菜々未
あべせい
菜々未
ならず不動産の社員・奈良一角(ならいっかく)が運転する乗用車が、郊外に向かう国道を走っている。助手席には営業部長の志賀丸尾。
一角がさきほどから、昂奮気味に話している。
「先輩、ぼく、昨日もナナちゃんに会ってきました」
「一角、おまえ、赤塚署のミーぼうはいいのか。ミーぼうが知ったら、ことだゾ」
「いいンです。最近、ミーぼうは冷たいから。しばらく、冷却期間を置くンです」
「なら、いいが……」
一角はニヤッとして、
「先輩、それ、ぼくの奈良とのシャレですか」
丸尾は、何か考えごとがあるらしく、手帳をとりだしてページを繰っている。
「いいから、続けろ」
一角は、ハンドルを握りながら、うれしそうに話す。
「会社を出て練馬駅方向に行く急な坂道があるでしょ。その坂を登った先に新しくできたコンビニ。ナナちゃんはあそこの店員です。ぼくは、この1ヵ月、仕事の帰り、あのコンビニに毎日、通っているンです」
「そのナナちゃん、に会いたくてか」
「ハイ。川井菜々未(かわいななみ)、ぼくが勝手に名付けて、ナナちゃん。ぼくと同じ25才。かわいい盛りです」
「25で、かわいい盛りってことはないだろう。女の25は、曲がり角だ」
「曲がり角ですか?」
「昔から言っている。女の最初の曲がり角、って。おれの婆さんは、お肌の曲がり角だよ、って言っていたが、おれの考えは違う。女に好きな男ができたとき、この男と結婚しようか、もう少し待って、もう少しいい男を探そうか、って立ち止まって考える、最初の曲がり角、とおれは思っている」
「へーェ、最初の曲がり角ね。女はいくつ曲がり角があるンですか?」
「さァな。ひとによっても違うだろうが、決断力に乏しいやつには、毎日、曲がり角が来るかもな。そんなことより、ナナちゃんだろう」
一角、ペロッと舌を出して、
「そうです。昨日、ナナちゃんに会いにコンビニに行ったら、ナナちゃん、いつものように『お客さん、何になさいますか?』って。で、ぼくは、『きょうは、煙草のケントをください』と言ったンです。すると、ナナちゃん、何といったと思います?」
「『お客さん、白鳥でしょう?』って、言ったンだろう」
「ゲェッ!」
一角、びっくりして、脇に車を停めた。
「先輩、どうして、知っているンですかッ!」
「不動産の営業を長年やっていると、その程度の駄ジャレは、耳にタコだ」
一角は再び車を発進させて、
「そうですか。でも、ぼくはわからなくて、『ぼくが白鳥ですか? 色が黒いから、カラスと言われるのならわかるけど』と言ったら、『白鳥は英語で?』って、ナナちゃんがニッコリして言うンです。ぼくは、そこで初めてわかったンです。白鳥は英語でスワン。煙草を吸わないの吸わんと掛けているンだって。ナナちゃんは、どうしてぼくが煙草を吸わないことを知っているのか。そのことを尋ねたら、ぼくがナナちゃんに会いたくて通い始めてこの1ヵ月、毎日煙草を買っているンですが、買う煙草の銘柄がいつも違う、って」
「おまえは、本当のバカか。毎日違う煙草を買ってどうするンだ。吸わないくせに」
「先輩、日本で売っている煙草の銘柄ってどれくらいあるか、ご存知ですか?」
「JTの日本たばこと輸入煙草を合わせると、確か、200は超えているな」
「先輩、なんで知っているンですか!」
一角は、丸尾の、どうでもいい博識にまたまたびっくりした。
「不動産屋は、煙草屋も扱う。おまえが思っている、役に立たない、どうでもいい知識が、いろいろ入ってくるンだ」
「話を続けます。だから、1ヵ月くらいだったら、毎日違う煙草を買うことができるンです」
「メビウスって煙草は、おれは吸わないが、ニコチンの量やパッケージの違い、メンソール入りかどうかなどで、全部で39種類もあるからな」
「先輩、詳しい、詳しすぎますよ」
「愛煙家の顧客は、煙草をプレゼントされると喜ぶンだ。それで、ナナちゃんの話は終わりか?」
「まだまだ続きますよ。『お客さんは毎日お買いになる煙草が違っていたから。きょうはケントですが、昨日はラッキーストライク、その前はマールボロだったでしょ。明日は?……』って言ったので、ぼくはすかさず『テゥモロー!』って、大声で言いました。そうしたら、ナナちゃん、ニッコリして、『あなたって、おもしろい方』だって。先輩、どう思います?」
「スワンのお返しで、テゥモロー、ってか。おもしろくもおかしくもないが、ナナちゃんってのは、よほど退屈していたンだろうな」
一角は、心外だという顔付きで、
「そうじゃないですよ。ナナちゃんがぼくのことを『あなた』って、呼んでくれたことですよ。それまでは、『お客さん』だったのに……」
「半歩、接近か?」
「半歩どころじゃないですよ。10歩も20歩も。大接近です」
「それで、どうした?」
「ケントの代金を払うとき、二つ折りにした千円札の間に、前からこの日のために準備しておいたメモを挟んで、手渡したンです」
「メモには何て、書いたンだ」
「『川井菜々未さま 煙草の名前はこれ以上知りません。でも、ぼくは、あなたのことをもっともっと、知りたいです。メール、ください!』って」
「アドレスを書き添えてか……」
丸尾は何か思い当たったのか、押し黙る。
「先輩、どうしたンですか。急に、トーンが落ちましたよ」
「一角、水を差すようだが、その川井菜々未という女だけは、よしたほうがいい」
一角は、またたま車を急停止させた。
「どうして、ですか! やっかみですかッ。いくら大学の先輩でも、許しませんよ」
「一角、よォく、聞け」
丸尾はそう言って、さきほどから繰っていた手帳を見ながら話す。
「その川井菜々未って女は、2年前、大磯で問題を起こしている」
「問題って?」
「その頃、菜々未は大磯でもコンピニ店員をしていた。ところが、彼女が店をやめる3日前、店長が自殺している。妻もこどももいる、よく働く店長だったそうだ」
「それがどうしたンですか?」
「菜々未はその店長とタダならぬ関係だった。その証拠に、店長は菜々未を受取人にした高額の生命保険に加入していた。そして、店長が自殺したのは、自殺の免責期間の1年が過ぎた3日後だった」
「自殺の原因は?」
「家庭不和だ。恐らく、彼女との不倫で家庭が崩壊していたのだろう」
「それでもナナちゃんは、遺族をさしおいて保険金をもらった?」
「そうだ。まだ、ある。去年、彼女は茅ヶ崎のコンビニにいた」
「大磯の次は、茅ヶ崎ですか」
「そこでは、彼女が店をやめる前日、妻子ある店長が交通事故で死亡している」
「その店長も、ナナちゃんを受取人にして生命保険に入っていた?」
「そういうことだ。あの川井菜々未は、コンビニをやめるたびに、高額の保険金を手に入れている。噂では、あの若さで、億の金を持っているそうだ」
「先輩、その話はどこから出ているンですか」
「赤塚署の刑事課に知り合いがいて、彼の情報だ。いま赤塚署では、彼女が働いているコンビニの店長に注目している」
一角は、下を向いて考えている。そして、数分後、
「ナナちゃんがあの店長とデキている、と言うンですね。そして、店長はやがて死亡する、って……」
「店長が彼女を受取人にして生命保険に加入しているかどうか、調べてみるンだな。そうすれば、はっきりする」
3日後の昼過ぎ。
一角が「わ」ナンバーの乗用車を走らせている。助手席で菜々未が、おいしそうに煙草をくゆらせている。
「菜々未さん、煙草を始めてどれくらいですか?」
「そうね。もう、7年になるかしら」
「エッ、菜々未さんって、25才でしょう?」
「おかしい?」
「25から7を引くと、18です。18の年から、煙草を吸っていた……」
「いけない?」
「い、いいえ。その程度の誤差は許されます。ぼくだって、吸っていた。もう、やめましたが……」
「やめたのに、お店に煙草を買いに来たのは、どうして?」
「菜々未さんに会いたくて。それだけです」
「だったら、煙草じゃなくて、別のものを買えばいいじゃない」
「例えば?」
「例えば、そうね。毎日必要なものって、新聞とか、牛乳とか……」
「新聞は会社で読みます。牛乳は飲みません」
「別に新聞や牛乳じゃなくて、いいのよ。どうして、吸いもしない煙草にしたの?」
「ぼく、見かけたンです。菜々未さんが、休憩中に、店の近くの公園で、煙草を吸っているところを……」
「お店の前の坂を少し下ったところにある児童公園?」
「はい」
「ヘンなところを見られたものね」
「カッコよかった。菜々未さんが煙草を吸っている姿に、一目惚れしてしまって……」
「あの公園、禁煙なンですって。だから、あの公園で煙草を吸ったのは、あのときだけ」
「自立している、大人の女性の魅力を感じました」
「もし、あのとき、あなたが公園の前を通りかからなかったら、2人の出会いはなかった、ということになるのね」
「運命なンですね、ぼくたちの出会いは……」
「あなた、煙草を吸う女性は嫌いじゃないの?」
「煙草をやめてからは、嫌いになりました。でも、菜々未さんは特別です」
「どう特別なの?」
「煙草を販売している女性が、ノースモーキングなンて、おかしいですから」
「あなた、よくわかっているわね。煙草が嫌いなら、売るな、ってこと」
「そうです。ぼくも、その意見に賛成です」
「あなた、こんな話をするために、わたしにメールをくれたの? ドライブしよう、って……」
「菜々未さんが、ぼくのアドレスにメールをくださったのが、うれしくて……」
「あれは営業メールよ。『ニコチンゼロの煙草が明日から発売されます。きっと来てね』でしょ」
「でも、ぼくはうれしかった。だから、返信メールに『こんどの祝日は、ドライブ日よりです。絶対、つきあってください』って、書きました」
「ずいぶん、強引だったけれど、うれしかったわ。お客さんからドライブに誘われたことは、ないもの」
そう言ってから、菜々未は表情を曇らせる。
「でも、ドライブだけが目的じゃないでしょ?」
「エッ」
一角、初めてことばを詰まらせる。
「目的はなに? 本当の狙いはなに?」
「菜々未さんのことが知りたくて……」
「わたしのなにが知りたいの?」
「菜々未さんの。ご家族は?」
「聞いてガッカリしていいの?」
「平気です。なにを言われても驚きません」
「そォ……」
菜々未は煙草をもみ消すと、唇に真っ赤なルージュを引き直した。その表情は、暗く、淋しい。
「わたしの家族は複雑よ。父は施設に入っているけれど、本当の父かどうかはわからない。母はシングルマザーで、わたしと2度目の夫を捨ててどこかに行った。わたしには兄弟姉妹がいるらしいンだけれど、本当のことはわからない。わたしは養護施設で育ったの。菜々未って名前は、7月7日の午前3時に、施設の玄関の前に捨てられていたから。施設長が付けてくれた、と聞いている。苗字の川井は、施設長の姓をいただいた。だから、本当の生年月日はわからない。年齢もいい加減、ってわけ。施設にいる父は、わたしが10才になったとき、向こうから勝手に父だと名乗り出てきただけ。父だという証拠はない。恐らく、わたしが捨て子だと知って、お金になると思ったンじゃないかしら」
「DNA鑑定すれば……」
「して、どうなるの。脳梗塞で、体の不自由な老人が本当の父とわかって、うれしいわけ? 母とわたしを捨てたも同然の父よ」
一角は哀しくなった。もう、ナナちゃんの過去を尋ねるのは、やめよう。ナナちゃんを愛することと、彼女の過去は関係ない。どんな過去でも、受け入れる覚悟はしてきたつもりなのだから。本当に聞きたいことを聞くべきなのだ。
「菜々未さん。ぼくはあなたのよくない噂を聞いています」
「どんな?」
一角は、言いかけるが、口から出ない。小骨のように、ノドに引っかかって出て来ないのだ。
菜々未がその一角のようすを見てとり、
「保険金でしょ。わたしがこれまでつきあってきた男性が2人も死亡して、その死亡保険金を、わたしがその都度手にしている、って……」
「菜々未さん、本当なンですかッ。ウソだと言ってください」
「わたしの最初のカレが保険の外交をしていたの。それで、わたしを受取人にして、少額だけど、生命保険に入った。そのカレが白血病で亡くなって、保険金が手に入った。わたしが22のときだった。何もしないでお金をもらう、って、わたしのような生い立ちの人間には、刺激が強過ぎた。保険金の仕組みについて、そのカレからいろいろ聞いていたから、大磯でコンビニに勤めたとき、わたしとデートしたいと言う店長に勧めたの。わたしを大切にしたいと思ってくださるのなら、わたしを受取人にして生命保険に入ってください、って。でも、高額じゃないわ。2百万円よ。茅ヶ崎でも同じ。噂ではどうなっているのか、知らないけれど……」
一角はうれしくなった。ナナちゃんは罪人(つみびと)じゃない。彼女の恋人が亡くなったのは、偶然だ。保険金は結果に過ぎない。
「菜々未さん。ぼくとつきあってください」
「ばかね。こうして、つきあっているじゃない」
「そうですね。これから、どこに行きましょうか。菜々未さんは、とりあえず西の方に走らせて、って言いましたけれど……」
「一角さんは、どこに行くつもりだったの?」
「決めていません……」
「いま、ここはどこ?」
「もうすぐ、平塚だと思います」
「わたし、東京に行く前、小田原の近くのコンビニでバイトしていたの。そこに寄ってくれない?」
「いいですよ」
「いまナビに入力するから……」
菜々未がナビをいじくる。
一角が、ナビの画面に目をやると、
「ダメよ。前を見ていないと、ジコるわよ」
「はい……」
菜々未がナビの入力を終えた。
「ナビの指示通り、お願いします」
一角は、ナビの案内に従ってハンドルを操作していく。
菜々未が寂しそうな表情で尋ねる。
「一角さん、今夜はどうするの。泊まるところは決めてあるの?」
「泊まる、って。ホテルなンか、すぐに見つかります。それより、菜々未さんが、承知してくれるか……」
「わたしは、いいわよ」
「エッ!」
「でも、部屋は2つよ」
「そ、そうですよね。シングルを2つにします」
菜々未の表情が急に固くなった。
「わたし、あなたにウソをついていることが一つだけ、あるの」
「エッ!?」
一角の顔色が変わる。
「菜々未さん、ぼくにウソって」
「一角さん、あなた、いくつ?」
「菜々未さんと同じ25です」
「そうね。わたしをドライブに誘うメールのなかで、そう書いてきたわね。でも、わたしは……」
「年齢なンて、どうでもいいです。ぼくは気にしない。例え、ぼくより年上でも……」
「いい。わたしは、あなたより6つも上よ」
一角は、小さく「エッ」と漏らす。心の中では、「そんなに……」と思ってしまう。
31才、24のミーぼうに比べると、7つも年上だ。でも、恋に上下の隔てなし、って言うじゃないか。
一角は上下の意味を取り違えているにもかかわらず、無理やり自分を納得させる。
「年齢なンて、関係ない、です……」
一角はこのとき、ふと、丸尾のことばを思い出す。
「菜々未さん、いま勤めているコンビニの店長は、きょうあなたを迎えにお店の前まで行ったとき、姿が見えなかった。いつも忙しく働いているのに……」
「カレね。急用ができたみたい。そのうち、はっきりすると思う……」
菜々未は、言葉を濁した。それ以上、聞くなと言いたげだ。
「菜々未さん、店長のこと、好きなンですか?」
「なに言ってンの。カレ、昨年奥さんを亡くしたばかりよ。美しい奥さんの面影ばかり追いかけている。そんなひとが本当に好きになれる? わたし、そんなにお人よしじゃないわ」
「じゃ、生命保険は……」
「それはお約束だから……でも、2百万円だけ。カレがわたしと旅行したいというから、だったら保険に入ってと勧めただけ。旅行の道中、なにがあるかわからないでしょ。いままでと同じ。でも……」
一角は、菜々未の「でも……」を遮って、勢い込んで尋ねた。
「だったら、ぼくにも保険を勧誘するンでしょう?」
菜々未は、ちょっと考える顔付きをしたあと、
「一角さん。車をどこかに止めて。その細い道を入ったところがいいわ」
一角は、次の信号で、国道から脇道に入った。
海岸に続く一方通行の路地で、遠くから、磯の香りが漂って来る。
「その先に、空き地があるみたい……」
数本の松があり、周りが草地になっている。
一角は静かに車を進め、草地の端に車を停止させた。
「ここがいいわ。静かで、だれもいない……」
「向こうに海が見えます。もうすこし行けば、富士が見えるかも……」
「一角さん……」
菜々未が顔を振り向け、一角の手を握る。
一角は、どうしていいのかわからない。
「あなた、恋したこと、ある?」
「恋、は……あります。でも、いつも片想いで……」
「一角さん。わたしは恋ができなかった。いつも、声をかけてくるのは、妻子のいる店長のような男性ばかり。あなたのような男性に誘われたのは、初めて……」
「本当ですか」
「一角さん……」
菜々未が、一角の手を胸に導きながら、もう一方の手で、一角の背中を引き寄せた。
「じっと、していて……」
「はい……」
一角は、菜々未と胸を合わせたまま、背中に菜々未の手の力を感じている。
「あのね。わたし、恋をする男性に、保険なンか勧めない。ずーッと一緒にいたいもの。わかって……」
「はい……」
一角は自分の手を、恐る恐る菜々未の背中に回し、力をこめた。でも、このあとどうすれば、いいのか。わからない。
一角は、不甲斐ない自分に腹を立てた。キスをすべきなのか。菜々未はじっとしている。菜々未の心臓の鼓動だけが、キュンキュンと伝わってくる……。
3分も過ぎただろうか。
「じゃ、もう一度、国道に戻って……」
菜々未は一角から体を離すと、何事もなかったかのように、煙草に火をつけた。
「はい……」
一角は、菜々未の憂いを含んだ横顔を見て、燃えることを知らない女性なのだと思う。厳しい生い立ちが、そうさせたのだろうか。
車はやがて小田原に入り、ナビが目的地に到着したことを告げる。
しかし、そこは、シティホテルの前だった。コンビニではない。
「菜々未さん、コンビニじゃなかったのですか?」
「ちょっと、ここで待っていて。コンビニはあとで行くから」
菜々未は車から降りると、ホテルのフロントに行った。
フロントの電話を借りてどこかに掛けている。
5分ほどして、菜々未は、40代前半の男と一緒にホテルから出て来た。
男は、一角が1ヵ月通い詰めたコンビニの店長、徳丸貞雄だ。徳丸は不機嫌に顔をゆがめている。
彼も、一角の顔を覚えているようすで、運転席にいる一角を見ると、険しい顔がさらに険しくなった。
「一角さん。車を出して。しばらくは真っ直ぐでいいから……」
菜々未は、徳丸を後部座席に乗せると、助手席から一角に指示した。
車は、やがてよく見かけるファミレスに到着した。
3人は、菜々未の先導で店内に入り、テーブルに落ち着いた。
「一角さんも貞雄さんもよく聞いて」
テーブルにコーヒーが運ばれてきたあと、菜々未が語り始めた。
声が深い哀しみを帯びている。
「ここには元コンビニがあったの。いまから2年前になるかしら。店長の息子が店に火をつけ、焼身自殺を図った。幸い彼は一命をとりとめたけれど、火傷がひどくて、いまもこの小田原で闘病生活を送っている」
「自殺の原因は何ですか?」
一角が尋ねた。おおよそのことは想像できたが。
「店長夫婦が、長男の彼とわたしとの交際を認めなかったの。だから、結婚は論外ね。おなかに彼の赤ちゃんがいたのに。結局、彼が自殺未遂をしたショックで、赤ちゃんは流産したわ。わたしは彼の治療費を工面しようと心に誓った。そのために、小田原から東京に向かって、コンビニの店員をして、店長と怪しい関係をもちながら、お金を手に入れることを思いついた。だいたい半年ごとに移動して、お店を替わった。大磯、平塚、茅ヶ崎、藤沢。貞雄さんのお店が5店目になるわ。わたしが勤めたお店の店長は、1ヵ月ほどすると、わたしを誘った。誘われると、保険に加入することを条件に、承知した。大磯の店長が自殺したのは、仕方ないわ。彼が家庭を顧みなくなったのだから。茅ヶ崎では、店長が交通事故で死亡しているけれど、これもたまたま、信号無視してきた車にはねられたため」
「平塚と藤沢はどうだったンですか?」
「いまも元気にコンビニ店長をしているわ。わたしが店長を嫌って、お店をやめたのよ」
「店長が警戒して、すきをみせなかったということじゃないのか」
徳丸が言った。
菜々未は目の前の徳丸をチラッと見た。
一角は、横にいる徳丸の見方に興味をもった。
「わたしは、貞雄さんが好きになった。小田原で入院しているカレがいるのに。心でカレにすまないと思いながら、貞雄さんの誘いは断れなかった」
「徳丸さん。菜々未さんを受取人にして保険に入っているンですよね?」
徳丸は首を横に振る。
「そのように言われたが、私は従わなかった」
「菜々未さん、どうして徳丸さんだけ、特別なンですか?」
一角は、徳丸に嫉妬を感じた。
「貞雄さんが、施設にいる父に似ていたからかな」
「ぼくは、どうなるンですか?」
一角は、菜々未を独占したい欲望に駆られる。
「あなたは、わたしの兄弟のにおいがするの。だから、好意をもってくれるのはうれしいけれど、恋愛の対象にはならない」
「菜々未、キミは私をどうして小田原まで呼び出したンだ」
徳丸が問い詰める。
「貞雄さん、わからない。あなたは昨年奥さんを亡くして、男やもめ。わたし、あなたとなら、やっていけそうな気がする。年の差はあるけれど。でも、その前に、わたしには心の整理をしなければいけないカレがいる。そのことを知って欲しかったから。これから、一緒にカレのいる病院に行って。お願い……」
徳丸は押し黙った。
一角は、自分が自惚れていたことを強く恥じた。
4人掛けのテーブルで向かい合っている菜々未と徳丸を傍らから見て、自分が余計者であることを強く意識した。
菜々未は、重い荷物を降ろしたがっている。倫理的には、許されないことをしてきた罪悪感もあるだろう。
「菜々未さん。ぼく、帰ります。遠くから、お2人の幸せを願っています」
一角は、心にもないことを言って、その場から立ち去った。
菜々未は、店を出る一角をチラッと見たきり、徳丸に視線を戻し、一角を見送ることはなかった。
一角は東京に向け高速道路を走った。
1時間後、最初のサービスエリアに車を駐めたとき、メールが届いた。「菜々未」からだった。
一角は急いで、メールを開く。
「一角さん。お別れね。わたしはいま、貞雄さんと列車で東京に向かっています。本当のことを言うと、わたしは、一角さん、あなたのことが一等好きでした。でも、わたしはあなたにふさわしくない女です。だから、あきらめたの。例え、恋人の治療費を工面するためといっても、本来ご遺族が手にすべき保険金をもらったのだから。倫理的にも許されることではないでしょう。わたしは、その程度の女です。あなたには、赤塚署交通課のミーぼう(桜民都さん)がいるでしょう。昨日、あなたの上司の志賀丸尾さんから聞いたわ。彼女と仲良く、末永くお幸せに。しばらくは、練馬のコンビニにいるつもりだから、気持ちが落ち着いたら、お買い物にきてください。お待ちしています。……いまだから、言うわ。来る途中の空き地で、あなたがもっともっと強引だったら、あとの展開は変わったと思う……ごめんなさい」
一角は、短い恋が終わったことを感じた。
ぽっかり空いた一角の心の中に、ミーぼうの屈託ない笑顔が浮かんで来た。
(了)
菜々未 あべせい @abesei
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます