第16話

 直行便で13時間。そんなに長い時間座っていたのは暁には生まれて初めてのことだった。


 長いフライトの後、暁はかちかちに固まってしまったような体をほぐすように伸びをして、隣にいるおまつに「疲れたね」と声をかけた。


 しかしおまつは「いえ、大丈夫です」とはきはきと答え、


「お迎えが来てるはずなんですが……」


 と、JFK国際空港のロビーを行きかう人々の群れをきょろきょろと見回した。


「迎え? 誰が?」


「旦那様からそう聞いております。暁様が入る寮の人が迎えに来るとか」


「地図があれば自分で行けるのに」


「いえ、暁様が迷子になるだろうと旦那様がご心配なさって……」


「それ、心配じゃなくて、信用がないんでしょ」


「暁様、私は用を足してきますので、ここから絶対に動かないで下さい」


 おまつはそう言うとすたすたとトイレのある方へ歩いて行った。その、何も動じていない姿に暁は感心していた。こんな見ず知らずの世界へ来ても顔色ひとつ変えるでなく、自然でいられるのはさすが怪狐狸の「松」のくらいを継ぐだけのことはある、と。


 暁は邪魔にならないように隅の方へ鞄を引っ張って行った。


 それにしても妙に視線を感じると暁は思った。目の前を行き来する人々がみんなこちらを見ているような。


 暁は自分で思うよりもナーバスになっている自分を見出していた。耳に入ってくる言語も意識を集中させればだいたいのことは分かる。分かるからこそ不安になるのかもしれなかった。今さらのように暁は「外国」を感じていた。自分は久遠寺家の余計者よけいものだったわけだけれど、今度はここでは余所者よそものってわけだ。胸の中でひっそりと呟く。


 その時だった。視界が一瞬陰になるほどの背の高い男が暁の前に立ち、声をかけてきた。


「ミス・アキラ?」


「えっ」


 目の前にはぱりっとしたスーツ姿の「紳士」と呼ぶのが相応しそうな中年の男が立っていて、茶色い目で暁の顔を見つめていた。


「ミス・アキラ・クオンジですね?」


「あ、はい。そうです……」


「お迎えにあがりました。ナショナルウィザードカレッジのコンシェルジュ、ベネットです」


「……どうも……」


「お待ちになりましたか?」


「いえ、そうでも……」


 柔和な顔で感じのよい人。それが第一印象だった。目が知的で、優しい。


 灰色の髪をきっちりと撫でつけた姿はいかにも仕事の出来そうな雰囲気を醸し出しており、すでに暁の鞄を軽々と手に下げ「さ、参りましょう」と暁を促した。


「待って下さい。連れがありますので」


 暁は慌てて、先へ立って歩き出そうとするベネットを止めた。


「連れ?」


 ベネットは不思議そうに首を傾げた。


 連れという言い方がいけなかったか。暁は「ええと……」とやや口ごもってから「メイドです」と言い直した。


 するとベネットはますます怪訝そうに「メイド?」と繰り返した。


 ――供のことはメイドって言わないの? じゃあ、なんて言うの?――。


 暁がうろうろと言葉を探していると、ベネットは人ごみの中を指差して驚きを隠せないというように口に左手を当て、


「ミス・アキラ……、まさかあなたが言っているのは……」


 と声を震わせた。


 指さす方にはおまつの走って戻ってくる姿があった。暁は文字通りメイド服姿のおまつの姿を認めると「あれが私のメイドです」とベネットを見上げた。


「あれが、あなたの使い魔ですか……?」


 その言葉を聞いた瞬間、暁は血の気が失せるような錯覚を覚え、反射的にベネットの手から鞄を奪い取ると大きく後ずさった。


 ――見えているんだ。この人。狸が。即ちおまつの本当の姿が――。


 何も知らないおまつは手に唐草模様の風呂敷包を携えて「お待たせしました。トイレが混んでたもんですから」と言い訳ともつかないことを言って、青くなっている暁を見た。


「暁様?」


「おまつ、この人が……」


 暁はベネットを指差した。そこでおまつは初めて、まだ驚きに目を見開いている長身の紳士に気が付き、その顔をじいっと見つめた。そして言った。


「お迎えの方ですか?」


 しかしベネットはそれには答えなかった。その代り暁に向って尋ねた。


「ミス・アキラ。あなたの使い魔は一匹だけですか?」


 ベネットはおまつをまじまじと見つめ、実に感心したように言った。


「ミス・アキラの魔法はすごいですね。使い魔にまでこんな完璧な術を施すなんて。彼女、どう見ても人間ですよ」


「……いえ、私は魔法は使えません……。彼女の変化は私がしたのではなく、彼女自身の術によるものです」


「使い魔がこんな見事な術を?」


「あの……使い魔っていうのが、ちょっと意味分からないんですけど……」


 暁は口の中でもごもご呟いた。実際、暁にはベネットが何を言っているのかさっぱり分からなかった。それは言語の問題ではなくて、もっと本質的な意味で。魔法のことを何一つ知らないでこんなところまで来てしまったのだ。山の中を走りまわってばかりいないでファンタジー小説のひとつも読んで学習しておくべきだった。それは後悔というより、自分の無知さへの羞恥心だった。


 ベネットはふむ……と何か思案げに頷くと、静かに暁の手から再び鞄を取り上げた。


「ともかく行きましょう。車でご説明致します」


 そう言うと二人を連れてターミナルを出ると、運転手の待つリムジン目指してまっすぐに歩いて行った。


 そんな車は乗るのはもちろん、見るのも初めてだった。暁は「こんな大きな車、うちの前の国道だと車線全部ふさぐ……」と思った。


 顔が映りこみそうなほどピカピカに磨かれた黒いリムジンの後部座席に収まると、車はするすると静かに走りだした。


 ベネットは暁と向かい合う形で座り、シートの間のポケットを開けると中から緑色の瓶を取り出して、すすめてくれた。


「ミネラル炭酸水です。フライトの後はこれを飲むとすっきりしますから」


「……ありがとう」


 よく冷えた瓶のスクリューキャップを捻ると、暁は唇をぱちぱちと刺激する炭酸水で咽喉を潤した。


 車窓はスモークガラスになっており、景色はグレイがかって見えるが、見えるといっても渋滞気味の車の列だけで、暁は空までも狭く停滞しているようだと思った。


「おまつ、飲む?」


 暁は瓶の口を指先でちょっと拭ってからおまつに差し出した。


「ありがとうございます」


 おまつも疲れていたのだろう、瓶を受け取ると少し飲んで、ポケットから手拭を出して飲み口を拭いてから暁に瓶を返した。


 そのやりとりを見て、ベネットは目が飛び出そうなほど驚いていた。たまりかねて質問したのは暁だった。


「先ほどから私たちに対して何かものすごく驚いているようですけど、どうしてですか」


「これは失礼しました。あなたがとても……」


「とても?」


 ベネットは言葉を探しているようだった。暁はなんとなく彼がどんな形容詞を探しているのか想像がついた。


「ユニークなので」


「……ユニーク、ね……」


 暁はちょっと鼻白んで、また炭酸水を一口飲んだ。暁は変わり者だと思われることには慣れていた。


「ええと……、それで、使い魔についてでしたね」


 ベネットはこほんと咳ばらいをして、説明し始めた。


「あなたが日本からの留学生であることは承知しています。日本には魔法というものがないのだということも」


「……そうですね。魔法というのとは、違う」


 ベネットのスーツの袖から覗いたカフスの銀細工がきらりと光っている。


「ナショナルウィザードは魔法を使う一族の子弟が通う学校だということはご承知ですね?」


「ええ、まあ……」


「世界でも有数の名門校で留学生も各国から来ます。が、日本人というのは学校始まって以来、初めてです」


「……そうなんだ……」


「生徒は皆、一人に付き一匹までなら使い魔を連れてくることを許可されています。大抵は猫や鳥類。貴族や名家の出身者の中には妖精を使役する者もいますが、それはごく稀です」


「使い魔はなにをするものなんですか」


「使い魔は主人に仕えて、命に従うのが仕事です」


「それでおまつを使い魔だと言うのね」


「しかし、妖精でもない限り、使い魔は自ら魔法を使うことはできません。使い魔はあくまでも獣であって、彼らの持つ特性や身体能力以上のことはできません。魔法をかけるのはあくまでも主人なのです」


「じゃあ、おまつは使い魔のカテゴリには入らないわ。おまつは妖狐狸の一族の中でももっとも優秀な術者で、高度な知性を有している。獣ではない」


「しかし規則では獣として扱われることになっています」


「どういう意味」


「使い魔の飼育には檻を用意するように……」


「檻!」


 思わず暁は叫んだ。


「おまつを檻にいれろって言うの? 冗談でしょう?」


「魔法使いと使い魔の関係は確固たる主従関係です。常に一線を画しておかなければなりません。同等ではないのです。だから一つの飲み物を一緒に飲んだりはしません」


 ベネットの言葉に暁は驚きと共に怒りを感じていた。彼が驚いていたのは、炭酸水の瓶におまつが口をつけたことに驚いていたのだ。それはおまつが獣であるからだし、暁に仕える身分の者だから。


「……ずいぶん封建的なのね」


 感情的にならないように、暁はできるだけ静かな調子で言った。


 久遠寺の家でも女中や使用人たちとの従属関係はあった。が、彼らは本来なら神に仕える者。礼節と尊敬があって成り立つ関係だった。そもそも彼らを獣だと思うことは絶対になかった。


 ここでは人間がヒエラルキーの頂点なのか。それも魔法を使う人間が。暁が育った環境では、人間が頂点ではなかった。頂点にいるのは神々であり、自然であり、宇宙だった。ようするに、絶対に人間にはどうにもできない、手の届かない圧倒的な力と存在。だからこそ謙虚であることや慎ましさを旨としてきたと言える。


 暁はおまつを供に従えて来たけれど、決しておまつを自分よりも格下だとは思っていない。いや、思えるはずもない。現に、今、魔道の力を使って術を使いこなしているのはおまつの方なのだから。柿の葉を頭にのせて宙返りして、姿を自在に変える術など暁にはできはしない。


「……おまつは獣ではなく私の供として来たのだから、檻にいれるようなことはできないわ」


「……」


「それに、もし仮に檻に入れたとしてもおまつには意味のないものよ。そんな檻なんて、おまつは自由自在に出入りできる」


「……左様で」


「おまつにそんな無礼は許さない」


 暁はベネットを睨んだ。


「……承知致しました」


 封建的であるが故なのか、ベネットは自分の立場を思い出したのか暁に慇懃いんぎんに目礼をした。


 リムジンは川を渡りごみごみしたビル群の中を進む。おまつはじっとスモークガラス越しの景色を見ていた。


 下町といった風情のところから、ハイブランドの並ぶ区画を通り、瀟洒な建物が続く。


「寮から学校までは歩いて行けますから」


「……ミスターベネット」


「ベネットで結構です」


「ベネット。あなたは寮のコンシェルジュなのにどうして私を迎えに来てくれたの? そんなことを頼む学生はいないでしょう?」


「ミス・アキラは特別な生徒だと窺っておりますので」


「特別?」


「確かに私は普段は学生の用事は致しません。が、ミス・アキラのお世話は理事会からも指示されております」


 暁は何事か思案するように軽く握った拳を唇にあてて黙り込んだ。この時まだ暁は自分の持つ「力」というものと「魔法」というものがまるで分かっていなかった。


 これから何をどのように学び、稲妻の姫神にも言われたように力の使い方や使い途、生きる道についても到底想像できず、内心では途方に暮れる気持ちだった。暁たちを乗せたリムジンは茶色いレンガの瀟洒なタウンハウスの前で停車した。ベネットは暁のトランクを手にさっさと階段をあがり、玄関のドアを開けた。

 

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