第一話 白ワンピなんて絶対無理
日本煉獄 特別保護対象亡者 第67406291号
氏名 木梨蓮花
職業 販売員(アルバイト契約)
概要
職場からの帰路、川沿いの歩道を歩行中、背後から男に襲われる。河川敷の藪の中で複数回に渡る性的暴行を受けた後、首を絞められて死亡。
享年 二十三歳
死亡日時 二〇××年三月二二日 午後八時二十一分)
死因 絞死(□事故 □自殺 ■他殺 □その他)
罪過スクリーニング A判定
死後裁判 免除
暫定留置 日本煉獄 門前町・白百合館9号棟
備考 犯人は未確保(当決定に影響なし)
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手渡された紙を、上から下まで目を通し、それから下から上に読んだ。そして同じ動きを二回ほど繰り返した。
書かれていることの意味は、少なくとも、半分くらいはわかる。
バイトの帰り、暗い夜道で男に襲われて、性的暴行を受けて、首を絞められて、死んだ。他殺。つまり、殺された。まだたったの、二十三歳で。なんて酷い話だろう。
誰が?
木梨蓮花という女性が。
(――私が?)
同姓同名、同じ年齢の別人でなければ、木梨蓮花は多分自分のことである。
「……わたしが?」
蓮花は小さく口の中で頷いた。
しかし、その紙の上を幾度視線を滑らせても、それが自分のことだという現実感はなかった。
もしかしたら、これはこんなとても悪趣味な未来予言を読まされているのか。ただの、嫌がらせをされているのか。
あるいは、――あるいは。
書いてあることは、既に起きたことなのか。
「…………」
蓮花には、わからなかった。何もわからなかった。
怖くもなければ、辛くもなく、不快でもなく、不安でもなく。
この紙を見ることで、どんな感情も、震えることもなかった。それがこれから起こることであろうと、すでに起こったことであろうと、まるで、自分には関係ない出来事であるような。
そんな乾いた感慨の中で蓮花はその紙をテーブルの上に置いた。
ゆっくりと顔を上げた。
知らない部屋の中にいた。
(いい匂い)
目の前で、白い服を着た男が、ティーポットで茶を淹れている。若い男だ。知らない顔。でも、どこかで見たことがあるような気もしている。香りからしてお茶は多分紅茶。アールグレイだろうか。
男の背後には、大きな窓があった。
この部屋は二階か三階なのだろう。梢が揺れている。気持ちの良く晴れた空と、新緑の眩い木々。どこか遠くで、鳥の声がした。
美しい場所だ。ここは、どこだろう、と蓮花はぼんやりと思った。
「どうぞ」
声をかけられて視線を室内に戻した。真っ白のティーカップに、温かい紅茶。男は、優しく微笑んでいた。
「ここまではかなり長旅でしたし、お疲れでしょう」
「……はぁ」
どこかで見たことがあるかも、などと思ったが、やっぱり気のせいだ。自分に、こんな綺麗な男の知人がいるわけがない。そもそも蓮花には、同世代の男の知り合いはいない。
「すみません。お砂糖がご入用ですか? それともミルク?」
蓮花がカップに手をかけたまま、ぼんやりしているのに気づいて、男は言った。蓮花は、小さく首を横に振る。
そして恐る恐るカップを持ち上げ、一口飲んだ。温かい紅茶が体にじわりと染みた。
「おいしい、です」
「よかったです」
男は蓮花の顔を見て安心したように言った。
「それでは、木梨蓮花さん。早速ですが、さきほどの説明の続きをしましょう」
「え、あ、は、はい」
ぼんやりしていた蓮花には、さきほどが、いつのことなのかわからなかった。
男はテーブルに置かれた紙にそっと手を添えた。
「貴方はこちらの事実により、特別加護の対象となっています」
「はぁ」
「だからと言って、日々の活動に制限があるわけではありません。基本、自由に過ごしていただけます。どうかご安心ください」
蓮花は曖昧に頷いたが、男が何の話をしているのかわからなかった。薄ぼんやりとした不安の中で、もう一口紅茶を飲む。
男は白いファイルを開いて、中を確認しながら言った。
「さて、現在の貴方の状態の確認です。まず……死亡時に感じていられたであろう、肉体的な苦痛は残っていないと思われます。他に、心理的瑕疵、苦痛に関しても残存無しと、医官から報告を受けています」
「はあ」
「この点について、特に異論はありませんか?」
「……異論、って?」
「つまり、今どこか体に痛いところはありますか?」
蓮花は少し考えてから、首を横に振った。実際、肉体的な痛みはどこにも無かった。
「では息が苦しいとか、とても疲れているとか、そういうことは?」
再び、首を横に振る。聞かれて気づいたが、苦痛や痛み以前に、長年感じていた倦怠感や、重い肩こり、頭痛や腹痛などの、小さな不調まで消えていた。つまり、かなり調子が良い気がした。
男は、大丈夫そうですね、と頷いた。
「次に、今のお気持ちをお伺いします。この紙にある事実を確認して、やはり、悲しい、とか、未練だとか。……あるいはご家族と離れて寂しいとか、こんな凶行に合い悔しいとか、辛いとか。そうした感情が、耐え難い波として残ってはいませんか?」
蓮花は、思わず男の顔を見た。男は真面目な、こちらを慮る表情を浮かべて、蓮花の目を真っ直ぐに見ていた。
蓮花は視線を外し、あの紙を見た。そしてぽつりと言った。
「それは、つまり、自分が死んだから、悲しいか、ってことですか?」
なんて奇妙な質問だろう。そんなことを聞かれている自分も、こんな風に聞き返している自分も。
「そうです」
男は、穏やかな表情のまま言った。どうやら茶化しているわけではないらしい。
そうです。そうか。
蓮花は思った。
蓮花は死んだのだ。本当に死んだ。この紙によれば、殺されたのだ。
(……そっか)
率直な今の気持ちは、それだけだった。
良いも悪いもなく、悲しいも悔しいもなく、人生に未練があるわけでもなく、ただ、そうなのか、という感慨のみ。
(変なの)
蓮花は思った。
何となく、あっけらかんとした気分で。
それから、もう一度、紙を見た。
もしかしたら、まだ事実を受け入れられていないだけで、このあと悲しくなるのかも知れなかった。悔しくなったり、怖くなったり、寂しくなったりするのかも知れなかった。
だって、これが事実なら――蓮花は、知らない男に夜道でレイプされて殺されたのだ。
(ひどい……よね?)
そう、確認するように、頭の中で言葉にする。だが、胸の中には何もない。犯人である男に対した一片の憎しみすら、感じなかった。
「蓮花さん、大丈夫ですか?」
男が優しい声で言った。蓮花は自分がずっと黙っていたことに気づき、顔を上げた。
「あの、はい……自分でも、驚くくらい平気です」
「驚く必要はありません」
それが正常なんです、と、男は言った。
「入獄の際、貴方は煉獄の炎を浴びました。その影響です」
「テンゴクの炎、ですか?」
そう聞こえた。しかし男は首を横に振った。
「天国ではなく、煉獄です。いわゆる『煉獄の炎』というものです」
「はぁ」
蓮花は煉獄の字面を思い浮かべた。記憶違いじゃなければ、その字は『天国』よりは『地獄』に近いはずだ。しかし。
(煉獄って、何だっけ?)
そこが一体、何のためにある場所だったか。よく知らない。
そしてわからない分、地獄より恐ろしい場所のように感じた。
「つまり、私は、煉獄に行ったんですか?」
「行ったと言うか、います」
「え?」
男は小さく窓の方を振り返り、そして再び蓮花を見て言った。
「今、私たちがいるここが煉獄です」
「……ここが?」
蓮花は男の背後の、大きな窓の外を見た。
そこに広がっているのは、さっき見たのと寸分も変わらない、美しく穏やかな青い空と、優しい緑の木立だ。恐ろしい気配はどこにもなく、もちろん炎もどこにも見えない。
「煉獄は日本ではまだ知名度が低いんです。でも決して地獄のような場所ではないので安心してください」
男は言った。
「煉獄に入る際、亡者は皆、炎を浴びます。これは、魂を浄化するための炎です。罪に対する罰である地獄の炎とは、性質が違いますので苦痛はなく、炎と言っても、せいぜいお風呂くらいの温度の光とでもいいましょうか」
「はあ」
「この炎は、貴方たちの魂から悔恨や憎しみ、悲しみ、罪過とまではならないレベルの小さな執着など、そうした現世での悪縁に起因する感情を浄化します。同時に辛い記憶を和らげます。第三者の加害や、大きな人災、災害により理不尽な死を遂げた方には特に必要です」
蓮花は頷いた。それから、小さく聞いた。
「それは……何のために?」
「亡者の皆さん、つまり、蓮花さんに、煉獄で穏やかな時間を過ごしていただくためです」
「穏やかな時間、ですか?」
そうです、と、男は言った。
「それでも、全てを消してしまえるわけではありません。特に蓮花さんのような被害に遭われた方には、昇華し切れない感情が、強く残っていることはあります。後から、辛くなったら、すぐにご相談ください。すぐに医官が適切に対応いたします」
「はあ」
蓮花は頷いた。他に何も言えず、ただ頷くしかできなかった。男は穏やかな口調で続けた。
「今日から、この部屋があなたの居室となります」
蓮花は部屋を見渡した。
広めのワンルーム、というよりはホテルの一室のようだった。
大きなベッドと、戸棚、机。そして、そして小さな丸テーブルと椅子が二脚。
「部屋の中にあるものは、全てご自由にお使いください。また、ご入用のものがありましたら、遠慮なくお教えください。バスルームとトイレは、そちらのドアから。建物の一階には、大浴場もありますのでそちらもよろしければご利用ください。バスタオルと、フェイスタオルは、毎日交換が可能です。また当面の着替えは、蓮花さんに合わせたものが、クロゼットの中に入っていますので、自由に着てくださいね」
「は、はい」
男は、続ける。
「食事は原則一日三回、届きます。もし食事がお口に合わず、自炊を希望される場合は、共有キッチンがありますのでそちらでどうぞ。施設の説明は、明日以降に管理人からも直接あると思いますので、細かいことはそちらでご確認ください」
「は、はい。……あの」
「何か、気になる点がありますか?」
「えーと」
蓮花は戸惑っていた。
正直なところ、何もかも意味がわからなかった。
死んだのは理解した。死後の世界があるとは思っていなかったけど、こうしてあったならそれはそれでいい。そういうものだと飲み込もう。
でも今聞いている説明は、何不自由のない生活の説明は、不可解だ。
これでは、まるで天国のようである。
蓮花は死因こそ悲惨かもしれないが、それまでの自分の人生が天国に値するものだとはとても思えない。何の取り柄もない、平凡にすら届かない、功績なんてもちろんない、家族に迷惑をかけるだけの、ただの出来そこない。元引きこもりの、フリーターだ。
カソリックの女子校出身ではある。だが、神を信じたことは一度もない。むしろ無邪気な信仰心を持った友人をどこか蔑んでいさえした。
このような扱いに、値するような人生ではなかった。それは、間違いないのだ。
「私は、何故ここに?」
男は、僅かに目を見開いた。少し驚いたような表情だった。蓮花は慌てて付け加えた。
「あ、あの死んだからってのわかります。えーと、自分が死んだのは、もうわかってるんですけど」
それがわかったのはついさっきだし、正直まだこれがどうしようもない夢である可能性だってあるとは思うのだけど。でも今は、そういうことではなくて。
「……えーと、つまり、私はここで、何をしたらいいんですか?」
「何か、心配なことがありましたか?」
「いえ、そういうわけではなく」
男はテーブルの上で小さく手を組み、ゆっくりと落ち着いた声で言った。
「特に、何もしなくていいんですよ。強いていうなら、ゆっくり休んでください」
「つまり、この部屋でずっとずっと休んでいればいいんですか?」
「もちろん、外に出ても大丈夫ですよ」
男は、柔らかい笑顔を浮かべて言った。
「そして、好きなことをしてください」
「好きなこと、って?」
蓮花は眉根を寄せた。好きなことです、と男は優しく言った。
「煉獄には、基本的に何でもあります。天国と違って、現世に寄せて作られているので……各種の、娯楽が準備されています」
「娯楽?」
「はい。映画館だったり、図書館だったり、美術館だったり、劇場だったり。飲食店も、多くありますし、お酒も飲みすぎない程度なら、ご自由にどうぞ。散策するのにちょうど良い自然も、多く残っています。運動もできます。煉獄にいる亡者のみなさんには、どれも自由に楽しんでいただけるようになっています」
「はあ」
蓮花は、眉根を寄せたまま、唇を結んだ。
ますます意味がわからなかった。これじゃあ、まるでユートピアだ。そして蓮花の知るところでは、ユートピア的な始まりをする物語は、基本的にはディストピア物である。
安心するどころか、不安と猜疑心ばかりが胸の中で大きくなる。
(……怪しい)
男は、蓮花の表情に逆に焦っているようだった。
「蓮花さん、あの、ここは変なところではないですよ」
「でも、よくわかりません。何のためにそんなことをするんですか?」
「何のため、って言うのは?」
「だって、こんなホテルみたいな住まいや、三食を提供してもらえて、娯楽や楽しいことがいっぱい用意されていて……煉獄が、そういう場所だっていうのは、わかったんですけど……そもそも何でこんなことをされるのかがわからないと言うか」
男は柔らかい口調いで言った。
「それは、亡者のみなさんに心穏やかな時間を過ごしていただくためです」
「でも!」
蓮花は思わず、言った。
「ずっと、こんな楽しい天国みたいな場所にいられるっていう、虫の良い話、信じられるわけないじゃないですか」
蓮花の言葉に、男は両目を丸くした。そして、自分の口元に手を当てた。そして、言った。
「いえ、ずっとではありませんよ」
「え?」
「ちょっと待ってください」
男は顎に指を当てて何かを考えていた。
何かが噛み合ってない、と言うのはお互いに感じているようだった。それから男は「失礼します」と言いながら、手元のファイルをぱらぱらとめくった。そして「ああ」と、言った。
「……なるほど、失礼しました。貴方は通常の四倍の炎を浴びているんですね」
それは独り言のようだった。それから、こちらを見て申し訳なさそうに言った。
「蓮花さん、もしかして、医務室で医務官から受けた説明や、この部屋にくるまでの道中での私の説明は、覚えていないですか?」
「え?」
今度は、目を丸くするのは、蓮花の番だった。
少し考えてみたが、まったく覚えていなかった。蓮花の……言うなら「死後の」記憶は、おそらく、この部屋から始まっていた。この紙の上の文字と、そして、紅茶を淹れるこの人の横顔から。
「……覚えてません。多分、この部屋にくる前のことは、なにも」
男は、自分の胸に手を当てて言った。
「もしかして、私の名も、わからなかったりしますか?」
「あの、えっと……」
つまり、多分、名を聞いているのだろう。蓮花は泳ぐような視線を目の前の紙に落としたが、もちろんそこには何も書いていない。
「……ごめんなさい」
「いえ、いいんです。謝らないでください」
男は慌てて言ったが、その表情は少しだけ、ほんの少しだけ笑っていた。それから男は小さく咳払いをするように「失礼」と言った。
「つまり貴方はそもそも謎の場所で、謎の男から、延々と意味のわからない説明を受けていたということですね……すみません」
「ご、ごめんなさい」
「いえ、少し、違和感があったのに、そのまま話を進めてしまった私が悪いんです」
そう言いながら、男の表情は少し砕けていた。少しだけ、親近感が湧いた。
私は
「貴方の煉獄生活のサポートを担当する天人です」
「あづき、さん」
「はい。淡月でも、さん付けでも呼び易いように呼んでください。天人とは天国に属する神以外の人格全般を指しますが、この煉獄においては、役人とほぼ同じ意味です。ここにいる天人のほとんどは、亡者の皆さんの生活のサポートや、門の管理を行なっています」
淡月は続けた。
「そして、そもそも煉獄の前提です。煉獄とは一時待機場所です」
「一時待機、ですか?」
「はい。蓮花さんは、永遠にここにいるわけではありません。ただ、ここで数ヶ月から長くて二年ほど待機していただきます」
「なんの、待機ですか?」
不安が少しよぎった。もしかして、この紙に「免除」と書いてある裁判に、再び回されるんだろうか。蓮花の不安を感じたのか、淡月は、もう裁判はありません、と言った。
「煉獄で待機する亡者の先の道は二つあります。天国か、転生です」
「転生って言うのは、生まれ変わるって言うことですか?」
淡月はゆっくりと頷いた。
「そうです。転生とは、蓮花さんの魂が、蓮花さんの人格を全て忘れて、まっさらになって、輪廻の輪に帰ることです」
蓮花が、蓮花を忘れて、輪廻の輪に帰る。
本当に、蓮花が消える。それこそが、蓮花の思う「死」だった。
「どうして、待機が必要なんですか? その、例えば天国に行きたくない場合、すぐに転生はできないんでしょうか?」
「本当にすみません。天国行きの審査に時間がかかるって言うわけでもないんですよ、実際」
「……じゃあ」
「ぶっちゃけ話になっちゃうんですけどね」
淡月は少し気安くなった口調で言った。
「亡者が増えすぎて、これは、主に日本の人口が増えたからなんですけど……天国行きにしろ転生にしろ、死後裁判後に即進めるにしても、事務処理がパンクしてしまいまして」
「はぁ。……事務処理が」
「そうなんです。こちらも、まあいわば役所みたいなものですから。一度に処理できる数には限界がありまして……。あとは、天門も転生門も、一度に通れる人数に制限があるものですから。地獄は無限に拡張が可能だし、死後裁判の場合は、途中の待合の時間を長めに取ることで何とか回せるんですけども」
「はあ」
「裁判が免除になるか、無事無罪となった人たちを、そのままそちらで待機というわけにもいかなくてですね。日本ではおよそ百年前から、煉獄で一時待機していただくことになったんです」
「なる、ほど」
「本来ならすぐに次に行けるところを、こちらの事情でお待たせするのです。そういうわけで、煉獄における衣食住は、天国が保証いたします。自由に過ごしていただいて大丈夫です。これからしばらく煉獄で過ごす時間は、蓮花さんの人生の、そして人格のロスタイムのようなものです」
「ロスタイムって、サッカーの?」
そうです、と淡月は頷いた。
「十年前に担当していた方に教えてもらったんですけど、こう言うと皆さんすぐに納得されるので」
「まあ……確かに」
わかりやすくはある。人生の本番は終わり、数ヶ月から数年のロスタイム。
罪人は煉獄には入れません、と淡月は言った。
「ここは安全で、安心して過ごしていただける場所です。短い時間ではありますが、何の心配もなく心穏やかに過ごして頂けるように私も最大限サポートします。状況は、わかっていただけましたか?」
「はい」
全部、理解できたかはわからない。だけど、蓮花は頷いた。
「詳しくは明日、ご案内しますけど、簡単にご紹介します」
そう言って淡月は煉獄の地図を取り出した。それは可愛いイラスト調で描かれた、観光案内所に置かれているマップのようだった。
「煉獄は、島みたいなものだと考えていただくのが、一番わかりやすいかと思います」
「はあ」
確かに地図には大きな島のように、境界がくっきりと書かれていた。
「出入り口は二箇所で、東西にある門がそれにあたります」
そして淡月は、西側の門を指差した。
「こちらが天門……天国へつながる門と、転生門へと繋がっています。今私たちがいるのは、この天門に程近い、門前町というところです」
そして淡月は、地図の上で指を滑らせて反対側の、東の門を指差した。そこには、炎の絵も描かれている。
「こちらの門は、通称三界門と呼ばれています。蓮花さんはこちらから来て、ここでこの煉獄の炎を浴びました」
「……なるほど」
「つまり、こちらが煉獄の入り口ということになります。……言うまでもないことですが、こちらから現世に戻ることはできません。また、注意していただきたいのが、地獄への門もこちらから繋がっていることです」
「はい……」
「こちらの門を守る役人には、地獄の者もいます。特に危険はないですが、天人に比べると荒っぽい方が多いですので、必要がなければ近づかない方がいいと思います」
「危険はないんですよね?」
「危険はないですが、傷が開いてしまう可能性が否定できないので、できれば気をつけてほしいです」
蓮花は小さく頷いた。よくわからないけど、怖そうだ。それに現世に戻りたい、という気持ちは一ミリもなかった。東の門に近づくことはないだろう。
淡月は再び西門の右下のあたりを指差した。
「門前町は、基本的には亡者の方の住まう町です。そしてここは白百合館という、特別保護対象の亡者が住まう館舎です。蓮花さんがいるのは9号棟ですね。ここ以外にも煉獄の中には色々な館舎がありますが、作りは大体、似たようなものです」
「煉獄には、何人ぐらいの人……亡者が住んでるんですか?」
「大体、同時に十万から十五万人弱の方が住んでいます」
蓮花は目を丸くした。
「そんなに?」
「そうです。大体、年間で亡くなる方の二割弱くらいの人数ですね」
「なるほど……」
それは多いのだか少ないのか、蓮花にはわからなかった。
「残りの人は、どうなるんですか?」
「多くの人には裁判がありますので、それで時間がかかる人が居ます。裁判後には、地獄にいくケースもありますし、地獄ほどではなくともそれ以外の道に落ちたのち、転生に回るケース。直接天国にいく人が、ほんの一握りほど。残りの方はほぼ煉獄に来て、しばらく待機したのち、転生を待つんです」
蓮花は頷いた。頷くしかできなかった。
窓の外から、ピーッと長く鳴く、鳥の声がした。
さっきまでは真っ青だった空の色が、ゆっくりと暮れ始めている。
淡月は、広げていた地図を畳んで言った。
「今日は、そろそろお暇します。お疲れでしょうし、続きは明日にしましょう。もし体調に問題がなければ、外をご案内します」
「はい」
蓮花は、頷いた。
「こちらをお持ちください」
淡月はそう言って、小さな四角く黒い板を差し出した。手にした瞬間、それが何だかわかった。スマートフォンだった。
「この端末は蓮花さんが自由にご利用いただいて大丈夫です。使い方はわかりますか?」
「……はい、多分」
中に入っているアプリの数は少ないが、蓮花が生前使っていたものとほぼ同じタイプだった。
それはよかった、と淡月は安心したように言った。
「スマホが苦手な方、けっこういらっしゃいますので」
「え、そうなんですか?」
「はい。ご高齢の方が多いですので」
「なるほど」
そりゃそうか。日本の平均寿命は世界一で、死ぬ人は大体が高齢者なのだから。
淡月は通話アプリの使い方を一通り説明した。普通の電話と何も変わりがないようだった。
「お困りのことがあったら、いつでも遠慮なく連絡してください」
「はい」
そうは言われても、しないだろうな、と蓮花は思った。電話は苦手だし、テキストメッセージは苦手を通り越して、トラウマだった。
そんなことは知らないだろう淡月は、柔らかい表情で言った。
「私は普段は天国門庁舎におります。この裏手にある、緑の屋根の建物です。歩いてもすぐなので、何かあったらすぐに伺います」
男は優しく、大丈夫ですよ、と言った。
「何も心配する必要はありません。今日はゆっくり休んでください」
礼を言うと、淡月は、笑顔を見せ、出て行った。
扉が閉まると、部屋の中は静寂が満ちた。
蓮花はベッドの上に座り、それから仰向けに倒れた。シミひとつない真っ白な天井。部屋の中は徐々に薄闇に包まれ始めている。
随分と、遠くまで来た。来てしまった。
蓮花はもう帰れない場所のことを、もう会えない人のことを考えた。
蓮花が死んで、泣いた人はいるだろうか。
母のことを考え、父のことを考え、そして姉のことを考えた。
だが、思考は形を造らず、靄のまま消えてしまった。何度考えようとしても、するすると逃げるように消えてしまう。
蓮花は自分が家族のことをどう思っていたのか、思い出そうとしたけれど、やはりそれも断片的な感情だけで、一つに結ぶことはできなかった。
すっかり暗くなった部屋で、蓮花は途方に暮れる。
(へんなの)
蓮花は死んだのに。
死んでしまったと言うのに。
やっぱり、どうやっても、涙の一つ浮かぶ気配はなかった。
◯
何の夢も見なかった。
ただ、こんこんと眠った。
もうずっとこのまま、穏やかな水底のような場所で、沈んでいられたらと……多分、思っていた。
眠りの底はひたすら優しく、静かで、そしてどこか懐かしい心地よさで満ちていた。
その、穏やかな水の中から、そっと掬い上げられるようにして、蓮花は、とても自然に目を開いた。
蓮花は静かに瞬きをした。
思考が、意識に追いつかない。
部屋の中は薄暗く、手探りでスマホを探す。
明るい画面を目を細めて見る。そこには5時3分と書いてある。
「えっ?」
慌ててがばりと起き上がる。
それから、蓮花は一瞬呆けた。
ここは、どこ?
思考が、停止し、そして、ゆっくりと動き出す。
「……ああ」
(そうだ)
蓮花は、死んだのだった。
もうバイトはないのだ。
そして、夕方に起きようと、蓮花を叱責する人はいない。
目を擦り、再び画面を見る。多分今は、朝の5時だ。昨夜、そのまま寝落ちしてしまったようだった。布団も被らずに、着替えもせずに、ベッドの上に倒れていた。
「………」
このまま布団に潜って、二度寝をしようかと思ったが、たっぷり寝たからか、目はすっかりと冴えていた。仕方がなく起き上がり、カーテンを開く。庭はまだ暗いが、片側の空が薄く明るくなってきている。
窓を細く開くと、ひんやりとした夜の名残が、蓮花の頬を撫でた。
外は静かで、微かな葉擦れの音以外は何も聞こえなかった。
蓮花は窓辺に座り、しばらく外を見ていた。ゆっくりと白んでいく空は、現世と同じだ。
ここ数年は昼夜が逆転した生活で、日が登り切った朝にようやく眠るという有様だった。この時間に、こんな清涼な気持ちでいるのが不思議だった。
そうして、ぼんやりと外を見ていると、いつの間にかすっかりと明るくなっていた。
窓際に座って見ていると、庭がきれいな庭園になっているのがわかった。花壇には、美しい花々が溢れるように咲いている。
やっぱり、天国みたい、と蓮花は思った。
蓮花は、今一度、今いる部屋を見回した。汚れ一つない漆喰の白い壁。無垢のフローリングの床は、裸足の足に心地よい。
家具はどれもシックな色合いの木製で、アンティーク調のデザインだが、新品のように綺麗だった。
大きなベッドと丸テーブルに椅子が二つ。角に小さな棚が置いてあり、その隣に書き物用の机が一つ。
入り口の近くにもうひとつ扉があり、中は広いバスルームになっていた。トイレと洗面台があり、その奥にガラス戸に仕切られた浴室がある。天窓から光が入り、明るい。
蓮花は部屋に戻り、戸棚を開いてみた。一番上の引き戸の中には、昨日、淡月が使った茶器が収まっている。その下の引き戸を開けると、大型の本が数冊入っていた。元書店員としては、気になって一冊ずつ取り出す。どれも写真やイラストが多く使われている。
『煉獄の大自然〜ハイキングガイド』
『煉獄の植物と動物』
『天国と地獄と転生の違い 〜 20XX年版』
『煉獄生活ガイドブック20XX〜快適な亡者生活のために〜』
「……ふうん」
蓮花は一番大型の本、煉獄生活ガイドブックを手に取り開いた。
冒頭に見開きで、大きくカラフルな煉獄の地図が載っている。昨日、淡月が見せてくれたものと似ていたが、もっと描き込みが多かった。わかりやすいイラストを交えながら、煉獄の全体が簡単に解説されている。昨日淡月から説明を受けた、西の天門と東の三界門。それから、北の大公園と南の大庭園。体育館に、図書館、美術館は西洋、東洋、現代アートでそれぞれ三箇所あるらしい。科学博物館に、常世博物館、それからところどころに飲食街や、カフェ街、有名なスイーツショップ、それからショッピングストリートなど書いてあった。
淡月は、煉獄は島みたいなものだと言っていた。この地図のぐるりと周縁の境界線の外側は空の絵になっている。まるで空に浮く島だ。下の方に小さな文字で「煉獄の広さはおよそ東京23区の半分」と書いてある。それが広いのか狭いのか、蓮花にはいまいちピンと来ない。
その時、トントン――と、ノックの音がした。
蓮花は顔を上げた。
時計を見ると、ちょうど6時を回ったところだった。
(……誰?)
淡月は今日もまた来ると言っていたけど、いくら何でもこんなに早い時間に来るだろうか。まだ十分に事態を理解できていないのに、淡月以外の人に会うのは少し怖い。
躊躇っていると、再びトントンと鳴った。蓮花はおそるおそる扉の前まで行き耳を戸に付けて外の様子を伺った。それから、ドアスコープを覗いてみたが人影は見えない。だが、何か、光るものが目に入った。
「……?」
細く扉を開けると、そこには木のワゴンが置かれていた。そしてワゴンの上には、取手の付いた大きな銀色のドームが置いてあり、窓から差し込む光を浴びてぴかりと光っていた。その横にはナプキンとフォークやナイフなどのカトラリーが並んでいる。
これは、もしや――。
(朝ごはん?)
廊下に出て、あたりを見回しても人影はない。他にワゴンが置いてある部屋もない。ここだけだ。これは、本当に自分のものだろうか、と一瞬ためらったものの、ナプキンの下に挟んである小さなカードに、手書きで「木梨蓮花さま」と書いてあるのを、見つけた。
ワゴンを小さく引くとするすると動いたので、蓮花はそれをそのまま部屋に運び入れた。
取手の付いた銀製のドームに触れると、まだほのかに温かい。そっと持ち上げると、予想通り、中には朝食が入っていた。ベーコンの匂いが部屋の中に広がった。
(美味しそう)
長らく、いや、多分、死んでからは、一度も食事を取っていない。
死んだのだから、食べなくても死なないだろう、とは思う。だけど、美味しそうな食事を目の前にすると、現金な腹がぐるぐると鳴った。
蓮花は、テーブルの上に食事を並べた。
小さなバスケットに、クロワッサンと厚切りのトーストが一枚。大皿には卵二つのベーコンエッグと、ベビーリーフのサラダ。それからヨーグルトに、蜂蜜を垂らしたもの。ポットには温かいミルクコーヒーがたっぷり入っていた。そして、ワゴンの下の段にはジャムの瓶が二つ(夏みかんのマーマレードと、ごろごろと果肉が残ったブルーベリー)と、……多分、おかわり用だろうか。同じセットのパンが入ったバスケットが置いてあった。
衣食住は、天国が保証していると淡月が言っていた。天国から与えられた食事である。蓮花は、自分の学生時代の態度を思い出し、どこか申し訳なさと、居心地の悪さを感じながら、座って小さく手を合わせた。
(ありがとう、ございます……?)
まず手に取ったのはクロワッサンだ。まだ温かかった。齧るとサクッと良い音がして、ほのかな湯気が立つ。バターの香り。美味しい、と素直に思った。さすがは正真正銘の「天国のパン」だ。あっという間に平らげた。それから、ベーコンエッグ。ベーコンはかなり厚くて美味しくて、濃い色の卵は、ちょうど好みの火の通り加減だった。本当に、ホテルの朝ごはんのようだ。
それから蓮花は、厚切りのトーストを手に取った。たっぷりブルーベリージャムを乗せて頬張る。その時、果肉がぽろっと一粒、蓮花の着ているワンピースに落ちた。それは蓮花の腹の上からスカートまでコロコロと、濃紺のクレヨンの線を引くように歪に転がって、ぽろりと床に落ちた。
「しまった……」
真っ白な服に、ブルーベリーの跡は目立つ。
蓮花は慌ててワンピースを脱いでバスルームに飛び込んだ。
そして洗面台の蛇口を開いて水に晒しながらその汚れを擦った。ハンドソープを垂らして、擦ってみた。洗濯の知識なんて、家のドラム式洗濯機にジェルボールと汚れ物をつっこみ、洗濯・乾燥の全自動ボタンを押す、以上。で、その他のことは何も知らないものだから、これが正しいのかどうかわからない。
結局、白い生地には、うっすらとした赤紫の線が残ってしまった。
蓮花はがっくりと肩を落とした。
これは蓮花の服ではない。いわば、借り物の服だ。それを汚すのもありえないし、染み一つ落とせないのもどうかと思うし、そもそも良い大人がジャムをこぼすこと自体がありえない。
(死んでもなお、無能でどんくさい)
そんな言葉が、脳裏に自然に湧いた。
「はあ」
蓮花は、ため息を吐いた。
食欲はすっかり失せてしまって、蓮花は半分濡れた服を椅子に掛けて、ベッドに仰向けに倒れた。
もう何もやる気が失せた。このまま、眠ってしまいたい。何をしても過ごしていいなら、別にゴロゴロしてても文句は言われない筈だ。
(………)
だが、確か淡月は、今日は外の世界を見せると言っていた。
本心ではそんなところ、興味はない。死んだからとかは関係ない。蓮花は外に出るのが好きじゃない。でも一方で「今日は引きこもるからこないでください」と、連絡ができるほど、肝が座っているわけでもない。
わざわざ時間を割いてくれるのに、こっちのわがまま……と言うか、不貞腐れに付き合わせることは、きっと先方の仕事にも支障が出るだろう。
(……着替えよう)
気を取り直して、着替えるしかない。
いくらなんでも今の姿……つまり、肌着とパンツ姿で、彼を迎え入れるわけにはいかない。これはこれできっと何かしらの罪になるだろう。こんなことで、やっぱり地獄行きとかなるのは馬鹿馬鹿しすぎる。それにおそらく地獄行きなんかになったら……。
(永遠に消えられない)
衣食住は天国が保証してくれる。そして、着替えは、クロゼットに入っていると淡月は言っていた。
(そもそも)
白い服なんか着ていたからいけないのだ、と蓮花はふと思った。
もっと早く着替えていたら、よかっただけじゃないか。それに気づかなかった自分も恨めしい。
蓮花はため息を吐き、クロゼットの扉を開いた。
◯
天人・淡月は、朝から自分の机に小さく肘を付き、目の前に積み上がる書類を一枚一枚、処理していた。現世ではIT化だ、DXだなんだと言われ始めて早数十年経っているが、常世の書類は保管年数の問題から紙とインクが基本である。つまり、ペーパーワークは基本的には全て紙のままだ。パソコンを使うことは有るが、補助的な役割にすぎない。亡者の数が爆発的に増えた今、仕事のやり方も幾らかは変わっても良いのではないかと思うが、常世の業務改革は、早々簡単にはいかない。
紙にインクで書くのは、石に刻むよりはるかに楽。
それが古くからいる天人たちの総意である。
淡月は、天人たちの中ではかなり若い方なので、変えていけるところは変えていきたいと思ってはいるタイプである。だが、ただでさえ煉獄はいつでも人手不足なものだから、改革に掛ける時間などないのである。
そして、やってもやっても終わらない仕事ばかりが積み上がるのだ。
もちろん、淡月ひとりがそうなのではなく、最近は部署全員が休日もなく出ずっぱりである。
労働基準法を守らず激務により従業員の生活や心身の健康を害した、いわゆるブラック企業の経営者が落ちる地獄は、昨今大変な賑わいを見せているらしいが、同じ原則は、常世運営側には当てはまらない。少なくとも天国側に関しては。そもそも基本的に慈悲深き神様(笑)は天人(コマ)の事情のことなど、考えないものである。
と、まあ、愚痴を言っても始まらないのだが。
ここ数年、世界で猛威を奮っている感染症の影響で死者は世界的にも増えていた。病によって直接命を落とした亡者は多いが、病が齎した様々な社会への影響による亡者も無視できない数がいた。
その中には、従来の常世法をそのまま適応できないような被害や、加害が存在した。その処理が複雑化していることが、ここ数年の激務の理由でもあった。
それでも煉獄全体で見ればまだ余裕があるし、道中が既に密である死後裁判ルートに比べれば遥かにマシなのだが、その分、こちらは人材の割り当てが少ないので、結局天人ひとりひとりの負担は大きいのである。
「ねえ、淡月」
名を呼ばれて顔を上げると、隣の席の
「あそこでさっきから鳴ってるの、淡月のスマホじゃない?」
杏花が指さした先にはコピー機があり、その横でスマホが控えめに震えていた。ポケットに触れるとそこにあるはずのスマホがない。
「すみません」
さっき博さん(白薔薇館2号館)と、朝ごはんのジャムの味についての電話を受けた後に、あそこに置きっぱなしにしてしまったのだ。
淡月は時計をチラリと見た。まだ朝の7時前だ。他に、この時間にかけてくるとすれば、浩子さん(白椿館1号棟)からの悪夢の話か、それとも晴臣さん(白躑躅館2号棟)が、また枕が合わなかったのか。
そうした細々としたリクエストを受けるのも、天人の役目なのである。特に淡月の部署は、特別保護プログラム下の少し精神的に不安定さを残す亡者が多いから、こうした電話は少なくない。
スマホを手に取ると、それは蓮花だった。
咄嗟に、嫌な予感がした。
「おはようございます、蓮花さん。どうされましたか」
淡月は腹の底から朗らかな声を出して言った。
電話の向こうの蓮花の声はか細く、のっけから三回、すみません、と言った。どうやら、かなり動揺しているようだった。
「蓮花さん、大丈夫ですか?」
本当に心配になって言った。蓮花は、今、淡月が担当している亡者の中では、最も注意が必要な存在だった。
木梨蓮花は、あまりに多くの傷を抱えたまま死んだ。
その傷とは、最終的に彼女を死に至らしめた、あの凶行から齎された傷だけではなかった。
蓮花は家庭環境にも、長年にわたる大きな課題を抱えていた。
一見すれば何不自由ない、絵に描いたような、完璧な家庭。
一流企業に勤める父親と、実家が裕福な優しい専業主婦の母。
数十年前なら、理想的な家だと教科書にまで載っていたような家庭に、蓮花の居場所は無かった。
何もかもを完璧にこなす姉と、幼い頃から徹底的に比較され、自尊心を折られ続けた蓮花は、中学校に上がると学校に馴染むことができず、自室に引きこもるようになった。その間、家族のサポートを受けるどころか、ほぼずっと母と姉から存在を蔑まれて生きてきた。そして父はそんな家庭内のことを顧みることは、ほとんどなかった。
今回の事件の後、蓮花の家族は事件のことを大変憤った。
それは、蓮花を思ってのことではなかった。ファッション業界で華々しい活躍を遂げていた彼女の姉の将来の、汚点になると言う憤りだった。
蓮花のことは徹底的に伏せ、葬儀も最低限だった。数少ない蓮花の友人らにもそのことは伝えられず、満足に弔われることもなかった。
二十数年の短い人生で、木梨蓮花の内側に澱むように溜まり続けた悲しみ、生きづらさ、声にできない憤りは、おそらくはその矛先を自分に向けることもあっただろう。
常に叱責に怯えながらも何とか生きようと、社会と繋がりを持とうと、自分の唯一の拠り所だった書店で働き始めた矢先の、この凶行だ。
通常の四倍の炎は、本人の自我すら消してしまう可能性があるほど強い。よほどのことでなければ行われない。
炎で蓮花から消された悲しみは相当の量である。
だから淡月は、蓮花のことは注意して見ていかなければいけないと思っている。一見、普通に見えても、平気に見えても、後々に生前の傷によって心が蝕まれていく亡者は、少なくないからだ。
蓮花は切羽詰まった声で言った。
「淡月さん、……助けてください」
淡月は慌てた。机に積み上がった書類のことなどすっかり頭から消え、急いで上着を羽織る。
「今から行きます。何がありましたか?」
すると、さらに慌てたような声を蓮花が上げた。
「いえ、来なくていいです!」
「え?」
「違うんです、あの」
蓮花は、涙を一回しゃくり上げた。そして、絞り出すような声で言った。
「わたし、わたし……」
「はい」
「毎日、白いワンピースを着るなんて絶対無理です!」
電話口の向こうで、蓮花は思いのほか大きな声で言った。
淡月の後ろで、杏花が吹き出したのが聞こえた。
(つづく)
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