凍てつく鼓動

赤魚の煮つけ

Episode_01

 まるで凍っているようだ。放っておいたら腐っていく肉の様に、この目の前の苦しみや辛さが朽ちて行けば何の問題も無かったというのに。目の前から突然消えた彼女の存在は、まるで私の内臓を瞬間的に凍らせたようだった。どうやったら溶けるのか、それすらも分からない。ただただ目の前のカクテルを飲むだけ飲めば、その凍てついた痛みが引いてくれるのではないか、と手を伸ばし続けていた。

 いつの間にか深夜になったバーの店内で、周りの客やバックミュージックの騒音をものともせず、私―――斗真とうまはもう1リットル近く飲んだカシスのカクテルを追加する。

「マスター、今のもう一杯」

「…お客様、大丈夫ですか?」

長時間一人で飲み続ける私を心配した中年らしい歳の低い声が、ぼんやりとした視界の中聞こえた。

「大丈夫」

やがて差し出されたグラスを、私は一気に飲み干した。ブブ、とカウンターの脇に置いていたスマホが震えた。腕に振動が伝わり、私はぼんやりと画面を見た。『兄貴』と表示されていた画面に、私は無視して更にもう一杯、カクテルの追加注文をした。

グラスの中に残った氷の山を、私は指で掻きまわす。鋭い削れた角張った音が、指先から響いた。

 一体、いつになったら解放されるんだろう。

まるで一杯も飲んでいないかのように、再び苦しさが胸の中で波打つ海辺の様に押し寄せてくる。深い溜息を吐いた。きゅっと目を閉じると、少しだけ楽になったような気がした。私はマスターを見上げた。

「マスター、もう一杯」

声を掛けられた方は、眉間にしわを寄せ「少し飲み過ぎでは」と訊く。大丈夫、とだけ答えると、私はかつて恋人だった美奈みなの顔を思い起こした。

 大学を卒業した頃、友人が開いた合コンで知り合った、美奈。テーブルの端の方に座っていた彼女は、友人たちが男相手にガツガツと話しかける中、独り食事に徹していた。そんな美奈を見つめていた私に声をかけてきた女友達の一人の説明で知った、彼女の事情。どうやら聴覚に障害があるわけでも無いのに、口がきけないらしい彼女は、手話なら話をするという。言動の派手な積極的さの見える連れの女の友人とは対照的に、装いも大人しく積極的に話をするようなタイプではないように見えたが、そのどことなく儚げで印象的な大人しい綺麗さが、私の脳裏に当時、影の様に濃く刻まれていたものだ。

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