わたしの最後のワードローブ
十月
プロローグ あれは、旅立ちの回想
風は光っていた。春草はどこまでもやわらかく波打っていた。ゆっくりと茜に染まる、途方に暮れるほど高い空。春楡は枝を揺らし、葉擦れの音を立てた。君の長い髪は、淡い光を浴び輝いていた。
「いやだ」と、僕は言った。
それは、自分でも驚くほど小さな声だった。喉がぎゅっと締まり、それ以上の言葉を出せなかった。これ以上口を開けば、そのままここに崩れ落ちてしまいそうだ。そして、僕は、そんな自分に驚いていた。ずっと、ずっと、自分は強いのだと思っていたから。だけど、その時、僕は、弱くて無力てちっぽけな、小鳥にすら及ばない何かだった。
君は、何も言わなかった。僕のことを見ることもなかった。
僕は、君の特別である、と思いたかった。自分の親にも、あの男にも告げず、ただ僕にだけこの秘密を打ち明けた君。
だけど、君の目は、もう僕のことも見ていない。
あの空すら通り過ぎた果ての、僕の知らない、知り得ない、どこか遠くを見つめていた。
その横顔は美しくて、強くて、そしてやっぱり悲しかった。
僕は、再び声を絞り出して言った。
「絶対に、いやだ」
いつのまにか、両目から温かい涙が溢れて、頬を伝いボロボロと顎先から溢れる。僕は、泣いていた。どうしようもなく、泣いていた。
僕は、困惑した。一体、僕は、どうしてしまったんだろう。
誰かの前で涙したことなんて、一度もないのに。子供でもないのに、容易く泣く人たちのことを、心の中で、特には態度に出して、散々蔑んできたというのに。涙ぐらい、自分の意志で止められると思っていたのに。
この涙は、どうやっても止めることはできなかった。いくらでも両目の端から溢れてきた。目が熱くて溶けてしまいそうだ。
僕が泣いていることに気づいた君は、多分、小さく、笑った。
声を出さずに唇の端を小さく吊り上げて、目を少しだけ細めて。
君は、笑っていた。少なくとも僕にはそう見えた。
「大丈夫だよ」
君はそう言って、僕の顔を覗き込んだ。
「また、会えるから」
君のスカートが地面に咲いた白いクロッカスをふわりと覆った。そうして君の指は、僕の涙を拭った。ぼやけた視界が、鮮明になる。君は夕暮れを背中に浴びて、顔は陰って良く見えなかった。
そして僕は、唐突に、あるいは、ようやく思い至った。
これが、さよならの風景なのだと。
(いやだ)
まだ準備ができていなかった。耐えられなかった。
体の内側がくちゃくちゃに握り潰されて、絶対に、絶対に嫌なのに、もう失うことが確定している絶望。
泣いていては声に出せない。泣いていては伝わらない。
僕は嗚咽を噛み殺して、やっと途切れ途切れに言った。
「……行か、ないで」
こんな無様な懇願に意味がないことはわかっていた。君が一度決めたことを覆さないことは知っていた。もちろん、どんな覚悟を持ってこの旅立ちを決めたのかも。
それでも僕は言わずにはいられなかった。
絶対に嫌だ。絶対にやめて。
絶対に、どこにも行かないで――。
君は、僕を宥めるように優しく言った。
「帰ってくるよ」
僕は首を横に振った。
「ぜったいに嘘。帰ってこない」
僕は知っている。君は帰ってこない。
僕は知っている。たとえ帰ってきたとしても、その時の君は、今の君ではない。もう別の人だ。
そして、君がそれを知らないはずはない。
「絶対に帰ってくるよ」
君はもう一度、言った。あんなにも傷ついていたにも関わらず。
おそれを知らない子供のような無邪気な声で、はっきりと言った。
「また、会おうね」
君は僕の髪に、いつものように小さく口づけた。
僕は、体の内側に炎が灯るのを感じた。微かなマッチのような付け火は体の内側に、燃え広がっていく。
(嘘つき)
僕は恨む。
君を追い込んだ全てを。これまで君を裏切った全てを。今なお君を手放そうとする全てを。そうして君の背中を押す、全ての存在を。
そして、僕は恨む。
僕がまだ子供で、無力で、君が決めた旅立ちを、止める力がないことを。
僕が自分の心に素直になって、自分の力の赴くままに、今ここで、君のことを切り裂いて、食ってしまえないことを。
(そうだよ)
そうしてバケモノの本分と本能のままに、振る舞うことができたのなら。君を失わないで済むのに。君を手に入れられるのに。
(僕は……)
僕は、恨んだ。
僕の心に余計なものを混ぜて、僕からその力を奪った君を恨んだ。
こんな言い訳をいくらでも並べ連ねて、力を出すことができない、勇気を出すことができない、意気地のない自分を恨んだ。
そして、やっぱり。
そんな僕の気持ちを本当は全部わかっていて、なお、僕のことを置いていく君のことを。
僕は恨んだ。そして、憎んだ。
それこそ心の底から、君と二度と会えなくなってからずっと。
そして、そう。
僕は――、今でも君のことを恨み続けている。
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