第10話

 家に戻った匠は自分の部屋で待機させられ、暁も離れの部屋で待つように言われた。


 暁は買ってきたドーナツを母親に渡すと「みんなで食べて」と言った。暁の言うところの「みんな」というのが家族だけではなく、女中たちも含まれていることを母親は正しく汲み取った。


 思えば幼い頃から女中や使用人がいる家に育ったにも関わらず、暁には尊大なところは微塵もなかった。わがままを言うこともなければ、匠と引き離されて育ったのにひねくれもせず、性質は素直な方だった。


 それというのもすべてが見えて、知っていたからなのだろう。


 お嬢様だの暁様だのと呼ばれても、暁には女中の本当の姿が見えていた。狐の姿が。獣にかしずかれるのは奇妙なことだったけれど、獣であるが故に図らずも暁を暗い心から遠ざけた。生まれながらにして「力」が使えたことが奢り高ぶる理由にならなかったのは、大人達が常々暁を監視して、事あるごとに「そんなことをしてはおうちから追い出されるよ」とか「人に知れたら死んでしまうよ」と脅してきたせいもあった。


 母親は暁を呼び止めると「ありがとうね」と言った。暁はふんと鼻先で返事した。離れへ戻っていく暁の背中を見ながら、母親は涙が出そうになるのを堪えていた。


 離れの居間では祖母がお茶を飲んでいて、暁を見ると「おかえり」と声をかけた。


「なんだい、たくさん買い物したんだね。お小遣い全部使ったのかい」


「全部じゃないよ」


「お茶飲む?」


「うん」


 卓袱台には青磁せいじの湯呑があり、緑茶のいい匂いがしている。祖父の姿がないのは本殿へ行っているからだろう。


 祖母はお茶をいれてくると「昨日はまいったね」と事もなげに言った。


「なにが……?」


「なにって、お前、着物。昨日の着物、お酒でびしゃびしゃになって台無しじゃないか」


 暁はきょかれたように祖母を見返した。祖母はあっけらかんとした調子で尚も言い募った。


「なんだってあんなことをなさったのかね。いい着物だったのにもったいない。そういうことをまるでお考えにならないんだから」


「まあ……神様には着物なんてどうでもいいんだろうから」


「馬鹿言うんじゃないよ。これが姫神様だったらそんなことはなさらないよ」


「そうかなあ」


「高かったのに」


 祖母が心底悔しそうに言うので暁は笑いだしそうになるのをどうにか堪えた。


 男の神様は女の衣装になど関心はなく、女の神様は値段のことまで慮ってくれるだろうという祖母の発想がいかにも人間らしく、生活感があって、どうしてそんなことを神々と結びつけられるのか暁はおかしかった。


 二人がしばしお茶を飲み、静かな時間を過ごしている合間に太陽は沈みきり、山は夜に覆われた。今晩も風のない静けさで、生き物の気配はなりを潜め、張りつめた空気が漂っていた。


 時計の針の進む音まで聞こえそうな静けさの中、祖母は木綿の生地に赤い糸で刺し子を刺し、暁はこれから蒔く予定の大量のコリアンダーの種を一粒ずつ慎重に割っていた。種を割って一晩水に漬けてから蒔くのだ。その方が発芽率があがる。時々祖母が暁に話しかけたけれど、暁は一言二言返すだけで作業に没頭している様子だった。没頭したいのだろう。集中して、意識を逸らしておかなければこの「待つ」という時間はひたすら苦痛でしかないのだろう。そう思うと暁の無心な様子はせつなかった。


「おばあ」


 不意に暁が口を開いた。


「なんだい」


「おばあは目がいいね。それ、針に糸が簡単に通せるんだね」


「なに言ってるんだい。こういうのは目で見るんじゃないよ。指先で、ね。感覚でやるもんなんだよ。神経を集中させれば分かる。……力を使うようなもんだ」


「神通力で針に糸を通すなんて、便利でいいね」


 暁が言うと同時に、表で格子戸をほとほと叩く音がした。


「暁様」


 玄関の明りに照らされて、影絵のような狐が映し出されている。暁は固唾を飲んで次の言葉を待った。


「暁様。お山へお越しください」


 女中がからりと格子戸を開けた。昔から祖父母に仕える古狐だった。暁は頷き、立ち上がった。


「暁、これを持って行きなさい」


 祖母は玄関まで見送りに出ると、女中と共に行こうとする暁にさっきまで縫っていた刺し子を手渡した。それは手拭よりは小さく、ハンカチぐらいのサイズで小さな麻の葉文様がびっしりと縫われていた。


「ポケットにいれて、ほら。麻の葉文様は魔除けのお守りだよ」


 そう言うと、古参の女中に向って「頼んだよ」と命じた。


 女中は重々しく頷いて返し、手に提灯を下げて先に立って本殿へ向かう石段へ進み始めた。


 暁はその後ろを歩きながら、古狐の背中に昔からある刀傷の痕を懐かしく見つめた。


「その傷が痛むことはないの」


 背中に向って尋ねると、古狐は静かに答えた。


「雨の日は少し痛みますね」


「そう……。どくだみを揉んで貼るといいよ。煮詰めて軟膏にしてもいい。今度作っておくよ」


「もったいないことを……恐れ入ります」


「匠は? 匠も本殿に?」


「先ほど向かわれました」


 古狐がちらりと暁を振り向いた。


「なに」


「……暁様こそが跡を継がれるものと思っていました……」


「……女はね、ダメよ」


 暁は苦々しく笑った。古狐はもう暁の顔を見なかった。


 石段を上がりきると鳥居の下に緋袴ひばかまの巫女が一人立っていて、暁を見ると一礼した。


「本殿へお越しください」


 女中は提灯を手にしたまま「ここでお待ちしています」と言った。暁は頷いて返した。


 石畳を歩き拝殿から本殿へ。昨晩と同じ道筋を辿る。靴を脱ぎ冷たい床を踏めば、みしりみしりと足音が響いた。


 祭壇の掛軸の前には祖父と父親、そして匠が並んで座っていた。暁は彼らの前までくると正座し、三つ指をついて深々と頭を下げた。


「久遠寺暁、ただいま参上致しました」


 額づいたまま暁は一声張った。


 すると掛軸の中から翁面の神、稲妻の姫神に続いて福々しく太った男神、猪の皮をかぶった男神、お多福の面をかけた女神、頭全体が黒々とした毛髪と髭に覆われて刀を腰に帯びた男神などがぞろぞろと現れ出でて、ずらりと並び立った。


 暁の平伏する姿を見ながら匠は胸が潰れそうだった。


 評決は、ある神は暁が忌むべき双子の片割れで、しかも女であること自体がすでに禁忌であることを滔々と述べ、ある神は暁が生まれながらにして持つ力は神が許し、授けたものではないということを語気を強め、ある神はしかし力を生まれながらにして操る天才は無視することはできないと擁護し、暁の力が魔道のものであるのは、理屈ではなく、そういう運命を背負っているのだということを神々は言い募ったことを匠たちは知らされていた。ならば。ならば、暁の身をどう処するのか。評決は暁の才能や性質について盛んに議論された、とも。


 現れ出でた稲妻の姫神がおもむろに自分の髪に挿した稲穂を一枝抜くと、暁の三つ編みに挿した。


「申し渡す」


 翁面の神がよく通る声で言った。匠たちは即座に平伏した。匠は懸命に祈っていた。暁の行く末を。


「久遠寺の娘、神々の住まうこの地に留まること罷りならぬ」


 ――ああ、やっぱり。やっぱりそうなんだ――。暁は瞼を閉じた。――どんなにひっそりと隠れても、ここにはいられないんだ。そういう運命なんだ――。


「魔道の者はこの地を去り、その力を見極めよ」


「……え?」


 暁は驚いて思わず顔をあげた。すると稲妻の姫神が膝をつき、暁の肩に手を置いた。顔の前に白い紙が下がっているので正体は分からないが、優しい調子で姫神は言った。


「お前は悪い娘ではない。けれどお前の中には魔道の力がある。お前はその力が何なのかを学び、その力をどのように使えばいいのかを学び、力と共に正しく生きる道を探しなさい」


「……姫神様……」


「お前はここへはいられない。ここはお前のいる場所ではないのだ」


「……」


「案ずることはない。お前がいつも正しい道を行けるように見守っていよう」


 稲妻の姫神は暁の髪に挿した稲穂をそっと撫でた。


「手にとってみよ」


 促されて暁は髪から稲穂を抜いた。見ると稲穂はかんざしのような細工の物に変わっていた。


 翁面の神が両腕を広げると宣言した。


「裁定は下った」


 並んでいた神々もそれぞれが「裁定は下った」と大音声で復唱した。


 神々の声で本殿の柱や床がびりびり振動する。匠はその地響きのような唸りを全身で受け、総毛立った。傍らの父親が神々の声に向って、これもよく通る声で一調子張った。


「承りました」


 匠は驚いて父親を見た。どうして、なぜ。そう言おうとして、しかし、ぬかづく父親のまなじりに涙が滲んでいるのを認めて何も言えなくなった。


 これが久遠寺家の者の宿命。神々に仕えるということ。神々の言葉は絶対だということなのだ。


 匠は初めて父親の苦悩を知ったような気がした。暁が双子であったこと、女であること、特異な力を持つこと。そのすべてが煩悶はんもんの種だったのだ。この日が来るのを知っていて、それは必ず受け入れなければいけないということ。自分の娘を追い出さなければならないという事実。


 神々はまたぞろぞろと連なって掛軸の中へ戻っていく。最後に稲妻の姫神が匠の脇を通る時、一瞬足を止めて「おのがじし、己を磨くがよい」と言った。匠は「精進致します」と答え深く礼をした。

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