前提
「不可能、形態、能力」についての説明
わたしはここで、本論の全体に亘って使われる「不可能、形態、能力」という言葉の意義を明らかにすることで、これらが決して無規定に扱われているのではないということを示したい。「不可能、形態、能力」という言葉は、本論の骨子を成す極めて重要な観念であるから、これらについて何らの説明もせずに試論を進めることは、甚だ不親切だし、まかり間違えば俗悪な独りよがりにもなりかねない。
一、不可能。
不可能とは、意味だけを持った観念それ自体を指す。このとき、観念は辞書的意味を持たない(つまり、言葉による何らの指示も受けていない)ものでもある(一方で、言葉による指示を受けるということは必ずしも不可能の不可能性を毀損するものではなく、それについての判断には十分な吟味を要する)。この世でもっとも純粋な観念それ自体であり、存在し得ないが想像し得るものでもある。例えば“永遠”や“無”、“美”、その他凡ゆる意味それ自体を表す観念の個々を指す。
補足(一について)。
しかし、この“不可能”という言葉は、必ずしもア・プリオリとア・ポステリオリ、エピスメーテーとドクサ、といったような二項対立に属するものではない。また、必ずしも斯様な対立概念のどちらかに与するものでもない。また、必ずしも、二項対立の矛盾を指弾する脱構築的な営みによって生み出されたものでもないし、その矛盾からの解脱を志すものでもない。
二、形態(ゲシュタルト)。
形態とは、不可能に対して実際的な写像を具体的事物に見出すことのできる観念のことを指す(このとき、例えばカント的不可知による制限のために、殆どの場合不可能からは何らかの意味が捨象される)。ここでの形態という観念は、更に二つの観念(
二一、形相(フォーム)。
形相とは、例えばユークリッド幾何学的な図形そのものを指す言葉として説明できる。しかし、不可能と形相の判別は難しく、殆どの場合困難を極める。ある“不可能”の持つ“意味”について、それが現実する事物の持つ特徴と写像関係にある場合、そのような“不可能”の“意味”の体現として予感される形態のことを、例えば我々は形相と呼ぶことができる。
二二、実態(オブジェ)。
実態とは、例えばユークリッド幾何学的な公理に準じて(人の手により)描かれた形そのものを指す言葉として説明できる。つまり、実態はザハリヒなものである。
実態は形相に対して包含写像の関係にある。この関係はより厳密に、包含写像の数学的な定義通りに表すことも可能である(しかしそのためには、形相を成す要素が不可能に属していないことを確かめる必要があることは当然として、かつ、全てが十分に指示することが可能な要素として何らかの方法で表されている必要がある。つまり、形相と実態の関係は、不可能と形相の関係と比べてずっと科学的な手続によって結ばれている)。具体的な例を挙げれば、機械工学における設計図面が、形相(設計)と実態(図面)の関係を表していると言える。
補足(二、二一、二二、について)。
また、上記に於いてわたしは、形態の意味をそのまま図形的観念を例に取り説明をしたが、勿論この言葉はそのような意味にばかり限定されるものではない(不可能と形相の判別に慎重を期するというのは如上の通りであるが、図形の場合これは比較的容易であるというだけのことだ)。例えば“美”という不可能に対して、“芸術”という形態があり、芸術は、個別具体的に“芸術的着想(表現の手段)”という形相と、それにより実際に生み出された“作品”という実態に分けることができる。
三、能力。
能力とは、形態(実態)が不可能から写された意味(特徴)によって不可能に回帰しようとする際に世界に作用する関係のことを指す。形態は、この能力によって、(場合に応じて限定的に)不可能に回帰することができる。例えば機械工学では、自然の包摂する諸々の不可能的意味を形相(設計)に写し、更にそれを実態(製図、または組み立て)に写すことで、その実態は不可能から抽出された意味(特徴)を発揮し、それを世界に対して作用させる。このことによって、実態は単に不可能の体現というだけでなく、不可能に昇華させられる(不可能から形態に写される際に捨象された意味を回復する)。
補足(三について)。
不可能とフォームの混同が危ぶまれるのと同じ理由で、われわれは形態と能力についてもその境を注意深く見極めなければならない。ただ、形態と能力の場合は(不可能とフォームの場合と比べて)、それらの判別にわれわれは大きな困難を強いられない。能力は、不可能から形態に写された意味(特徴)によって顕れるが、これは例えば世界からの不可能の顕著化と言い表すこともできる。つまり、形態はカオスモスの世界(不可能の遍く均整な世界)に於ける不可能の写像そのものであり、秩序の破壊者である。このようにして顕れた写像は(比喩的にではあるが)束の間の奇跡であり、足許の覚束ない不安定な対称性を持っている。この対称性が破れるときに、例えば形態は不可能への回帰を行おうとする。この破れによる作用を能力と呼ぶ。(能力は確かに不可能の写像の齎したものにより世界との関係を可能にするが、それを単に不可能から写された元のひとつとして定義することができないことに注意されたい。寧ろ、能力は不可能の写像として顕著化した形態が持ち得る特徴そのものであると解釈した方がまだ穏当である)
さらに、上記の三つの観念は「表現」という一種の構造的関係によって結びついていると説明できる。不可能は形相として“表現”され、形相は実態として“表現”され、実態は能力として“表現”され、最後に能力は不可能として“表現”される。ここでいう表現は、例えば構造主義的な“関係”という術語と類縁関係を持つが、必ずしも同じではない。表現という言葉は、既に説明をしているように、不可能から能力に至るまでの円環的再帰関係の紐帯を成す写像の考えによって立脚している。(“表現”は例えば“存在”である。“表現”そのものを定義しようとする場合、われわれはある程度の成功を収めるであろう。しかし、“存在”がそうであるように、あるところでわれわれは袋小路に陥るであろう。それについての説明はここでは避けたい)
以上に述べたことを分かりやすくするために、更にわたしは“車輪”を例にとってより具体的な説明を試みてみたい。
一、車輪に於ける不可能とは無限直線である。
無限直線は例えば「始まりがなく終わりもない直線である」というように意味付けることができる。
二、車輪に於ける形態とは円形である。
このとき、車輪に於ける形態は、無限直線という不可能から「始まりがない」と「終わりがない」の意味を写し、円形として表現された。(「直線」という意味は捨象された)
二一、車輪に於ける形相とはユークリッド幾何学的真円である。
二二、車輪に於ける実態とは、我々が車輪と聞いた時に想像する一般的な車輪それ自体の個々の実態である。車輪という実態は、真円という形相から着想された設計意図によって円という観念を写し実態を得る。
三、車輪に於ける能力とは回転である。
車輪は回転によって世界に関係することで、無限直線に回帰することができる(捨象された直線を回復した)。
以上が「不可能、形態、能力」について、それの基礎となる説明である。
ここでわたしのした「不可能、形態、能力」という観念の提示に、実際にどのような能力があるのかは、各試論にて確認されたい。
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