明日が怖くて何が悪い

@crowkirishima

第一話

(一)


 

 夜――。

 昼まで垂れ込めていた重い雲がすっきりと晴れ、もうあと幾日もすれば満月になるだろうという大きな月がやけに低い位置に輝いている。

 霞ヶ関にそびえ立つ白く無機質な壁も、このほのあかい月光を滑らせるとひどく叙情的に映った。


 警視庁本部庁舎。

 巨人のようにそそりたつこの建物の駐車場出口付近には、この日、一台のドローンがほとんど音も立てずに旋回していた。

 暗視カメラを搭載したこのドローンは、出口から出てくる車があれば闇に紛れさりげなく近づき、中の人間を特定する。

 しばらくして、運転手のほか後部座席に三人を載せた黒のハイエースが出口から現れる。

 ハイエースの後部座席の真ん中には、手足を拘束されたうえで目隠しをされ、口元も封じられた男が苦しそうにその身をよじらせている。

 両側を、男二人が挟むように座っていた。

 ドローンは対象を見つけた、といわんばかりに、持ち場を離れその車を追尾するように動き出した。

 

 「対象、B地点通過したぜ、一萬イーワン

 

 どこかでそんな通信が響いていた。


 

 

 ハイエースは、皇居をぐるりと回り日比谷通りをひた走っていた。

 運転席の男は、灰色のスーツにきっちりと緑色のネクタイを締めている。

 後部座席の右側に座る男は、茶色のスーツにシャツを少し着崩している。

 

 「おい、高速乗れ。モタモタしてると加納かのうさんに怒られるぜ…」

 

 周囲を見渡し、しきりに貧乏揺すりをしながら運転席の男に声をかけた。

 左側のジャケットにチノパン姿の男は、ほかの二人より少しばかり年上だろうか。疲れ切った表情でぼんやりと窓の外を見ている。


 「分かった」


 運転席の男は短く返事をしてハンドルを切る。

 車は料金所手前でゆるゆると速度を落とした。

 時間は深夜十二時をまわったころで他に車の影はないが、二基あるレーンのうち、ETC専用レーンに工事中の赤い表示が出ていた。


 「ああ、くそったれが」


 まるで行き先を邪魔されているように感じ、運転席の男はいらいらと指をハンドルに打ち付けた。

 一般レーンに入った男は窓を開けて受付に手を伸ばすが、係員が気づいていないのか、もたついているのか、なかなか顔を見せない。

 

 「おい、早くしろよっ」


 そう声をかけてようやく緩慢な動きで窓に近づくその人影に、元々いらついていた運転席の男は激昂する。


 「おい、聞いてんのかよっ」

 

 ぬっ、と黒い影が窓から身を乗り出した。


 「……ん?……」

 

 その瞬間、プシュ、と一瞬空気を切り裂くような音が聴こえたかと思うと、かすかに車が揺れた。


 「?」

 

 後部座席右側の男が、すかさず運転手に確認する。


 「どうした?」

 

 後部座席の左側でぼんやりしていた男も、一瞬の間を感じて怪訝そうな顔で前に向き直る。

 しかし返事があるはずの運転席からは、だらんとうつむいた頭から生温かい血が噴き出している。

 運転席の男は、すでに絶命していたのであった。

 

「うわあああああああああああっ」


 後部座席右側の男がパニックになり大声をあげた。

 

『撃たれた』後部座席の二人がそれを認識するまでに一秒近くを要した。

 その間に、襲撃者は受付から飛び降りて車に近づいている。

 全身黒のジャージに身を包み黒のヘルメットをかぶった、大柄な男。

 この男、係員などではない――

 我に返った車内の男らは、すぐさま拳銃を取り出し構えたが、その間にすでに、襲撃者は後部座席の窓を割っていた。とんでもない膂力りょりょくだ。

 そうして右側の男がガラス片に気を取られているうちに、頭に銃弾を撃ち込んでいた。

 生温かい脳漿が後部座席にもびしゃびしゃと飛び散り、車内は赤く染まっている。

 左側の男は、拘束された男をかばいながら冷静に狙いを定め撃ち返したが、なぜかその弾はこの近距離にもかかわらず、軌道を読まれたかのように当たらなかった。


 「悪りいな」

 

 大男は低い声で呟き、彼の汗がにじむ額に銃口をつきつけた。

 そのヘルメットから、かすかにさらりとした銀色の糸が明るい月夜に揺れて見えた。


 「銀…髪…」

 

 消音器を通して三発目の銃声が響いた。


 ブレーキを踏む運転手を失ったハイエースは、ゆるゆると前進を続けようとして料金所のバーにぶつかっていた。

 一人残された目隠しの男は泡を吹きながら震えていたが、体に飛び散る生温かい飛沫を浴びて、何が起こったかを想像できないほど愚かではなかった。

 右側のドアが開かれ、同時に側頭部に冷たい筒が突きつけられ、呼吸が止まる。それが銃口であることを理解するのに時間はかからなかった。

 ゆっくりと顔を右に向けると、目隠しと口輪がぱっと外された。

 急に目に入ってきた光の多さと情報量に頭がくらりとする。

 車の中は真っ赤な血の海だった。

 そして、彼に銃口を突きつけているのは、一九〇センチはあろうかという巨躯の男だ。

 顔全体をヘルメットで覆っていてその容貌を窺い知ることはできないが、唯一のぞいているその瞳は、驚くほど冷たかった。


麻村あさむら直人なおとだな」返事を待たずに、大男は続けた。

「データはどこだ?」

「――――」

 

 拘束されていた男――麻村は、歯をガチガチと震わせ、答えることができなかった。

 

「僕は裏切っていないっ、公安には何も話してないっ……か、彼女は無事なのかっ」

「彼女とは誰だ」

「…………!」

「もう一度聞く。データはどこだ」

 「……ロッカーに預けてあるんだ、本当だ。引き渡しの直前に捕まったから。……でも、彼女の無事を確認できないとだめだ」

 

 麻村と呼ばれた男は、早口で言った。


 「おれは、彼女とやらは知らない。だが、データを渡せないのなら、ここに四体目の死体が増えるだけのことだ」

 

 大男の低い声は、驚くほどに冷たかった。

 しかし、崩折くずおれた男の死体を前にして麻村は引き下がらなかった。


 「人質になっている彼女の安全を確保してくれないのなら、僕も死ぬし、データも渡さない」

 

 大男はしばらく麻村のをジッと見ていたが、諦めたように少し肩をすくめた。


 「では、俺が彼女とやらを確保すれば、交換でデータを引き渡すのか」

 低い声で紡がれたその言葉に、麻村は「ああ」と安堵の表情を見せた。

 

 いつの間にか、ドラレコは破壊されている。

 

「では、それまでの間は、お前の身柄は預からせてもらう――」

 麻村はなすすべもなくこくこくと頷いた。

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