第19話
暁は拾いあげた本を抱えて、彼女に従ってキャッシャーへ運んで行った。
本棚の間を歩く間、彼女は、
「あなた、コロンバス寮に来た留学生でしょ」
と暁をちらりと振り返った。
「あ、はい……。日本から来ました……」
「名前、なんていうの」
「アキラです」
「アキラ……。私はカレンよ。私もコロンバス寮なの。あなたの噂は聞いてるわ」
暁が怪訝な顔をしているのが分かったのだろう。カレンはにっこり笑いかけると、安心させるような優しい口調で教えてくれた。
「日本からの留学生は初めてだからね。それに、あなた、日本で普通の学校に行ってたんでしょ」
「ええ……」
「ナショナルウィザードに来る子はみんな魔法学校出身なのよ。普通の人間のところから来るっていうのが珍しいし、言いかえればそれだけあなたが凄い才能の持ち主だってことの証明でもあるわけ」
「……そうなんだ……」
あっけにとられて、暁は呟いた。
――みんな魔法学校出身ってことは、それは基礎があるってことではないのだろうか……。そんなところに紛れ込んでしまった自分が落ちこぼれるのは今からもう目に見えているということでもある……――。
暁にはカレンの言う「才能」というものも分からなかった。もし暁にそんなものがあるなら、教科書を探すことだって簡単だったはずだ。カレンのように魔法で。でも、一体どのように力を使えばいいのか暁にはさっぱり分からなかった。
「それに、名家の出身なんでしょ?」
カレンの言う「名家」というものが貴族的なニュアンスを持っているのはなんとなく感じ取れた。けれど、日本の華族制度というものは戦後失われ、あるのは経済格差による貧富の差だけだ。古くから続く家柄というものはあるけれど、彼女の言っていることとは少し違うようにも思う。
「そんなことありません。学校は公立だったし、家は山の中で、田圃や畑を耕してるし、水も経済的だからって井戸水と併用してたし、そもそもうちの収入源がなんなのか分からない……」
カレンは暁をじっと見つめた。そして「あなた、変な子ねえ」と、おかしそうに笑った。
キャッシャーまで来ると二人は机に本を積みあげた。暁は「店員さん、いませんね……?」とカレンを見上げた。
「いるわよ。呼んでごらん」
「呼ぶ……」
呼ぶというからには、呼ぶのだろう。暁は周囲を見回しながら大きな声で「すみませんーん!」と叫んだ。
しかし店内はしんと静まりかえっている。もう一度大きな声を出そうとすると、カレンが暁の肩に手を置いた。
「目に頼っちゃだめよ。気配を感じるのよ」
言われて初めて、暁はこれまで人ではないものや獣の姿を見てきたことを思い出した。――そうだ、目で見るんじゃない。生き物の気配、息遣いを感じるんだ――。
暁はこくりと頷いた。それなら分かる。むしろ得意なことだ。東洋も西洋も、ない。そこに何か生き物がいれば同じように息遣いを感じるだけのことだ。五感を研ぎ澄ませば分かることのはず。
そっと眼を閉じ、耳を澄ませる。ここが外国だからと思ってうっかりしていた。本質はどこも同じなはずなのだ。
暁はすぐに店内に微かに風が吹いていることを感じ、紙とインクの匂いに混じってユーカリを焚く匂いを嗅ぎ取った。虫除けの匂いだ。それから小鬼が足もとを駆け抜けていく時のような密やかな、それでいて軽快な足音。
いた。もう暁は大きな声を出す必要はなかった。壁に寄せた本棚に取り付けてある長い梯子。そこに向かって声をかけた。
「すみません、お会計をしてください」
梯子に乗っているのはずんぐりとした体形の小男だった。
「よくできました」
カレンが暁の肩をぽんぽんと叩いた。暁はほっとしたように微笑んだ。
小男は前髪が目にかかるほど長く、鼻は鉤鼻で、ツイードの上着を着ていた。梯子の上から暁をじろっと睨むと、何か思案するように少し黙りこみ、それからおもむろに無言で梯子を下りてきた。
無愛想な店員だ。暁はそう思った。身長は幼稚園児ぐらいしかないが、顔は60代といったところだろうか。貫禄のある風貌とも言える。
「ジョンソンさん、新入生に意地悪しないでやってよ」
カレンが言った。
「アキラ、彼はこの店のオーナー。ジョンソンさん。学校で使う教材や参考書はここで全部買えるわ」
ジョンソンさんは本を順番に確認しながらがちゃがちゃ音を立ててレジを操作した。
――電卓っていうのもやっぱりここでは使っちゃいけないのだろうか……。まあ、算盤を使わないだけまだ「進んでる」と言えるかもしれないけれど――。
ぱたぱたと札をめくるようにカウンターの数字が足し算されていく。計算の終わるチンという軽快な音に暁は我に返った。――クレジットカードって使えるの? 魔法の世界で?――。
暁はおそるおそる財布から親から渡されたクレジットカードを取り出すと「あの、カードは使えますか……?」と尋ねた。
が、ジョンソンさんは前髪の間から「は?」といかにも不愉快そうに、恐ろしい目で暁を睨んだ。
「勘定書きにサインすればいいのよ」
そこでもカレンが優しく助け舟を出してくれた。
ジョンソンさんはレジスターからタイプされた長い巻紙を切り取ると、机の上にばしっと叩きつけるように置いて「ここにサインを」と長い爪で指し示した。
無愛想なジョンソンさんに代わって、やはりカレンが「現金でもいいんだけど、この勘定書きにサインするとウィザードシティバンクから引き落としの手続きがされるのよ」と説明してくれる。
「私、そんなとこに口座ありませんけど……」
「ないはずはないわ。だって、学生は皆、授業料も寮費も全部ウィザードシティバンクから引き落とされることになってるんだから。あなたが知らないだけよ」
「そうなんだ……。そのお金って……通貨はドル?」
「そりゃそうでしょ。ここをどこだと思ってるの。アメリカよ」
「……魔法の通貨でもあるのかと思って……」
魔法のシティバンク。サインするだけなんて、大丈夫なのだろうか。暁はそのセキュリティ面に対して不安に思った。
「文字には魔法が宿る。あなたのサインはあなたの力を映すものだから、誰にも真似はできないし、偽造することも不可能なの。銀行はこのサインからあなたの力を識別して、決済するのよ」
「あの、さっきから不思議だったんですけど」
「なに?」
暁はカレンから一歩後ずさった。
「どうして私の考えてることが分かるの」
「……」
―――こうして見ると本当にきれいな人。すらりとしてスタイルがよくて、脚が長くて、美人。しかも親切。こんなに完璧な人がいるものだろうか。私はなにか騙されているんじゃないのか。狐や狸が人をばかすように。でも、私は妖狐狸にだまされたりはしない。狐も狸も親しいものだから―――。
疑う気持ちは持ちたくなかった。なので、暁が考えたことはひとつだけだった。彼女は人の心が読める……。――そうでしょ?――。
「……そうよ」
カレンはすんなりと認めた。
「やめてください」
暁はきっぱりと言い放った。
「親切にして頂いたのは感謝します。ありがとう。でも、心を読むのは失礼じゃないですか」
「え、どういう意味?」
「だって心を読むのは人の心に土足で踏み込むことだから」
「人の心を読むのも魔法のひとつなのよ」
「だからといって誰かれ構わず使うのは失礼だし、何の為にそうするのか分からない」
「……え……」
驚くのはカレンの番だった。カレンは暁が何を言っているのか、咄嗟に分からなかった。心を読む魔法が使えるのは優れた魔法使いの証だったし、それを悪いことだとも考えなかったから真面目な顔で怒っているらしい暁を見つめるばかりだった。
「その魔法がどの程度まで心を読めるものなのか分からないけど、仮に嘘や悪意を見抜く為なんだとしたら、今、必要な場面でした? 今、本を買うために私の心を読む必要がありました? 私という人間を試そうとしたのか知りませんけど……」
「心を覗かせない防御魔法っていうのもあるのよ」
カレンの言葉に暁は唖然とした。別に腹が立ったわけではなかった。心を読む魔法が攻撃なら、それに対する防御の魔法があるのも理解できる。けれど、だからといってすんなりと容認することはできなかった。
「そんな魔法を使ってたら、誰も信じられなくなったりしない? 読んだり、読ませまいとしたり……」
カレンはこれまで聞いたこともない考え方に衝撃を受けていた。
魔法を使う家に生まれ育ち、魔法の存在は当たり前のものだった。心を読む能力は人に騙されない自衛手段の為にあると思っていたし、人間関係を円滑にする手立てだとも思っていた。「信じる」為に心を読むのであって、「信じたいが故に、力を使わない」なんて考えはまったく思いつきもしなかった。
暁はカレンが驚いているのを見ると、せっかく優しくしてもらったのに言いすぎたなと思い、
「すみません、言いすぎました。私、魔法のこと知らないからびっくりしちゃって。ごめんなさい」
と詫びた。ただ自分は本当に、知らない世界へ来たんだと痛感していた。
二人の間に微妙な空気が流れるのを破るように、ジョンソンさんがこほんと咳ばらいをした。
「本は持って帰りますか。配送しますか」
――あ、配送できるんだ。それはやっぱり……魔法で?――。どのようにして配送するのか気になったけれど、問うのが嫌な気がした。魔法というものがやはり暁には分らないものに思えて。
「持って帰ります」
そう言ったのはカレンだった。
「今のは読んでないわよ。運ぶの手伝うわ」
「どうして……」
「配送は有料だから」
ジョンソンさんが本を紙袋三つに入れると、カレンは実に軽々と両手に袋を提げた。
「さ、帰りましょう」
暁は残った紙袋を取り上げた。どれも分厚いハードカバーだったので袋はずしりと重かった。
ジョンソンさんがふんと鼻を鳴らした。どうも暁のことを胡散臭いとでも思っているらしい。扉を出て行く背中を、前髪の隙間からまた睨んでいるのが伝わってきた。
再び長い階段を上って地上に出ると、カレンは言った。
「ごめんなさい。私が悪かったわ」
「……」
「あなたの言ってること、とても人間らしい。当たり前のことよね。なんで気づかなかったのかしら。私たち魔法を使う一族ってその力を過信しているところがある。だからつい忘れてしまうのね。当たり前の、人としてのルールやモラルについて」
「生意気言ってごめんなさい……」
カレンはにっこり笑うと寮までの道を歩き出した。暁はそれにくっついていくように並んだ。
「あなたはとってもユニークだわ。でも、もしかしたら、苦労するかもしれない……」
最後の言葉は暁にはよく聞き取れなかった。まだ日が長く、暗くなる気配はみじんもない。熱気の残る通りを歩きながら、暁はカレンの横顔を見上げた。そして咽喉のあたりにごつっとした骨が隆起しているのに初めて気がついた。しかしそれは暁にとってはどうでもいいことで、通りに点在するお店の情報や学校のことをカレンが話してくれるのを興味深く聞くだけだった。
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