闇に叫べ! 18 和歌山殺人事件

鷹山トシキ

第1話

 1月1日

 岩手県岩手郡滝沢村が市制施行。滝沢市に移行。

行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律に基づき、特定個人情報保護委員会が内閣府の外局として設置された。

 55歳以上の国家公務員の昇給を原則禁止する改正給与法施行。


 菜奈は和歌山県にやって来た。和歌山市駅に午前11時に到着したのだが、正月なのでどの店も開いていない。駅の近くを紀の川が流れている。

 当駅には、南海電気鉄道の南海本線と和歌山港線のほか、JR西日本の紀勢本線が乗り入れている。改札を出ずに乗換が可能な共同使用駅だ。

 改札前で竜崎、硴塚桜と合流した。

「旦那さんは今回は参加してないの?」

 菜奈は綾瀬はるかに似た桜に話しかけた。

「主人は仕事で忙しいんですよ」

 桜の旦那、龍臣はかつてはヤクザだったが、今は弁護士をしている。

「嵐山の奴、どういうつもりだ?」

 寒さのあまりに竜崎がフードをかぶった。かつては凶悪事件を追う、『マルス』のボスだったが何者かに脅迫されて『マルス』を追放された。元部下の残間を殺そうとしたこともある。

 駅周辺には和歌山市民図書館、和歌山城、和歌山城西之丸庭園(紅葉渓庭園)などがある。菜奈はコンビニでおでん、おにぎり、ペットボトルのお茶を買った。竜崎たちはあらかじめ食べてきたらしい。


 紀風きふう館というホテルに菜奈たちはやって来た。和歌山市駅からほど近い。腕時計を見た。約束の12時半まで、まだ20分ある。

 柳葉敏郎に似た男が言った。

「なるほど、擬洋風建築か……」

 擬洋風ぎようふう建築とは、幕末から明治時代初期の日本において、主として近世以来の技術を身につけた大工棟梁によって設計施工された建築である。従来の木造日本建築に西洋建築の特徴的意匠や、時には中国風の要素を混合し、庶民に文明開化の息吹を伝えようと各地に建設された。明治の開始と共に生まれた擬洋風建築は、1877年(明治10年)前後にピークを迎え、1887年(明治20年)以降に建築が途絶えており、その時期は文明開化と重なっている。

「あれ、李さんじゃないですか?」

 李は伊豆の国署の署長だ。菜奈とは面識がある。

「君もゲームの参加者か?」

「そうです」

「実は室井さんだったりして?」

「刑事ドラマはあんまり見ないからな」

 紀風館は木造3階建てで、左右両端に配置された八角形3階建ての塔が特徴的な建築物である。建物全体に窓が多く配置されており、さらに正面中央には採光のためのドーマー窓を設けてある。

 1階の暖炉の間に菜奈たちはやって来た。

「おや、署長じゃないですか?」

 深浦加奈子に似た鴫野千代子がソファから立ち上がった。彼女も伊豆の国署の刑事だ。暖炉の間には他に医師の朝倉英吾がいた。手塚とおるに似たマッドサイエンティストだ。様々な病を生み出すことが出きる。

「手塚とおるって『ガメラ』に出てたなぁ」と、菜奈は唐突に言い出した。

 夏を快適に過ごすために床を高くして風通しを良くする工夫をし、また庇を深くしている。

 菜奈は椅子に腰掛け昼食を食べ始めた。

 おでんの具はたまご、大根、はんぺん。

 扉が開き、新たな客が入ってきた。向井理に似た羅院という男だ。

「皆さん早いですねぇ」

 羅院は故多岐川夏子(投資家)の部下だった男だ。どことなく向井理に似ている。

 菜奈は『ゲゲゲの女房』で向井が演じる水木しげるを思い出した。マンガを書くことを苦痛だとは思わないという水木しげるはカッコよかったな。

「10分前行動だって学校で習わなかった?」と、菜奈。

 羅院は鋭い視線で菜奈を睨みつけながら、「すみませんね」と謝った。

「参加者はこれで全部か?」と、朝倉。

 参加者は8人と嵐山から聞いていた。

 菜奈は部屋を見回した。朝倉、羅院、千代子、李、竜崎、桜。

「1人足りない」と、菜奈。

 扉が開き、倉田てつをに似た背の高い男が入ってきた。『仮面ライダーBLACK』『仮面ライダーRX』『あぶない刑事リターンズ』などに出ていた。彼の名は宇喜多栄作、何者かに1ヶ月に1人殺さないと殺すと脅されていた。

「あ〜腹が痛かった」

「トイレにでも行ってたんですか?」と、羅院。

「気安く話しかけるな」

「感じが悪いな」

 宇喜多がソファに腰掛けた瞬間、壁掛けテレビにキムタクに似た男が映し出された。

「若葉」と、菜奈。嵐山若葉は菜奈がかつて愛した男だ。

「久利生検事だ」と、羅院。ラフなジーンズにダウンジャケット姿の型破りな検事。秋霜烈日章は普段はジーンズのポケットにしまい、検察官の身分を示す際にだけ、ポケットから出して提示する。

「あれはドラマだぞ」と、朝倉。

「みなさん、ご機嫌よう」

「こんにちは~」と、羅院はフランクに話しかけた。

「羅院君、髪の毛が乱れてるね?」

 菜奈はテレビ会議みたいなものだなと気づいた。

「何だ知り合いか?」と、朝倉。

「まぁね」

「事前に知らせてあるが今回のゲームは今月の6日の正午までだ。タイムリミットまでにポイントが高い人間が報酬を手にすることが出来る」

「報酬って何かしら?」と、千代子。

「それはそのときまでのお楽しみだ」

「おもしれーじゃねーか」

 李が微笑みを浮かべた。

「あれか? より多く人殺しをすりゃあいいのか?」

 羅院はガムをクチャクチャ噛んでいた。

「違う。使う凶器によって点数が変わる」

「あのよ? 俺、ナイフ持ってんだけどさ? ナイフって何点なの?」と、羅院。

 菜奈は警戒した。もしかしたら、羅院がこの場で襲いかかってくるかも知れない。

 ちなみに羅院が手にしてるのはサバイバルナイフ。ハンマー代わりや風防や窓のガラス割りとして使える金属製の頑丈な柄頭を備えている。

「それは教えられない決まりになっている」

「凶器って自分で調達しなくちゃいけないの?」と、菜奈。彼女は嵐山とのセックスを思い出した。

 笠舟本手かさふねほんてと呼ばれる膝を抱え込んでの正常位は興奮した。

「基本はそうだが、和歌山県内に7つ、凶器が隠されてある」

「腕が鳴るぜ」

 羅院が楽しそうに笑った。彼は人を殺すことが楽しいに違いない……と、菜奈は思った。

「他に質問はあるか?」

 誰も答えなかった。

「ゲームスタート」


 菜奈の部屋は2階の201号室に荷物を置いて、紀風館を出た。菜奈は来る前にディスカウントショップでハンマーを買ってきた。菜奈は妖怪退治をする目的で日本刀、『ニノ』を持っていたが人目につくからあまり使いたくはなかった。ハンマーなら隠し持つことが可能だ。リュックサックの中にはハンマーの他、充電器や救急キットが入っている。

 

 菜奈は和歌山ミオにやって来た。

 JR和歌山駅ビルは1968年3月に開業した。当初は「和歌山ステーションデパート」という名称だったが、1995年10月26日に「VIVO和歌山」 に名称変更の上改装を行った。しかし、売り上げ不振のため、2010年3月に現在の名称に変更・再改装の上、リニューアルオープンした。 コンセプトは「オトナカワイイはじまる」で、ファッションを中心とした和歌山初出店店舗など60店舗が入り、20~30代をメインターゲットとしている。

 店舗を隈なく探した。

 サイゼリヤ(B1F)

 セリア(B1F)

 コクミンドラッグ(B1F)

 タリーズコーヒー(1F)

 黒潮市場(1F)

 Zoff(2F)

 GLOBAL WORK(3階)

 ロペピクニック(2F)

 tutuanna(2F)

 リーバイスストア(3F)

 スーツセレクト(3F)

 3COINS(4F)

 WAY(4F)

 アニメイト(4F)

 ハートアップ(4F)

 

 トイレも探したが凶器は見つからなかった。

 もしかしたら男子トイレに隠してあったりして?

 

 和歌山ミオ北館も探した。

 ブルーブルーエ(1F)

 カルディコーヒーファーム(1F)

 STRAWBERRY-FIELDS(2F)

 パンドラハウス(2F)

 ポムの樹(5F)

 杵屋(5F)

 

「ここでもないか」

 ため息を吐いて北館を出た。

 寒い風が吹いている。ホッカイロを買うんだった。

 

 14時に来迎寺にやって来た。和歌山県和歌山市太田529に存在する浄土宗の寺である。戦国時代、同地には太田城があったとされ、境内には太田城の城碑の他、紀州征伐で命を落とした戦没者慰霊碑、太田党を率いた太田左近の妻、「砂」の墓と伝えられる小さな墓がある。

 花を入れる石で出来た筒の中に毒が入っていた。ヒ素だ。最も安定で金属光沢があるため金属ヒ素とも呼ばれる「灰色ヒ素」、ニンニク臭があり透明なロウ状の柔らかい「黄色ヒ素」、黒リンと同じ構造を持つ「黒色ヒ素」と、「四ヒ素」の4つの同素体が存在する。灰色ヒ素は1気圧下において615 °Cで昇華する。

 ファンデルワールス半径や電気陰性度等さまざまな点でリンに似た物理化学的性質を示し、それが生物への毒性の由来になっている。

 中国では天然の三酸化二ヒ素が「砒霜」と呼ばれていた。

 亜ヒ酸を含む砒石は、日本では古くから「銀の毒」、「石見銀山ねずみ捕り」などと呼ばれていた。

 ヨーロッパでは「愚者の毒 fool's poison(英)」という異名があった。入手が容易である一方、体内に残留し容易に検出できることから狡猾な毒殺には用いられないためである。

 遺産相続のための殺人に利用されることが多かったので、フランス語でpoudre de succession(相続の粉薬)という異名があった。

 ヒ素の元素名(arsenic)は、黄色の顔料を意味するギリシャ語「arsenikon」に由来するといわれている。

 単体ヒ素およびほとんどのヒ素化合物は、人体に対して非常に有害である。特に化合物は毒性の強い物が多い。また、単体ヒ素はかつては無毒もしくは弱毒とされていたが、現在ではかなりの猛毒であることが確認されている。


 ヒ素およびヒ素化合物は WHOの下部機関IARCより発癌性がある(Type1)と勧告されている。飲み込んだ際の急性症状は、消化管の刺激によって、吐き気、嘔吐、下痢、激しい腹痛などがみられ、ショック状態から死亡する。多量に摂取すると、嘔吐、腹痛、口渇、下痢、浮腫、充血、着色、角化などの症状を引き起こす。慢性症状は、剥離性の皮膚炎や過度の色素沈着、骨髄障害、末梢性神経炎、黄疸、腎不全など。


 慢性ヒ素中毒による皮膚病変としては、ボーエン病が有名である。単体ヒ素及びヒ素化合物は、毒物及び劇物取締法により医薬用外毒物に指定されている。日中戦争中、日本軍では嘔吐性のくしゃみ剤ジフェニルシアノアルシンが多く保有されていたが、これは砒素を含む毒ガスである。


 一方でヒ素化合物は人体内にごく微量が存在しており、生存に必要な微量必須元素であると考えられている。ただしこれは、一部の無毒の有機ヒ素化合物の形でのことである。低毒性の、あるいは生体内で無毒化される有機ヒ素化合物にはメチルアルソン酸やジメチルアルシン酸などがあり、カキ、クルマエビなどの魚介類やヒジキなどの海草類に多く含まれる。さらにエビには高度に代謝されたアルセノベタインとして高濃度存在している。人体に必要な量はごく少なく自然に摂取されると考えられ、また少量の摂取でも毒性が発現するため、サプリメントとして積極的に摂る必要はない。

 🗡残る凶器 6


 屋久島で弁護士を開業している硴塚龍臣はある日、テレビの生番組出演中での法律相談コーナーにかかってきた電話の内容に興味を持つ。それは、和歌山のある田舎町で起きている大企業による環境汚染問題に関するものだった。


 和歌山の健康被害に遭っている住人と企業の和解に持ち込んで多額の報酬を得ようと目論んだ龍臣はこの話に乗り、住民側の弁護人となって裁判を引き受ける。しかし、企業側の弁護人、荒木田の狡猾な術中にはまり敗訴、隠蔽工作の中で僅かな証拠を得る為、弁護士事務所の経費なども裁判関係に投入、スタッフは雇えなくなり、加えて私財までも使い果たしてしまう。

 龍臣は荒木田は団時朗に似てると思った。1971年、円谷プロのウルトラシリーズ『帰ってきたウルトラマン』で主人公・郷秀樹を演じて人気となる。

 絶望の中で龍臣は金ではなく、正義と弁護士としての信念を取り戻し、自らのプライドをかけて再び法廷での闘いに挑むのだった。

 

 菜奈は紀勢本線に乗り込んだ。

 紀伊半島を海沿いに走る路線。全通したのは日本の幹線級の路線としては比較的遅く、1959年(昭和34年)のことである。新宮駅を境に、東側のJR東海が管轄する区間は非電化であり、西側のJR西日本が管轄する区間は直流電化されている。


 名古屋駅からは関西本線と伊勢鉄道伊勢線を、京都駅・新大阪駅からは東海道本線・大阪環状線・阪和線をそれぞれ経由して当路線へ特急列車が直通している。JR西日本管轄区間では、カーブを高速で通過可能な振り子式の車両が一部の特急列車で使用されている。


 1898年(明治31年)、当駅と船戸仮駅との間に開通した紀和鉄道の和歌山駅として開業。和歌山城下北東の外れに位置し、現在でこそ紀勢本線の一中間駅になっているが、開業当初は和歌山市の玄関口であり、最盛期には構内に和歌山機関庫をおき、東客車留置線の先端は阪和線築堤直下(紀伊中ノ島駅プラットホーム前、現JR社宅用地)に達する広大な用地を持っていた。しかし、開業からわずか5年後の1903年(明治36年)3月には、大阪市と直結する南海鉄道(現在の南海本線)が和歌山北口駅から南伸するとともに紀和鉄道も当駅から西伸して和歌山市駅が開業し、地域における当駅の重要性は早くも低下した。


 1904年(明治37年)8月に紀和鉄道は関西鉄道に買収され、更に1907年(明治40年)10月には同社が国有化されたことで和歌山駅は国鉄の駅となった。当時国鉄は南海鉄道の国有化も予定しており、同社買収後は和歌山市駅の機能を当駅に移転し、建設中の紀勢西線や阪和電気鉄道も当駅発着とする「和歌山大停留場構想」が計画されていた。しかし南海の買収は失敗に終わり、またターミナル駅建設に要する巨費は紀勢西線建設に回すべきとの声が高まったことで計画は白紙となった。


 1924年(大正13年)2月28日、紀勢西線が当駅から箕島駅まで開通し、和歌山線と紀勢西線の分岐駅となった。しかし、紀勢西線への直通運行のしやすさを重視した阪和電気鉄道が当駅ではなく東和歌山駅(現在の和歌山駅)との接続を選択し、1930年(昭和5年)6月16日に阪和東和歌山駅を開業させると、当駅の重要性はさらに低下した。そして阪和電気鉄道が南海鉄道山手線を経て1944年(昭和19年)11月に国有化されると、大阪 - 南紀ルートから外れた当駅に代わり、国鉄における和歌山のターミナル駅の座は完全に東和歌山駅へ移ることとなった。


 1961年(昭和36年)7月1日に、和歌山線田井ノ瀬駅と東和歌山駅を結ぶ短絡線が開通した。当初は貨物支線だったが、のち旅客列車も運転されるようになり、1972年(昭和47年)3月15日から和歌山線のメインルートとなった。その一方、従来からあった田井ノ瀬駅から当駅までの路線が支線となったのち、1974年(昭和49年)10月に正式に廃止されたことにより当駅は和歌山線から外れ、紀勢本線の中間駅のひとつとなった。


 こうして和歌山の中心駅としての地位を完全に失った当駅は、その駅名もまた東和歌山駅に譲ることとなり、1968年(昭和43年)2月1日、紀和駅に改称された(同年3月1日に東和歌山駅が和歌山駅に改称)。


 1978年(昭和53年)には紀勢本線の新宮駅 - 和歌山駅間が、和歌山駅から和歌山市駅を残す形で電化され、箕島方面からの直通列車が激減した。


 1985年(昭和60年)には列車交換設備を撤去されるとともに無人化された。高架化工事前にあった旧駅舎は木造モルタル塗りの大きなものだったが、解体直前には無人化の影響もあって荒廃していた。旧駅舎に掲示されていた建物財産標には「大正9年3月」と表示されていたが、幾度かの改築で完成時の面影は少なくなっていた。


 紀和駅で菜奈は降りた。ぶらくり丁商店街を歩いた。単独の商店街としてのぶらくり丁商店街も存在するが、一般に本町(本町通り)、ぶらくり丁、中ぶらくり丁、東ぶらくり丁、ぶらくり丁大通り、北ぶらくり丁の6商店街の総称として用いられる。ぶらくり、ぶらくり丁、本町、二丁目ともいわれる。この6商店街で総店舗数公称250店の和歌山市中央商店街連合会を形成している。


 ぶらくり丁は歓楽街としても繁栄していた。「以前は歩けば互いの肩がぶつかるぐらいにごったがえし」たという賑わいは、古都清乃の「和歌山ブルース」でも歌われ、ぶらくり丁近くには記念碑も設置されている。しかしぶらくり丁の商店街が衰退するにつれ、歓楽街もかつてほどの活気はなくなっている。

 和歌山城丸の内と城下を結ぶ京橋から北に延びる大手通りに沿って町が形成され、南北に幅3間(約5.4m)、東西の横丁に幅2間(約3.6m)に延びる通りであったという。1830年(天保元年)に、この一帯が大火により焼失した後に、町大年寄の和田九内正主が横丁で商売することを願い出たのを機に、食料品や衣料品等を扱う商人が集まってきたのが商店街の始まりである。


 間口の狭い店が多かったため、その商人たちが商品をぶらくって(吊り下げての意)軒先を飾っていたのがぶらくり丁という名前の由来であると言われるほか、「ぶらぶら歩く」が由来との説もある。


 以来、和歌山城城下町の一部を形成し、紀州藩を代表する繁華街、歓楽街として栄華を極めた。


 明治以降も和歌山の繁栄は続いた。和歌山市は1889年(明治22年)4月1日、関西では神戸、姫路、堺と同時に市制施行した。同時に誕生した全国39市中、和歌山市は人口48,131人で13番目の多さを誇った。この繁栄を背景に、ぶらくり丁は和歌山県を代表し大阪市以南でも最大の繁華街として繁栄した。1891年(明治24年)に開業した松尾呉服店が1932年(昭和7年)10月に丸正百貨店として百貨店化して商店街の中核となり、昭和初期には大阪ミナミと肩を並べるほどの繁華街・歓楽街となった。


 買い物客の前には人の頭しか見えないほどでまっすぐ歩けないとまで言われたほどにぎわう繁華街であり、全盛期には「シネマプラザ築映」や「和歌山東映シネマ」「和歌山帝国座」など映画館が5館以上あって和歌山県内各地や大阪泉南地域などからの客を集めており、1970年(昭和45年)にはジャスコ和歌山店、1971年(昭和46年)には大丸和歌山店も進出するなど、1970年代ごろまでは繁栄していた。

 

 腕時計を見て菜奈はハッとした。もう17時だ。

 荒木田という表札のかかった屋敷の前にやって来た。ボザール様式の館だ。ボザール様式とは、建築様式の1つで、フランス・パリにあるフランス国立美術学校エコール・デ・ボザールで建築を学んだアメリカ合衆国人卒業生がみずからの成果を本国において披露した際に用いた、建築のヨーロッパ古典様式をさす。この様式で建てられた建築の分類をアメリカンボザール、さらにアメリカンルネッサンスと呼ばれることもある。

 窓からは灯りが漏れている。灯りが全て消えて外国人みたいな顔立ちの男が出てきた。菜奈は電信柱の陰に隠れた。荒木田の後ろ姿が遠ざかる。

「しめしめ」

 メロリンキューで玄関ドアを開けて屋敷に侵入した。

 1階は玄関広間、紳士用休憩室と婦人用休憩室、大広間、大階段室、柱廊、図書室、音楽室、居間、車寄せ(ポーチ)、開廊(ロッジア)下側、ビリヤード室、配膳室、台所からなる。大広間には奥さんと思われる遺影が飾られている。

 ドキドキしながら電気のスイッチを押した。荒木田が戻ってきたらどうしよう!

 台所にあるポットの中にヒ素を入れた。

 菜奈はそそくさと荒木田邸を出た。

 

 宇喜多は死の病に蝕まれていた。 

 何者かが1ヶ月に1人殺さないと殺すと脅してきた。宇喜多は吹田にある印刷工場で働いていた。唐田からたって出来損ないを思い出した。

 毎日のように遅刻をしていたのでパンツを脱がしたり、罰金として5万をもらったりしていた。宇喜多のイジメが嫌になったのか唐田は辞めてしまった。唐田はどことなく、出川哲朗に似ていた。

 出川は端役ながら映画『男はつらいよ』シリーズの第37作『幸福の青い鳥』から第41作の『寅次郎心の旅路』まで、5作品連続で出演している。

 

 13時半、宇喜多はJR和歌山駅にやって来た。9番ホームから和歌山電鐵貴志川線に乗り込んだ。たま電車、いちご電車、梅星電車などユニークな車両がたくさん。貴志川の特産はイチゴだ。🍓田園風景の中をローカル線が走る。

 宇喜多は隣の田中口駅で降りた。

 この駅は和歌山県の県庁所在地和歌山市の市街地にあり、辺りには住宅が立て込んでいる。当駅の田中口という駅名の由来ともなった田中町はこの駅の北東およそ300mほどのところにあり、当駅とわずか600mほどしか離れていない和歌山駅から行くのと、距離の点では変わらない。この駅は丁度貴志川線の線路がJR西日本のきのくに線から別れる付近にある。

 大立寺にやって来た。

 当駅の西方およそ600mほどのところにある浄土宗の寺で和歌山駅からも近い。この寺の境内には徳川吉宗の祖母たる冷香院の墓もある。またこの寺の立派な山門は前述した太田城の大門を移築したものと伝わる歴史あるものである。


 宇喜多は数日前にリシンを闇の商人から買った。名前も性別も不明だ。ネットで買ったからだ。

 猛毒であり、人体における推定の最低致死量は体重1kgあたり0.03mg。毒作用は服用の10時間後程度(たんぱく質合成が停止、それが影響していくことによる仕組みのため)。リシン分子はAサブユニットとBサブユニットからなり、Bサブユニットが細胞表面のレセプターに結合してAサブユニットを細胞内に送り込む。Aサブユニットは細胞内のタンパク質合成装置リボゾームの中で重要な機能を果たす28S rRNAの中枢配列を切断する酵素として機能し、タンパク質合成を停止させることで個体の生命維持を困難にする。この作用は腸管出血性大腸菌や赤痢菌の作るベロ毒素と同じである。吸収率は低く、経口投与より非経口投与の方が毒性は強いが、その場合の致死量はデータなし。戦時中はエアロゾル化したリシンが、化学兵器として使用された事もある。また、たんぱく質としては特殊な形をしているため、胃液、膵液などによって消化されず、変性しない。


 現在、リシンに対して実用化されている解毒剤は存在しない。ただし、米テキサス大学で2004年に開発されたワクチンの臨床試験がFDAの認可の下に行われ、2006年1月30日付の米国科学アカデミー紀要電子版において予防効果を確認したと報じられている。また、ニュー・サイエンティスト誌では2007年7月4日付で、リシン・コレラ毒素・ベロ毒素の吸収を阻害する分子構造がセントルイス・ワシントン大学医学部の研究により発見されたと報じている。


 どうやって毒を仕込むか考えていた。

 考えがまとまらない。

 駅に戻ってきた。

 単式ホーム1面1線のみを持ち、列車同士の行き違いはできない地上駅。

 無人駅で、自動券売機や自動改札機などは設置されておらず、スルッとKANSAI対応のカードも使用できない。

 木造の駅舎が1990年代には残存していたが、撤去された。ホームには上屋が設けられており、上屋の裏には小さなトイレ(男女共用・水洗式)が設置されている。またホームと外部とは三段の短い階段と緩やかなスロープで結ばれている。

 吹きさらしなので寒い。

 トイレで用を足した。血尿が出た。

 

 列車がようやくやってきた。🚃

 車内の照明は猫仕様だ。ネコバスならぬ、ネコ列車だ。あたたかい。

 隣の日前宮駅で降りた。駅周辺を散策した。


 日前神宮・國懸神宮 - 広い境内を入って左側には日前神宮が、右側には国懸神宮があり日前宮とはこの二つの神社の総称。紀伊国の一の宮でもある。当駅の北600mほどのところにある。


 秋月遺跡 - 日前宮を中心としておよそ1km四方ほどの範囲に広がる遺跡。古くは弥生時代のさまざまな遺物がのこされており、古墳も点在している。当駅の北に広がっている。


 鳴神貝塚 - 国の史跡に指定されている貝塚。縄文時代のもので明治28年(1895年)に鳥居龍蔵と直良信夫によって近畿地方で貝塚としては初めて発見された。当駅の北東1km程のところにある。


 15時頃、花山温泉に到着した。♨

 花山温泉は、海岸まで続いている紀ノ川の河口部の沖積平野と、その東側の丘陵地とが接する付近に位置している。 また、阪和自動車道沿いの西側に有り、阪和自動車道を挟んで東側には、花山と呼ばれる標高77 mの山も有る。この花山の南麓は、花山団地として宅地整備された。花山温泉には、一軒宿の「花山温泉」が存在し、鳴神貝塚と隣接している。


 宿泊利用以外に、日帰り入浴も受け付けている。温泉水には溶存物質が多く、湯口や風呂には湯の華が析出し、付着している。なお、源泉温度そのままの低温浴槽と、加熱した浴槽とが設けられており、これらを交互に入浴する事も可能である。


 日帰り入浴をして、それから駅に戻った。駅に戻った時刻は16時半近かった。

 貴志川線の貴志から和歌山に向かう列車の終電は、22時16分だ。まだまだ時間はたくさんある。

 赤い電車がやって来た。

 「おもちゃ電車」、略して「OMODEN(おもでん)」は、おもちゃ箱や子供部屋をモチーフとしたようなデザインとなっており、車体全体を赤く塗った上に「OMODEN」などのロゴを大胆に配置している。座席は一般的なロングシートの他に、木の座席にカラフルな座布団を固定した部分があったり、木馬のような部品が取り付けられた座席があったり、さらにはベビーサークルも置かれているなど非常にユニークである。連結面付近にはギャラリーが設けられ、子供向けからマニア向けまで様々な種類の玩具やフィギュア、プラモデル、鉄道模型などが飾られている。さらにはカプセルトイ自販機のコーナーも設置され、一般で販売されているカプセルトイとともに和歌山電鐵オリジナルグッズが販売されていた。

 宇喜多はカプセルトイ自販機の前に立ったが、金の無駄だと思ったから買わなかった。

 

 貴志駅までは27分かかった。17時を回っていた。

 南海電気鉄道時代の貴志駅は有人駅で、駅舎の隣には倉庫が建っていた。しかし、2006年(平成18年)4月1日、貴志川線の和歌山電鐵への移管に伴い、駅は無人化された。


 無人化された当時、駅と倉庫の間には地域猫の「たま」達を住まわせる猫小屋が設けられていたのであるが、敷地が紀の川市の公有地に換わったこの機会を捉えて、市から撤去するよう求められた。これを受けて、たま達の“飼い主(地域猫の一応の管理者)”は「猫達を駅の中に住まわせてもらえないか」と和歌山電鐵の小嶋光信社長に願い出たところ、「たまを駅長に就任させる」というアイデアが社長の側から打ち出され、かくして、2007年(平成19年)1月5日、猫の駅長「たま」が誕生した。


 たまは、貴志駅の駅長に就任してから、改札台の上に乗ることを好み、改札口を通過する乗降客を“出迎える”という状況が、平日の昼間には多く見られるようになった。


 一周年記念日の2008年(平成20年)1月5日には、客招きの功績により、たまは「貴志駅駅長たま」から課長職の「貴志駅スーパー駅長たま」に昇格した。また、これを機に、同年4月20日には出札窓口の跡を利用して、水戸岡鋭治デザインの猫用「駅長室」が設置された。加えて同年に、たまは和歌山県より「和歌山県勲功爵(わかやまでナイト)」の称号を受けた。さらに2014年(平成26年)1月5日には、「スーパー駅長たま」は貴志川線14駅の総駅長職である「ウルトラ駅長」に昇格した。

 

 報酬は何だろうな?大金だったらいいな?そしたら、病を治せるかも知れない。

 改札を抜けると、蜂が飛んできた。

「冬なのに……」

 線路は駅を過ぎても続いており、踏切を越えた先に2両分の引上線がある(保線用留置線も同じ位置まで伸びている。夜間滞泊設定駅である。無人駅であるので、当駅に到着後は車内で精算する。一方、当駅では整理券は発行しないため、乗車の際は全てのドアを利用できる。なお、平日朝・夕や行楽期には和歌山電鐵の職員が出張し駅で改札することもある。


 駅舎は長らく開業以来の瓦葺木造平屋建駅舎であったが、老朽化したため、観光拠点としてふさわしいよう2010年(平成22年)に解体され、建て替えられた。

 駅舎内は、正面より見て左側にたま駅長グッズを扱う「たま商店」とたま駅長の「駅長室」が、右手側には地元特産の果物のジュースやジェラートを販売する「たまカフェ」(毎月第3水曜日休業)が設けられている。右手側外には別棟で男女別および車椅子対応のトイレ、およびホームへの車椅子用のスロープが設置されている。

 正月なので店は閉まっていた。

 駅前にはタクシー乗り場・バス停がある。駐車場はないのに加えて貴志川線の利用を促進させるため、和歌山電鐵では乗用車でたま駅長に会いに訪れる際には伊太祈曽駅または和歌山駅周辺の駐車場に停めて、貴志川線を利用して訪れるよう案内している。


 旧貴志川町はイチゴの産地であり、和歌山電鐵のシンボル車両である2270系「いちご電車」はこれにちなんだものである。早春にはイチゴ狩りに訪れる観光客も多く、紀の川市貴志川庁舎(旧貴志川町役場)横の特売場ではイチゴも販売されている。なお、当駅到着前と当駅発車直後の車内放送ではイチゴにちなみビートルズの楽曲『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』をアレンジしたチャイムが流れる。


 駅近くの店舗でレンタサイクル「いちご自転車」の貸し出しが行われている(要予約)。


 当駅出入口から南へ100メートルほどの所に『工房レトロ貴志川ギャラリー』というオリジナルの猫グッズ・原画ショップがある。たま駅長や和歌山電鐵とは直接の関係はないが、店内は個性的な猫絵グッズであふれており、当駅周辺で猫グッズを取り扱っているのは小山商店以外ではこの店のみである。


 駅から徒歩数分の場所には路線名の由来ともなった貴志川が流れている。そこに架かる諸井橋付近の国主峡一帯は大池貴志川県立自然公園にも指定されていて、休日にはバーベキューを楽しむ家族連れで一帯の公園が賑う。ここではホタルの養殖が行われており、夏季には屋形船も営業される。お盆には毎年花火大会が開催され、夏の風物詩となっている。


 少し上流の海南市との市境にホタル養殖場があり、毎年6月上旬に公開され見学することができる。この期間限定で貴志川線の車両には地元の和歌山県立貴志川高等学校の生徒が制作したヘッドマークが先頭車の前面に装着される。


 駅から北へ4キロメートルほど行くとJR西日本和歌山線の船戸駅に至る。

 

 船戸駅は、和歌山県岩出市船戸にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)和歌山線の駅。鴫野千代子は切符を改札に通した。

 駅のすぐ近くを紀ノ川が流れており、岩出寄りには道路橋(岩出橋)と鉄橋(紀ノ川橋梁)が架けられている。昔は船により紀ノ川の対岸まで人を渡していた。周辺には船をしまっておくための小屋がたくさんあったため、「船戸」の地名が名付けられた。

 千代子は大和街道に出た。駅のすぐそばを通っていて、和歌山市から三重県松阪市まで続いている。

 千代子は無類の酒好きだ。無性にレモンサワーが飲みたい。大衆食堂に入って肉うどんとレモンサワーを頼んだ。酒が入っているのでうまく体が動かない。千鳥足で歩く。  


 19時2分、千代子は大宮神社にやってきた。

 和銅5年(712年)に熱田神宮より日本武尊を勧請して創建され、当地の産土神となった。中世、高野山金剛峯寺を下った興教大師覚鑁が根来寺開創に際し、康治元年(1142年)に仏法の守護神として神祇官八神を祀り1,000神余を勧請した。それにより総社権現または三部権現、総社明神という名称になり、相前後して鳥羽上皇の勅願所に定められ隆盛した。しかし天正13年(1585年)の豊臣秀吉による紀州征伐(根来寺攻め)の兵火を受けて社殿を焼失。現在の社殿は江戸時代に紀州藩主徳川頼宣によって再建されて以降ものである。

 近代においては、1873年(明治6年)に村社、1923年(大正12年)3月27日に郷社に列格。

鎮守の杜に覆われた2万平方メートルの社域を有する。


本社

神楽殿

御供所

鐘楼

摂社

衣毘須大黒天社

正八幡宮

住吉社

春日社

 

 鐘楼のところでフォールディングナイフを見つけた。フォールディングナイフとは、刃を折りたたんでコンパクトに収納できるナイフのこと。 アウトドアでは料理の際に食材を切ったり、キャンプで使うロープを切断したりと、さまざまな場面で活用できる。 折りたたむとコンパクトになり、手軽に持ち運べるので、荷物の制限がある登山や自転車ツーリングにうってつけ。

 🗡残る凶器 5


報酬が鍋とかだったらどうしよう?いや、さすがにそれはないか。千代子は部下をボコボコに殴って裁判沙汰になっていたのだ。

 千代子は李に300万を払ったことによりムショに入らずに済んだ。刑事を辞めずに済んだが、ネットカフェ暮らしだ。  

 千代子は紀の川にやって来た。周囲は闇だ。

 千代子はホームレスと思われる男性に包丁を突き付けた。どことなくゾマホンに似ている。

 男性は千代子に対して自首をするように窘めた。しかし千代子は「見下された」「馬鹿にされた」と思い込み逆上し、千代子はフォールディングナイフで男性に襲いかかり、男性は左胸や首などを十数回刺されて死亡した。


 19時過ぎ

 李は紀風館の書庫にいた。古い本を読んでいた。

 金平鹿こんへいかは、紀伊国熊野の海を荒らし回った鬼の大将。文献によっては、海賊多娥丸たがまるなどとも記されている。熊野灘の鬼の岩屋を本拠として棲み、数多くの鬼共を部下にしていたという。


 鬼ヶ城は断崖絶壁で、海が静かな時にしか近づけないところであり、ここに鬼神が住んで郷民を悩ませていた。平城天皇の頃、鈴鹿山の鬼神を退治した征夷大将軍坂上田村丸が、紀伊国の鬼の話を聞いて討伐しようと二木島を経由して船で岩屋へと近づいた。鬼の大将である金平鹿は手下を集め「田村丸は物の数ではないが、観音の加護があるので我々の神通力が効かないかもしれない」と食料を運び込んだ岩屋の石の戸を閉めてじっと閉じ籠った。田村丸が攻めあぐねていると、沖にある島の上に菩薩のような一人の童子が現れ、弓矢を携え田村丸を手招きした。かしこまる田村丸に「私が舞を舞うから、軍勢も一緒に舞おう」と童子が語り、船を並べた舞台の上で舞い遊んだ。その妙なる調べに、鬼の大将は何事かと石の戸を少し開けて顔を出したところを、田村丸はここぞとばかりに童子から授かった弓を引き矢を放つと、矢は金平鹿の左眼に命中した。すると岩屋の中から金平鹿の手下の鬼たち800人が飛び出してきたが、田村丸の千の矢先にことごとく倒れた。千手観音の化身であった童子は、光を放って飛び去り、童子があらわれた島は魔見るか島と呼ばれ、鬼ノ本(木ノ本)もこの故事から付けられた地名である。 金平鹿の首は井土村の谷間に埋められ、祟りをもたらさぬよう「さしもぐさたたりをなさじ」と念じて封じ込めた。将軍は大泊の奥に観音堂を建立して、守り本尊の千手観音像を納め清水寺と名付けた。


 三重県熊野市井戸町に鎮座する大馬神社に、鬼ヶ城に於ける討伐で、賊の頭の首を地中に埋め、その上に社殿を造ったとの伝承がある。この賊の頭が海賊多娥丸とされている。

 

「あれ、こんなところにいたのか?」

 羅院が顔を覗かせた。

 李は警戒した。ナイフで襲いかかってくるんじゃとビクビクした。

「何だよ?」

「チェスでも一緒にやらないか?」

 2階に遊戯室があるそうだ。

「ルールが分からない」

「教えてやるよ」

「興味がない」

「もう、人殺した?」

「アンタには関係ないだろ」

「あんまり調子に乗るなよ?」

 羅院は書庫から出ていった。


 トラック運転手、佐川達夫(45歳)が日前宮駅前の自販機で飲み物を購入した際、自動販売機の上に置かれていたオロナミンCを飲んだ。佐川は堂本剛に似ていた。2日後の1月3日に死亡。運転手の嘔吐物からヒ素が検出され、毒殺と判明した。


 桜と竜崎は20時に紀風館に戻ってきた。

「もう殺したか?」と、竜崎。

「まだ」と、桜。

「外はメチャクチャ寒いな」

 2人は和歌山城をくまなく探した。

 和歌山城は、和歌山県和歌山市一番丁にある日本の城(平山城)である。徳川御三家の一つ紀州藩紀州徳川家の居城である。城跡は国の史跡に指定されている。

 本丸御殿は、虎伏山の頂上付近にあったため、藩主は二の丸御殿に住むようになっていった。初代・徳川頼宣と正室・瑤林院(加藤清正の娘)、14代・徳川茂承と正室・倫宮則子女王(伏見宮邦家親王の娘)が邸宅に定めた。また、倫宮則子女王が住んだため、宮様御殿とも称された。


 1621年(元和7年)に造られた本丸庭園には、宝船を模した七福の庭があったが、給水場設置に伴い、1923年(大正12年)に松の丸へ移築された。


 天守は大天守と小天守が連結式に建てられ、更に天守群と2棟の櫓群が渡櫓によって連ねられた連立式と呼ばれるものである。姫路城、松山城と並んで日本三大連立式平山城の一つに数えられている。


 1850年(嘉永3年)再建当時の大天守は3重3階で、天守台平面が菱形であるため、初重に比翼入母屋破風を用いて2重目以上の平面を整えている。南面に入母屋出窓があり、初重には曲線的な石落としが付けられていた。焼失した天守の創建年は不明であるが、それについては浅野幸長が創建したとする説(1600年(慶長5年)築)と頼宣が創建したとする説(1619年(元和5年)築)がある。創建時は、下見板張りの壁面であったと考えられている。


 1847年(弘化4年)に焼失した際、大天守を5重にする案も出され、天守雛形(木組み模型)と図面が作成されたが、幕府への遠慮と財政難のため、構造は先代天守を踏襲し外部壁仕上げを下見板張りから白漆喰総塗籠めへ意匠を変えるにとどまったものとみられている。


 天守は国宝(旧国宝)に指定されていたが、和歌山大空襲で焼失し、現在のものは、1850年(嘉永3年)の天守再建時の大工棟梁・水島平次郎の子孫である栄三郎が所蔵していた天守図と『御天守御普請覚張』を参考にして1958年(昭和33年)に再建されたものである。復元には東京工業大学名誉教授藤岡通夫の指示を受け、鉄筋コンクリート構造による外観復元とされた。復元設計にあたり、参考にされていた文献や図には天守群の高さが記入されていなかったため、焼失前に撮影された写真に写る他の建造物との高低比から天守群の高さが算出された。


 二の丸

 初代頼宣と14代茂承以外の藩主は、二の丸御殿に住んでいた。また、二の丸御殿は江戸城本丸御殿を模していたため、表・中奥・大奥に分かれていた。また、大奥があるのは、江戸城・和歌山城・名古屋城のみである。表は紀州藩の藩庁、中奥は藩主が執務を行う普段の生活空間、大奥は藩主の正室や側室たちの居所として機能した。現在、二の丸御殿の表・中奥に相当する場所は広場として開放され、大奥に相当する場所は芝生が養生され整備されている。 

 

 御橋廊下

 藩主が生活している二の丸と、庭園がある西の丸をつなげる傾斜のある橋。藩主が移動するのを気づかれないために、壁付になっていた。江戸時代の図面をもとに復元されているおり、実際に通ることができる。


 三の丸

 紀州藩の重臣である水野家や安藤家、三浦家などの上流藩士の邸宅が建ち並んでいた。廃藩置県の後は、公的機関や学校、商業施設、オフィス街になっている。


 御蔵の丸

 東堀沿いの石垣には、かつて多聞櫓が建てられていたため、城兵の昇降用の長大な雁木が残っている。


 松の丸

 松の丸櫓台から初代・頼宣が紀州富士(龍門山)を眺め、故郷の駿河国を偲んだといわれている。

 

「結局何も手に入らなかったな?」

「そうね」

新内あろちってスゴい大きい街だな?」

「うん」

 

 同じ頃、朝倉英吾は紀伊中ノ島駅にいた。

 🔖朝倉英吾 悪事をすると 病を発生させる

 紀伊中ノ島駅は、和歌山県和歌山市中之島にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)阪和線の駅である。駅番号はJR-R53。

 周辺は主に住宅地である。

 和歌山市立紀之川中学校、日本郵便 和歌山天王郵便局などが近くにある。

 トイレやコインロッカーを探したが武器は見つからなかった。トイレ内に死ねと真っ赤なスプレーで落書きをした。朝倉は悪事をすると様々な病を発生させる。

 和歌山周辺で風邪が蔓延した。

 症状は、咳嗽(咳、症例の50 %)、咽頭痛 (40 %)、鼻汁・鼻詰まりなど局部症状(カタル症状)、および発熱、倦怠感、頭痛、筋肉痛 (50 %) など。


 鼻汁は通常、風邪の初期はさらさらとした水様で、徐々に粘々とした膿性に変化する。

 高齢者では、肺炎に至っても発熱は微熱程度のこともある。

 

 和歌山駅は紀伊中ノ島駅の隣だ。

 朝倉が帰ってくるなり、千代子は咳をした。

「風邪かしら?」

 談話室には千代子、羅院、李がいた。

 李は温かい紅茶を飲んでいた。サウザーの絵柄のマグカップに羅院は釘付けになった。

「それ、自前のですか?」

「うん」

「心臓の位置と秘孔の位置が通常と左右表裏逆という特異体質の持ち主であり、それを見破れない限り、正確な秘孔を突くことができず北斗神拳も通じない。その謎と「南斗聖拳最強」と言わしめる強さのために、ラオウさえもサウザーとの戦いは避け、ケンシロウも初戦では惨敗を喫した。北斗神拳伝承者となった後のケンシロウを完膚なきまでに打ち負かして勝利したことのある人物は、シン、サウザー、カイオウの3人だけだからな」

「和歌山ラーメンはうまかったな。山為食堂ってところ。豚骨をじっくり煮込んであった」

「何の辺にあるんだ?」

「南海電鉄和歌山駅近くだよ」

「明日行ってみようかな?」

「李さんはどこに行ってたんですか?」

加太かだに行ってきた。冬の海は寒いな」

「バスか何かで?」

「レンタカーだ」

「あそこは真鯛の一本釣りで有名でしょ?旅番組でやってたわ」と、千代子。


 22時過ぎ、荒木田邸に荒木田と、大学の同期生、凪島なぎしま針生はりゅうがやってきた。凪島は元野球選手の板東英二、針生はあしたのジョーの『明日はどっちだ』を歌っていた尾藤イサオに似ている。3人ともS大学の法学部出身だ。同窓会の帰り、荒木田邸で飲み直すことになったのだ。

 凪島はS大の客員教授をしている。

 去年の秋頃、大学4年生の女子に『どうして、うちの大学には卒論がないんですか? 高校時代の友人は卒論と就活で忙しいってグチってました』と聞かれた。

『それは「研究として一定の水準以上の論文を生み出すのが、とても難しいから」です。 他の人文社会科学系の学部であれば、フィールドでの調査や先行研究の批判的検討、量的調査など確立された卒業論文を書くための研究手法があります』と凪島は答えた。

 荒木田は厨房で焼酎のお湯割りを作った。

 ビリヤード室でナインボールをすることにした。

 ナインボールは、ビリヤードのゲームの一つ。プレイヤーは通常2人。1番から9番までのカラーボール9個と手球1個の計10個の球を使い、手球を番号順に的球に当ててポケットに落としていく。

 ルールがよく分からない凪島は音楽室で坂本九の『上を向いて歩こう』をレコードプレイヤーで聴いた。


 先攻、後攻を決めるためバンキングを行う。プレイヤー2人が同時に手球をヘッドラインからフット側の短クッションに向かって真っ直ぐ撞き、戻って来た手球がヘッド側の短クッションにより近い方が先攻/後攻を選択できる。 勝負が微妙な場合は審判(居なければ第三者)に確認を求め、判断しきれない僅差ならやり直し。

 荒木田が先攻だ。


 ブレイク後の配置は運に頼るところが大きく、場合によっては手球を最小番号の的球に当てることが不可能なことすらあり得る。スポーツとして、運によって勝敗が決することを防止するため、以下に述べる「シュートアウト」というルールが採用されることがある。


 ブレイクショットでファールがあった場合を除きブレイクショット後の次の球を撞くプレイヤーは「シュートアウト」と宣言することにより、的球に構わず手球を好きな位置に向かって撞き、難解な配球を相手プレーヤーへ渡してショットするかしないかを選択させることができる。この場合、後述する共通ファールを除く全てのファールが免除される。


 これによりシュートアウトを行うプレイヤーは、自身にとって都合がよく、相手にとって都合の悪い配置を作り出すという駆け引きが生じる。シュートアウトは特にプロの試合においては、ほぼ必ず採用されているルールであるが、アマチュアの試合においては採用されない場合も多い。


 シュートアウトという呼び名は日本国内では一般的であるが、海外では「プッシュ」と呼ばれることが多い。


 テーブル上にある一番小さな番号のカラーボールを的球とし、手球を的球に当てて(この行為をショットという)順番にポケットしていき、最終的に9番を合法的にポケットしたプレイヤーの勝利となる。的球をポケットすることに成功した場合、プレイヤーは継続してショットすることができるが、ポケットに失敗した場合やファウル(反則)があった場合は相手のプレイヤーに交代する。


 ショット後、手球や的球の振る舞いによって他の的球がポケットされてもそれはセーフプレイ(ファウルにならないプレイ)である。このため、途中で9番が間接的にポケットされてゲームが終了することもある。ブレイクショットで9番がポケットされることもあり、これはブレイクエースと呼ばれる。


 ゲームは通常セットマッチ形式で行い、5セット先取した方が勝ち(5先という)などとあらかじめ決めておく。セットマッチの場合、ブレイクは交互に行うか(交互ブレイク、オルタネイト・ブレイク)、勝利したプレイヤーが行うか(勝者ブレイク、ウィナーズ・ブレイク)の二通りがある。


 テーブル上にある一番小さな番号のカラーボールを的球とし、手球を的球に当てて(この行為をショットという)順番にポケットしていき、最終的に9番を合法的にポケットしたプレイヤーの勝利となる。的球をポケットすることに成功した場合、プレイヤーは継続してショットすることができるが、ポケットに失敗した場合やファウル(反則)があった場合は相手のプレイヤーに交代する。


 ショット後、手球や的球の振る舞いによって他の的球がポケットされてもそれはセーフプレイ(ファウルにならないプレイ)である。このため、途中で9番が間接的にポケットされてゲームが終了することもある。ブレイクショットで9番がポケットされることもあり、これはブレイクエースと呼ばれる。


 ゲームは通常セットマッチ形式で行い、5セット先取した方が勝ち(5先という)などとあらかじめ決めておく。セットマッチの場合、ブレイクは交互に行うか(交互ブレイク、オルタネイト・ブレイク)、勝利したプレイヤーが行うか(勝者ブレイク、ウィナーズ・ブレイク)の二通りがある。


 以下はファウルとして扱われる。


 ①手球が一番小さい番号の的球以外の的球に最初に当たった場合。

 ②手球がいずれの的球にも当たらなかった場合。(ノータッチ・ファウル)

 ③手球が的球に当たった後、テーブル上のいずれの球もクッションに当たらず、またポケットもされなかった場合。(ノークッション・ファウル)


 以下は他のゲームにも採用されている共通ファウル。


 ④スクラッチ(手球がポケットされること)

ショットなど必要な場面以外で身体やキューが球に触れた場合。(球触り)

 ⑤手球を撞いた後、再度ティップが手球に触れた場合。(二度撞き)

 ⑥テーブルの外にボールが飛び出した場合。

 ⑦両足を床から離してショットした場合。

 ⑧USナインボールにおいては、ファウルを犯した場合、相手のプレイヤーは手球を自由なところに置いてプレイを続行できるが(これをフリーボールという)、ジャパンナインボールなどでは特殊な配置で再開しなければならない。


 またブレイク時にノークッション・ファウルやノータッチ・ファウルがあった場合、現状からフリーボールで再開する方法と、再度ブレイクからやり直す方法が選択できる。その際ブレイクを行うのは当然ファウルを犯したプレイヤーの次のプレイヤーである。


 また3回連続でファウルを犯した場合、その時点で負けとなる。これをスリーファウルといい、それを誘う高等技術(セーフティプレイ)もある。

 

「針生、ゲームが勝った方が1万払うって罰ゲームはどうだ?」

「面白そうじゃん」

 

 ゲームは荒木田が勝った。

「おまえって運がいいな?」と、針生。

「お前の腕が悪いだけだろ」

 荒木田は湯呑に口をつけ、お湯割りを飲んだ。

 針生は30年前の出来事を思い出していた。

 弱者の味方として活躍していた針生は、大手自動車会社『六角ろっかく自動車』の自動車で家族が事故死した男性の依頼を引き受け、同社に損害賠償を求める民事訴訟の準備を進める。


 対する『六角自動車』側には、今や同社の顧問弁護を担当する業界大手の法律事務所に勤める荒木田が弁護に立った。荒木田はこの裁判を出世のチャンスと考え、親友の凪島に頼み込んで、弁護を担当させてもらったのだ。

 案の定、針生と荒木田は法廷で激しくやり合い、結果は『六角自動車』の勝利。荒木田は大出世した。

「ウゥッ!」

 突然、荒木田は腹を押さえて苦しみ出した。

「大丈夫か!?」

「気持ち悪い!」

 荒木田は必死で吐き気と戦い、トイレに駆け込んだ。

「ハギャアッ!!」

 断末魔を凪島と針生は聞いた。

 

 菜奈 4点

 宇喜多 4点

 千代子 1点

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