつが満足げな微笑みを浮かべる目の前で暁の体は文字通り稲妻のように渦を巻いてぴかっと光ったかと思うと、姿を消していた。


 暁はフィッシャー教授の授業のおかげで実践的な魔法術というものを少しずつ身につけつつあった。もちろんベネットやカレンに教わってなんとか使えるようになってきたというのが実際のところだが、暁は魔法というものは便利な力を、便利に使うものだということを理解しつつあった。


 どうして鷹住の山の空気を忘れていられたんだろう。朝の清涼な空気、冷たい風、草の匂い、土のぬくもり。田圃の畔を行く動物たちの声。暁には知らぬうちにいつだって力が供給されていたのだ。それがなければ力を使えないとは、考えもしないほど当たり前に。


 玄関ホールに立った暁は簪をお団子に差し直し、寮を出てまっすぐにセントラルパーク目指して歩き出した。


 冬に差しかかったニューヨークは寒い。冷たくするどい空気にすぐに耳や鼻先が赤くなる。洒落たブティックや雑貨屋、カフェなどの前を通りすぎてセントラルパークへ来ると、暁はランニングをする人々を横目に見ながら公園内を歩き始めた。


 広大な芝生は今はもう枯草色になり、舗装された道も落葉に埋められていた。木々を渡り歩くリスの姿は見られなかった。


 大きな人工池にくると暁は柵にもたれてじっと湖面を見つめた。水鳥が寒そうに浮かんでいる。彼らの声は暁には聞こえない。そのことが寂しかった。思えばこの国に来てから暁に話しかけてくる動物はいない。動物どころか人間だって数少ない。暁が親しいのはカレンとベネット、フィッシャー教授ぐらいではないだろうか。暁はそのことを寂しいと思ったことはなかったが、本当にそれでいいのかと言われると何か違うような気もしていた。


 別に話したくないわけではないのだ。ただ、ジャネットがアジア人である暁を侮蔑的な言葉で揶揄した時、学内で学生たちが暁をちらちらと見る時、暁はただ居心地が悪く、どうしていいのか分からなくなる。自分が小人のジョンに言ったのは本当のことだ。話し合えば分かりあえるし、仲良くなることも可能だ。が、教室ではどうすればいいのかが分からなくなるのだ。


 暁はそんな自分を不甲斐無く思った。ようするに。ようするに、傷つくのが怖いのだ。差別的なことを言われるのが怖いし、意地悪をされるのも怖い。けれど、日本にいる時はそんな風に思ったことはなかった。それは結局、自分には双子である匠がいたし、家族がいて、家に仕える狐たちがいて、鷹住の山に動物たちがいた。一人ではないと思えたからこそ強い心を持つことができていたのだ。でも今はどうだろう。図書館で教科書をめくり、参考文献を読みこむばかりで誰とも口をきかないで過ごすことがどれだけ多いだろう。


 暁は湖面の真鴨に向ってそっと手まねきをした。お前、ちょっとこっちへおいで、と。数羽の鴨が暁の方を向いたが、近寄ってこようとはしなかった。ただ不審そうに首をかしげて水の上を静かに滑って行くだけで、いくら手まねきをし、言葉だって英語で話しかけてもこちらへは来なかった。


 ――言葉の壁じゃないんだよな――。暁は呟いた。――心の壁があるんだ。魔法は便利な力だけど、心の壁を壊したりはできないんだな。まあ、心を操るような術はあるのかもしれないけど。まだ習ってないけど――。


 灰色の空に向ってぐんと伸びをし、白い息を吐き出すと「おい、そんなとこでなにやってる」と、背後で聞き覚えのある声がした。


 暁が振り向くとそこにはエドワードとジャネットが立っていて、ジャネットはあからさまにうんざりした嫌そうな顔で暁を睨んでいた。


「魔法学のレポートはできたのか」


「……うん、まあ……」


 暁はポケットに両手を突っ込み、曖昧に頷いた。


「寮の掃除はどうしてる。本当にちゃんとやってるらしいけど」


「本当ってなに。どういう意味。別にズルはしてないよ」


 一瞬、暁はスミス達のことが頭をよぎってぎくりとした。エドワードはいかにも高級そうな仕立のいい厚地のコートを着て革の手袋をし、胡散臭そうに暁の様子を窺っていた。


「お前がどうやって寮内を掃除してるのか、みんな不思議がってる」


「なんでみんなが不思議がるわけ?」


 暁の問いに答えたのはジャネットだった。


 ジャネットは赤毛を毛糸の帽子ですっぽり覆って、揃いの毛糸のマフラーをぐるぐる巻きにして、その体型もあいまって雪だるまのようだった。


「だって寮にどれだけ階段や廊下があると思ってんのよ。あそこはね、ムービングウォークって言われてて、あんたみたいにろくに魔法も使えない子が迷子にならずに、座標も知らずに移動できるわけないでしょ」


「……できないってこともないんだけど……」


 暁は口の中でもそもそ呟くと、ジャネットはエドワードに向って甘えるように、勝ち誇るように、言い募り始めた。


「ほらね、言ったでしょ。絶対ズルしてんのよ。ベネットがあやしいわ。学長はこの子を贔屓にしてるって噂だもの。ベネットは学長に頼まれてこの子に魔法実習の練習をしてやってるし。それにカレン。あの子もあやしいわ。なんでか知らないけどやけに親しいらしいからね。まあ、異端者同士気が合うのかしらないけど、カレンは相当な力の使い手だもの。こっそり手伝ってやってるに違いないわよ。もちろん本人は知らないって言うんだけど、どうだかね」


 彼女の言葉をエドワードは眉間に皺を寄せたまま黙って聞いていた。


 ベネットやカレンまでそんな風に疑われているとは知らなかった暁は少なからずショックを受けていた。暁は自分が不正を働いていると疑われるよりも、彼らが片棒を担いでいるという不名誉な疑惑を持たれていることの方に怒りを覚えた。


 知らず知らずのうちに拳を握り、奥歯を噛みしめて、何か言い返さなければとジャネットを睨んだ時だった。それまで黙っていたエドワードが自分の手袋を脱ぐと、おもむろに暁の冷え切った手をとった。


「え、なに」


「いい手袋だろ。革で、内側は兎の毛だ。あったかいだろ」


 言いながら暁の手に手袋を嵌めてくれると、


「お前の手の中には大いなる力がある。あまり風に晒すな。特に冬場はな」


「……乾燥するから?」


「馬鹿か、お前は」


 エドワードはほとんど反射的に暁を罵ると、でも、すぐに暁の言葉の頓珍漢さがおかしくなって空を仰いで「ははは」と短く笑った。


 暁には彼の言っている意味がまったく分からなかったが、ほこほこと温かい手袋の柔らかな感触は優しく感じられた。


「手の中にエネルギーがあるから、温めておくんだよ。荒れた冷たい手ではすぐに力が使えない」


「……ふうん」


「特に女の手は冷たいだろ」


「運動の前に体を温めるようなものなのね」


「お前はいちいちおかしなことを言うんだな」


 暁はちょっと笑って手袋を脱ごうとした。が、エドワードはそれを押しとどめ、


「それはお前にやるよ」


 と言った。


「え、なんで。こんな高そうなもの貰えないよ」


 暁は尚も手袋を脱ごうとしたが、エドワードはやはりそれを制した。


「たぶんお前にはそれが必要になるよ」


「……ありがとう」


 なぜエドワードが親切にしてくれるのか暁には分らなかった。意地悪される理由ならなんとなく分かるのに、優しさの理由が分からないなんてそんなおかしなことってあるだろうか。いつの間に暁は人の心というものから遠ざかってしまったのだろう。それでも彼の行動を疑ったりはしたくなくて、もう一度丁寧に「ありがとう」と言った。


 嫌味を言われたり、差別されるのが当たり前みたいなところへ来てしまって、今や人の優しさというものが身に染みるより先に「何かの罠じゃないのか」「裏があるんじゃないのか」などという卑しい考えが脳裏をよぎることを、暁は我ながら恥じた。


 しかしジャネットはものすごく不満そうにやっぱり暁を睨んでいて、彼女に対して何か言った方がいいのか言わない方がいいのか迷った。


 鈍感な暁でさえ、ジャネットがエドワードを好きなんだろうということは推測できる。ジャネットが全身から放つ甘い空気みたいなもの、体をとりまいている薄い靄のような、オーラのようなもの、それはエドワードを前にすると綿菓子のように薄いピンクに染まる。ジャネットは秘かに魔法を行使している。暁にはそれがどういう種類の魔法かは分からなかったけれど、ある種の「まじない」が発動しているのは分かった。たぶん、恐らく、恋愛に関するまじないを。


 しかし、分かったからといってそれをどうこうするほどの能力も技術もなくて、暁はただ困惑しながらジャネットの嫉妬の矢が降り注いでくるのを、うろうろしながら避けるだけだった。


「エドワード、もう行こうよ」


 ジャネットが言うと、エドワードはふんと気のない返事をした。


 きっと今晩あたりジャネットは私を呪うんじゃないだろうかと暁は心配になった。


「ジャネット」


 暁はもう半分その場を離れかけているジャネットを呼び止めた。


「なによ」


 彼女はやっぱり怒った顔で暁を振り向いた。


「あの、なんて言ったらいいか……あの……」


「なに? なんなの?」


「人を呪わば穴二つってことわざがあってね……」


「はあ?!」


 横で聞いていたエドワードがまた空を仰いで「ははは」と短く笑った。


「ごめん、なんでもない……」


「なんなのよ、変な子!」


 ジャネットはぷりぷり怒ってエドワードを引っ張って、遊歩道に降り積もった落ち葉を蹴りあげるようにして行ってしまった。エドワードの肩が笑いで微かに震えているのを見送り、暁もまた空を仰いだ。青く澄んで、氷のように冷たい冬空だったがもうさっきよりは寒くないように思えた。

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