椿、回顧する

 アオと出会ったのは、小学二年生の十一月だった。

 当時の日記には、小学生のつたない文章ながら、克明にその時のことが記されているし、椿自身もよく覚えている。

 いつもと何も変わらない塾帰りだった。椿は自分の家が他とは少し違うのだと知りながらも、それが自分の将来にどう関係するのかまではまだ理解しておらず、毎日のように通わされる習い事に飽き飽きとして、運転している松田に延々と文句を垂れていた。

 だが、その文句は大抵、現状への不満と言うより、眠気と空腹から来る苛立ちに端を発していて、言っている間に眠ってしまうのが常だった。その日も、文句を言っているうちに徐々に眠気に襲われて、自然と車のドアに寄りかかり、無言で車窓の外を眺めていた。

 いっそ眠ってしまえばいいのに、落ちかけたまぶたを、必死に持ち上げていた。

 それもいつも通りだった。

 だが、いつも横を通る公園が視界に入った時、椿は一瞬見えたその光景に、ふっと夢の中で足を滑らせた時のような寒気を覚えた。


「松田さん、止まって!」

「ど、どうされました、椿様」

「いいから止まって! 今の公園のところまで戻って! 見間違いかもしれないけど、今、何か」


 眠気は吹き飛んでいた。尋常ならない椿に、松田もただ事でないと思ったようで、車は公園からしばらく行ったところで止まった。


「椿様、道が狭いので、この場で戻ることは出来ません」

「バックで戻れないの?」

「ぐるりと大回りする方が早いかと。よろしいですか?」


 今思えば、そうするべきに決まっている。だが、その時の椿は馬鹿で、そして焦っていた。


「じゃあ、松田はそうして。俺は自分で走っていくから」

「椿様! そういう訳には参りません」


 松田の静止は聞かず、椿は車のドアを開けて、外に飛び出した。松田はあとから追いかけてきた。

 当時もそう体力のある方ではなかったのに、公園まで走る足は止まらなかった。この辺りは雪までは降らないものの、十一月ともなれば、それなりに冷える。だが、その寒さも気にならなかった。

 街灯のついた公園に辿り着き、自分の見間違いではなかったと、絶句した。

 公園のベンチに腰かける、自分と同じくらいの年の、女の子が一人。

 薄着で、うつむき加減で、自分で好きでそこにいるようには思えなかった。

 椿と松田が近づいても、顔を上げない。虚ろな目は、まるで死んでいるようだった。


「なあ、大丈夫……」


 問いかけようとしたが、大丈夫でないことは明白だった。椿は少し悩んで、言い直した。


「もう大丈夫だから!」


 思いついて、自分の着ていたコートをその子に渡した。微かに目が動いたが、まるで手を動かそうとしないので、椿がベンチの上に立って、肩にかけてやるしかなかった。その上からさらに、松田が自分のコートをかけた。


「椿様、警察などに連絡いたしますので、少々席を外します。公園のすぐ外におりますので、何かあればすぐにお声かけください」


 松田が椿の耳元で言った。女の子に聞こえないようにという配慮だったのだろう。


「分かった」


 松田が立ち去り、女の子と二人きりになった。

 椿は女の子の横に座った。水筒を持ってくれば良かったと後悔しながら、自分に何が出来るかを必死に考えた。


「俺、真井椿って言うんだけど。何て名前?」


 聞こえてはいるようで、女の子の目は椿に向けられる。だが、答えはない。

 目を落とすと、膝の上で、骨のような手が願い事をするように組まれていた。無気力な様子なのに、手だけには痛々しい程に力がこめられていた。

 躊躇いながらも、椿はその手に触れた。命を感じさせない冷たさだった。


「今日、寒いな。寒くない?」

「……さむくない」


 返事があって、ほっとした。


「寒くないんだ。すごいな。けど、見てると寒そうだから、コート着てよ。どっちもサイズは合わないと思うけど」


 手を上げて、コートの位置を整えてやる。すると女の子はやっと、自分の手でコートを首元に寄せた。腕を通すまでにはいかなかったが、大きな進歩のように思えた。


「……ごめんなさい」

「何で? 俺が着てくれって頼んだんだよ。着てくれてありがとう」

「ありがとう……」


 お礼と言うよりは、単に椿の言葉をオウム返ししているだけのように聞こえた。女の子自身の意志で発されているのは、「ごめんなさい」という謝罪の言葉だけだった。

 コートを寄せるためにとかれた手は、形状記憶のように、また膝の上で組み直されようとしている。力がこめられる前に、椿は再びその手を取った。手遊びをするように、両手を持ち上げる。

 僅かだが体が起き上がって、顔が見えるようになる。不安と戸惑いが入り交じる表情だったが、見かけた時よりはずっとマシだと思えた。


「あっちにいるのは、松田さん。俺の爺さんの執事で、俺の世話とかしてくれてる人。家のこと何でも出来るんだ。料理も上手いし」

「……おかあさん?」

「や、お母さんではないけど。みたいな人。俺の家、他とちょっと違うから」

「まつださん、と。まない、つばき、さん」

「そう!」


 思わず両手を上下に振ってしまった。女の子は体ごと揺れた。


「なあ、アンタの名前も教えて。俺、アンタじゃなくて、名前で呼びたい」


 女の子は、手を見ながら、小さく口を開いた。


「あお……」

「アオ?」

「いろの……青、です」


 アオは弱々しくも笑った。




 階下から扉の開く音がして、椿は記憶から戻った。

 ぐっと伸びをして机を見る。ノートと数学の問題集を広げてはいたものの、予定していた半分も進んでいない。


「まあ、いいか」


 ひとり言を言って立ち上がり、ほとんど意識せず玄関に向かう。

 玄関口で松田と立ち話をする、見慣れないワンピース姿を見て、我に返った。

 帰ってきたからと言って、用事もないのにわざわざ出迎えにいくようなことを、椿は今までほとんどしたことがない。

 姿を隠すには遅く、アオは椿に気がつくとすぐに深々と頭を提げた。


「椿さん。ただいま帰りました」


 その手には、やけに洒落た紙袋がある。書店に行ったのではなかったのかと思うが、今は聞けない。


「おかえり」


 椿は用事があって一階に降りてきたような顔をしながら応えて、そのまま廊下を折れ、台所のある方向へ向かった。背後からは松田と会話をする声が聞こえてくるが、内容まではよく分からなかった。

 偽装工作のため、台所で飲みたくもない珈琲を淹れて、来た道を戻る。その時には既に、アオも松田もいなくなっていた。

 廊下で珈琲に口をつける。


「何でおめえ、廊下で飲んでんだ」

「うお!」


 振り返ると、にやにやと笑みを浮かべる祖父の姿があった。「何で」と尋ねているくせ、お前の考えていることは何もかも分かっているぞと言いたげな顔だ。


「青は帰ったか」

「あぁ。さっき見た」

「骨と皮しかなかったような娘が、めかし込んで、彼氏と街まで遊びにいくようになるとはねえ。何人育てても、子供の成長にゃあ驚かされるわ」


 あの十一月から一年程経った後、紆余曲折あってアオは、椿の祖父、晴田見虎太郎の養子になった。父親面の態度は見る度腹が立つが、実際のところ書類上はアオの父親なので、椿は閉口するしかない。

 ただ、間違いは訂正せねばならない。


「彼氏とは言ってなかったぞ」


 祖父はけらけら笑いながら居間へ入っていった。

 松田は放っておいてくれるだろうが、廊下で珈琲を飲んでいるところを、アオには見つかりたくない。ここで飲みたいのであれば、椅子を持ってきましょうかなどと、とんちんかんなことを大真面目に言いそうだ。マグカップを持って、自室に向かう。


「あぁ、くそ」


 歩きながら椿は、祖父に対してと言うよりは、自分に向けて舌打ちした。

 一日中何も手につかなかったことも、ぼんやりと昔のことばかり考えていたことも、帰ってきた音を聞いて出迎えに行ってしまったことも、全て原因は分かり切っている。

 自分で背中を押したくせに。

 喜ぶべきことだと思うのに。

 みっともないと苛立ちながらも、同じことを考えてしまう。

 アオが好きだ。

 自分以外の人間に、思いを寄せてほしくない。

 アオがこの家に住むようになって、ちょうど十年になる。その間、言う機会はいくらでもあった。だが、何も言わなかったのは、椿自身がそうと決めたからだった。

 アオが椿に向ける感情は、あくまで、忠誠と恩義に過ぎない。

 だが、もし椿が本当の気持ちを打ち明ければ、アオはその気がなくても忠誠のために、全てを受け入れるだろう。それはあまりにも虚しく、アオに対しても酷い行いだ。

 だから椿は自分に禁じていた。自分の側からは、一切何もしない。アオ自身の意志に全て任せようと。

 そのつもりだったのに、いざその時が来たら、この体たらく。

 学校や社交の場で出会う女性に全く心動かされない時点で、自分でも分かってはいたが。

 自室に入って、深くため息をついた。

 到底勉強に戻る気にはなれず、椿は棚から、アオがこの家に来た頃の日記を引っ張り出した。

 十一月に出会ってから、アオはすぐに養子になった訳ではなかった。十一月の段階では椿は善意の第三者に過ぎない。警察や児童相談所の人間に引き取られた後、椿はアオのことを気にしながらも、その後を知る術を持たず、それ以前と変わらない日常を送っていた。

 アオと再会したのは、それから約一年後だ。

 学校から家に帰ると、居間でアオと祖父が向き合っていた。

 祖父は珍しく難しい顔をして、椿とともに帰った松田も、困惑を隠し切れなかった。

 驚きながら、何故ここにいるのかと椿が問いかけると、アオは淡々と「探しました」と言った。

 曰く、あの一晩、椿や松田とした会話や、その直前に見かけた車を手がかりにして、椿の身元を調べた。晴田見家に通じる人間であることと、家が近辺にあるという事実が分かったため、ずっと地道にそれらしい家を訪ねていた。

 そして、恩を返したいので、どのような形でもいいからこの家の誰かに、自分を使ってほしい、と。

 帰すために、誰が何を言っても、アオは首を縦に振らなかった。肯定の返事を得るまでは、けしてこの場を動かないという態度だった。

 最早力ずくしかないという段階にまでなって、祖父はとうとう折れた。


「分かった。とりあえず、家に置いてやる。どうやって恩返しをするかは自分で決めろ。その代わりにお前さん、俺の養子になれ。さすがに今のままうちに通わせたんじゃあ、施設の方々に迷惑がかかるだろうからな」


 そしてアオは晴田見青になり、椿の従者になったのである。

 日記には端的に「ヤバい奴が来た」と綴られている。

 だが、文章の端々からは、嬉しさがにじみ出ていた。辛い思いをしていた女の子が元気になって目の前に現れたことや、年の近い友達が出来たこともそうだが、恩返しのためにと日々、熱心に松田の手伝いなどをする姿勢に、椿は尊敬の念を覚えた。習い事帰りに文句を言わなくなったのは、アオが来てからだ。

 ぱらぱらとページをめくっていると、アオが漫画に影響を受けて「私、椿様の下僕になります」と言った日の日記が出てきた。


「この時、ちゃんと止めとけば良かったな……」


 まさか本気ではないだろうと、冗談として処理してしまったことが悔やまれる。

 そうして、日記を見ながら現実逃避をしていると、自室の戸がノックされた。


「椿さん、夕食のお時間です」


 今は顔を見たくなかったが、無視するとアオは心の底から寂しそうにする。その顔を見ると、罪悪感の他に、ぞわぞわと熱が湧き上がる。その方が危険だ。

 日記を棚に戻して、戸を開けた。服は既にいつもの、地味な普段着だ。


「今日は椿さんの好物です!」


 飼い主に懐いた犬のような笑みを、直視できない。


「アオ、飯食って来た?」

「はい、少しいただいてきました。とは言え早い時間だったので、夕食もいただこうと思いますが」

「何食ったんだ」

「フードコートで、たこ焼きとアイスを。たまにはいいですね」


 椿もアオと出かけることもあるが、アオは付き従うという態度でいるので、いわゆるデートという雰囲気にはならない。帰った後も、椿に対して「目当てのものが買えて良かったですね」と笑うだけだ。

 今のアオからは、それとは違う柔らかな空気が伝わってくる。


「楽しかったか」


 答えは分かっているのに、聞いてしまった。


「……楽しかったです」


 想定の倍、幸福そうな返事が戻ってきて、思わず顔も知らない「喜多野昌也」に内心で悪態をついた。

 だが、これが正しいはずだ。さすがにもう潮時。アオはもういい加減、幼い頃の恩など気にせずに、自分の幸せを求めるべきだ。

 椿も、アオを縛らないようにしなくてはならない。

 椿は「そりゃ良かった」と何でもないふりをして、アオに笑いかけた。


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