茫漠渡海

てると

第一章 別れの始めに 一、脱獄

 生まれた。傾く街から転がり落ちて東の街にさすらった。太陽が近くなった。影が混沌とした深淵のようであった。その茫漠とした地ではじめて人の声を聴いた。その声ははじまりの慰めであり、昼となく夜となく、私はやむことなくあなたを求め続けた。世界は良いものではなかったから、全てが無人になってしまった地の孤独は耐え難く、私はそれを忍耐するほどの力に恵まれていなかったから、対象もなく呪い、ひたすらに人間の声を渇愛し続けた。冬が去った。結局この街も、月の海だったのか。やっぱり死ぬのかと思った。

 さて、そうしたことで私は如何ともし難い性情により地団駄を踏んで、三鷹の国立天文台のすぐ隣にある精神科の閉鎖病棟に強制入院という運びになった。このような次第で、私にとって三鷹は(あの何回も往復した廊下が思い出されます)呪われた隘路に位置する。スマホはおろか靴紐の一本さえも解かれ取り上げられるという洗礼を受けた挙句、推定入院期間3か月の宣告を受けた瞬間は、ああ、そうか、せっかく大学の全面対面授業が始まるというのに俺はこんなことになったのか、一時の狂気で監獄に閉じ込められ言葉も物も奪われた、じゃあ死んでやるよ、見てろ。シーツをベッドに括り付けて死んでやるよと思った。死ねなかった。どうしようもなかったので本を読んだが、そこに展開される、まるで古代人の妄想にも似た物語は、私にはなんの癒しにもならなかった。そこで気づいた。実は、私の読んでいた本は古代人の妄想以外の何ものでもなかったのだ。その偉大なる妄言集を床に投げ捨て、私は夜空を見上げた。孤独。幽閉された私に恵みを与えてくれる人なんていやしなかった。月の光に包み込まれたかった。しかし私の狂気は月下界の狂気、人からのものであった。いい、もはやこのさい人の目など一切気にしないのである。窓に近寄ると、私の顔が映った、確かに私はいるのだけれど、なぜこんなところにいるのだろう、たった一人でこの部屋に…。…星辰が輝いていた。ただ私と星、私-星。その瞬間、どこまでも平静で澄んだ精神にのみ現われたあの星辰は、何も必要としない裸の美しさで、時間も空間もない ―美― 無であった。私は我に返った。ああ、なんと素晴らしいものだろう。私はとりあえず出所までの間の気休めに、本に書かれたコトバを次々と解体していくことにした―子供があれもこれも解体するように―、そうすると、気晴らしの遊び道具くらいにはなるものであるから(人は自律と同時に偶然を求めるものです)。

 この入院時、私は退屈さにメモをとっていた。


 3/14

 夕食:白米、漬物、もやしとパプリカ、チキンと野菜。

 寮の飯より、温かく味付もよいため格段にうまい。


 3月17日(木)

 午前9時台、主治医から話あり。面談。数日で退院とはならず、長期化するとのこと。つらい。

 まだ2日目にすぎないという事実に身が震える。小里と話したい。小里に会いたい。

 皆に嘘ばっかりつかれているような気がする。

 父に救援依頼。

 夜はいい。夜は眠れるから。こんなに夜が好きになったのは初めて。


 私は、1日1回10分限定の外部との連絡権を使ってなんとか1週間で、あの腐った魚肉を金剛石のように有難がっている田舎の隘路に死ぬまで閉じ込められている父を召喚することにし、その連絡に成功した。私は暇というものが大の苦手で、かりに人の性質をひたむきさと勢いに乱暴に二分するとすれば、私は明らかに前者がるい痩しており、後者が肥大化している。だから、とてもつらかった。なので、窓口を丁重に叩いて看護婦に暇で落ち着かないという旨を訴えた。看護婦さんは笑顔で「頓服飲みましょうか?」、と、貼り付いた笑顔で投げ返してきた。ニッコリと、どこまでも脈拍を失ったのっぺらぼうであった。その顔は未だに思い出せるが、気持ちが悪かった。なんで皆はそんなに私を殺したがるのだろう。俺は絶対に死なないからな。こう言っておくとかりに死んだときも皆は惜しむ念もなく面白いだろう。心底剽軽に、剽軽な空気で、しかし誰もが振り返るくらいの風として去りたいというのが私の願いだ。


 3月18日(金)

   全関係者が私を病んだ者として接してくるのが見え見えで嫌だ。

   TOTOのトイレの赤外線センサーの方が分け隔てなく人間扱いしてくれる。

   やっぱり小里に会いたくてしかたがない。

   帰りたい。帰りたい。帰りたい。


 そうこう苦悶の思案を重ねていたが、連絡権で父への根回しと口回しを徹底して無事脱獄に成功した。(いや、口を回したのではない、今でもそうだが、私は、口は「神が回してくださる」と思っている。もちろん神も、紙も、信じてなどいないが。)

 一旦、地元の田舎に帰った。人はちっぽけだ、だから田舎の腐臭など一向にしなかった。高度成長期に建てられた天守閣も、青年会議所が案内を立てている日の丸はためく神社も、あの青空の下の渺々たる海広がる神々に充ちた蒼穹の田舎を一人歩く私にとってはどこともなく、屈託のない清々しい美しさで私を、私を…。なんで私をそんなに歓迎するんだ!やめてくれよ!皮肉も大概にしろ!てめぇらは…!

 そうして私は、太陽の昇る方(オリエント)へ、東へと向かう列車で、再び、旅立った。


 キャンパスライフ!ああ、ようやく始まるのか。長い長いくだらない前史が終わり、ようやく人生の歴史時代に突入していくのか。轢死しなくてよかった。社会は得体の知れないものへの恐れにより恐慌をきたしていたが、ようやくそれも落ち着きを見せ、対面授業が再開した。大学生はギンギラギンのギンギラギンのギンギラギンのギンと歌われているように―事実、対面開始からはや1年を経過した今の私も、大学は楽しい―、大学はいいところだ。私は春の太陽を浴びた。ここに至り、ようやく私は人の言葉を発することができるようになった。桜舞う地に平安があった。「おはよう」。私はようやく自分がいることに気づいた。そして私は、先生に出会った。

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