緒言
緒言
文学とは、精神の物質化であり、実践的唯物論であり、合目的的虚無思想である。多くの場合、文学者は、言葉の持つ抽象化と相対化の働きによって、人生を取るに足らぬものに変えようと試みる。人生讃歌や自然讃歌は、文学の場合には、寧ろ言葉を逸した行間の挫折に於いて為される。或いは、次のようにも換言できようか。文学の本領は高貴なものの俗化にあると。取り逃がしたものの偉大さによって、各々の文学の偉大さは測られるものらしい。
然あればこそ、私は私の言葉の届かない領域に於いてのみ尊いと言うことを知る。侵し難い神聖さを見る。そのような真実のイリュージョンを予感する。
私がそのことを信じている分だけ、その真実(イリュージョン)は、より真実なのだ。
そして私の言葉は、そのような言葉以前の言葉、或いは、言葉が言葉を超えて、その響きすらも失して、殆ど空間と溶け合ったところの不可能の世界に、永遠の憧憬と讃歌とを捧げているのに違いない。如何にもそのような、言葉の不可能性によって。
私は今からここに、私の人生を通しての告白を行うことになるであろう。その告白が、単なる個人的感想の表白に留まるか、あるいは一般的、普遍的なものの表現たり得るかは、正直言って、未だ私にも分からない。
私はこの仕事が一年や二年で仕舞えるとは到底思わない。私のここでの仕事は、恐らくは年単位の周期を持った精神の緊張と弛緩の波に揺蕩うようにして、恵みの時期と、餓えの時期とを行きつ戻りつするであろう。あるとき、全く投げ打ってしまったかと思えば、またあるとき、猛然と奮起するであろう。(そして、ここにこうして書かれたテキストでさえ、スタティックなものとしてそのまま保持されることはないだろう)
斯様な仕事の結果として、しかし私はここに、私の才覚を証しすることはないだろう。私がここに証しするものがあるとすれば、それは私の感性の正しさのみであろう。そのような倫理的規矩(感性への信仰)のみを私は本論を書き進めるうえでの標とするのだ。
また私は、告白を行うからと言って、同時にある事物に対して何らかの断定、断言の類を行うかと言われれば必ずしもそうではない。もし私が断言することがあるとすれば、それは私の感性による確信に於いてのみであろうが、そのような場合、断言することはほとんど瞞着することと背中合わせなのだから、このことには十分に注意されたい。
また、私は、本論に於いてなされる如何なる哲学的言及に対しても、それを指示してこれは私の哲学であるという言い方をしないことに注意されたい。私は哲学に対する何ら正当な素養を持たないのだから、これは当たり前のことである。私はごく限られた重要な場面以外では(短い語句や人名、仄聞風の言い回しを除いて)、哲学者や文学者からの引用を行わないであろう。これもまた、私の素養の欠如に所以している。だから私は、これから私が語ろうとすることの新規性、特異性については、一切請け合うことはできないということだけは予め断っておきたい。
これまでの私の言いぶり(エクスキューズ)からも分かる通り、断定することや断言することへ責任を負わぬところに文学の油断ならない狡猾さがある。私は自身を哲学者と呼ぶ勇気を絶対に持ち得ないが、私は自身を文学者と呼ぶ勇気なら十分に持ち得る。この私の言のひとつをとってみても、文学の油断ならない性質は明らかであろう。斯様な文学の性質は、当然文学者の性質にも通底している。文学者は断言することを恐れているが、もし彼に自作へ対する如何なる解釈的メスの執刀も恐れない強靭な皮膚(物的、歴史的後ろ盾を持った自信)が備わっていたのなら、いはゆる文学的表現とか呼ばれる曖昧さの中に己が身を韜晦することを好んだであろうか? 哲学的文学とは眉唾である。それは断言を恐れる哲学、主張を恐れる哲学ということを意味しているからである。つまり、そこにおいて語られる主題というのは、断言するに至るまでの主張の道筋を曖昧にして、議論は終には不可知の遠に霧消し、後に残った如何様にも表現し得る渺茫とした可能性の世界への、半径片腕分の言及に過ぎないであろう。哲学が可能性によって語られるとすれば滑稽である。可能性によって語られるのならそれは文学である。そして文学は可能性を決定せずに、良くて蓋然性を示したところまでで読者を突き放すのだ(または、そのようなものをこそ文学と呼ぶべきなのだ)。哲学的文学とは、文学的表現による哲学とは、凡ゆる主張を如何様にでも行える無限性によって、結局は何も主張(断言)しないという彼の思惑(孤独の安全地帯)を可能にしてくれるのである。
しかし私は、誰が哲学者であり誰が文学者であるかという問題に拘泥することは避けたい(ましては自分がどうであるか、など)。例えばサルトルやカミュは哲学者であるか、それとも文学者であるか。このような問いに私は時間を費やしたくはない。ある人の言うことには、サルトルは哲学者であり、カミュは文学者であるらしい。そのような判断感覚に依って、自身が哲学者であるかどうかを云々するというのは、どこか虚しい。この虚しさは、私の持つ文学者流の怯懦とは、また別の方角から吹く空風なのである。
さらに言えば私は、やはり自分は哲学者ではなく文学者なのだと、断言せぬまでも、そう直感しているのだから尚更である。
そして私は私の感性による文学者的態度の暫定的(人生未だ半ばということを考慮しないのならば決定的)結論として、論理的な確かさよりも尚感性的な正しさを優位に置くのだ。
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