荒れた手の優しさ

彩霞

第1話 原さんの手

 二〇二〇年、俺は志望高校に受かった。それは良かったけれど、三年間の高校生活は、中学生のときに想像していたものとはだいぶ違っていた。


 入学式は、新型コロナウイルスの感染予防のためになくなったし、四月からの授業も同じ理由で休み。毎日、毎日、「いつになったら学校に行けるんだろう」という不安を抱えながら生活をしていた。


 その後、新しいウイルスのことが少しずつ分かってきて、アルコール消毒の対策をしたり、ワクチンが出てきたり、不織布マスクの値段が安定して来ると、ようやく学校に行けるようにはなった。


 でも、「学校に行けるようになった」というだけで、元には戻らない。学校ならではの行事は全てなくなり、部活もままならず、先輩たちは大会や試合が全て中止になったことで悔し涙を流していた。


 俺たち一年生は、そういう痛みは比較的小さかったけれど、最初からマスク生活だった故の弊害はある。俺のなかでは、クラスのメンバーの顔が目元しか分からず、覚えていないことがそれに当たる。特にあまり絡まない同級生は、目から下の顔立ちがどうなっていたのか知らないままだ。


 新型コロナに振り回された、俺たちの高校生活。時が過ぎ、今年の春、俺たちは卒業してしまった。でも、ウイルスは俺たちのような「卒業」という区切りはなく、突然消えてくれたりはしなくて、マスク生活は三年経った今も続いている。


天沢あまさわ~!」


 桜が咲く大学の構内を歩いていたとき、俺は自分の名が後ろから呼ばれるのを聞いた。振り返ると、入学して初めでできた友人、松岡理玖りくが手を振り、軽い足取りでこちらに向かっているのが目に入る。


「はよー!」


 彼が俺の隣に並ぶと、明るい声で挨拶をした。


「おはよ、松岡」


 朝から元気な奴だなぁと歩きながら思っていると、「なあ、なあ、天沢。あのさ——」と言い、急に小さい声でぼそぼそと何かを言う。だが周りは学生たちの足音でうるさいし、マスク越しでよく聞こえないので「何?」と聞き返すと、俺の肩に腕を回して耳元でもう一度言った。


「俺と同じ、心理学基礎の授業を取ってる、原ちゃんって子知らない?」

「原さん?」


 俺が眉間に皴を寄せて聞き返すと、松岡は回した腕を外し「原琴美ことみちゃん。噂によると、天沢と同じ高校出身って聞いたから、どんな子かなぁ~と思って」と言う。


「はあ、確かに同じだけど、よく分かったな」


 全国各地から学生が来ているというのに、よく俺と原さんが同じ学校出身だと分かったなと感心する。とはいえ、どうせ大学のクラスでやった、自己紹介の内容が広まったのだとは思うが。


「これが大学生の情報網だぜ」


 松岡は、ポケットからスマホを出して自信満々で言う。目から、「キラーン」という光が放ってきそうな輝かしさだ。しかし俺はその自信をくじくように、「個人情報の漏洩ろうえいだ」とツッコんだ。


「冷たい……」


 今度はあからさまにしょぼーんとする。松岡をいじるのは面白い。


「まあ、いいけどさ。それで、原さんが気になるってどういうこと?」

 俺が半笑いして聞く。すると松岡は少し困ったような顔をして言った。

「気になるのは、気になるんだけど……手がね」

「手?」


 聞き返した俺に、松岡はスマホを再びポケットにしまい直し、両方の手のひらを出して見せた。


「すっごい荒れてんの。何をどうしたらそうなるの、っていう感じに荒れてんのさ」


 そういう松岡の手はつるっつるである。俺の母さんが見たら羨みそうだ。


「そもそも皮膚が弱いとか……。あとは家事とか、コロナ対策のアルコール消毒で荒れたとかじゃない?」

「高校のときはどうだった?」


 聞かれて、俺は顎に手を当てつつ考えてみる。聞かれてみるとそうだったような気がするが、あまりよく覚えていない。


「原さんとは高三のとき同じクラスだったけど……、特に親しくもなかったからよく分からない」

「そっかー。でも、分かる」


 松岡は腕を組んでうん、うんと頷く。


「同じクラスでも、なんか遠い子っているよなぁ。『こんな感じの子』というのは何となく分かるけどさー、それはクラスでの過ごし方で『そういうのなのかな?』って思っているだけで、本当は良く知らないんだよな。俺らなんかはマスク生活で、顔もよく知らん奴もいたし」


 松岡の指摘に俺は頷いた。


「それな。でも、何で原さんの手?」

「あー、それがさぁ。先週の金曜日、うっかり教科書を忘れちゃって。一緒に受けてる戸村が寝坊したとかで、遅れて来なくてさ」

「教科書を忘れた松岡も松岡だけど、四月の初っ端から寝坊で遅刻とか、……やるな、戸村」


 それに対し、松岡は複雑な表情を浮かべて「あははー」と笑う。


「それでしょーがないから、近くに座ってた原ちゃんに懇願して、教科書見せてもらったんだよ。そのときに見た手が痛々しくて。ちょっと気になっちゃったって話」

「……………それだけ?」

「え……、それだけだけど?」

「ふーん……」


 と、俺は言ってから、ちょっとだけ悪戯心いたずらごころが芽生えた。


「好きなの?」


 すると、松岡は「わー! やめろっ! 俺はただ心配しただけっ!」と俺の髪をぐしゃぐしゃと引っ掻き回す。恥ずかしかったのかもしれない。


「ごめん、ごめん! からかって悪かったよ」


 松岡とは会ってまだ数週間しか過ごしていないが、一緒にいて気が楽だ。

 明るい性格だから、俺以外にも友人がいていつも楽しくしているし、気さくだ。

 ただ一つよく分からないのは、一人でいる奴にも平気で声を掛けところ。相手は好んで一人でいるのかもしれないから放っておけばいいのに、天然なのか、性分なのか、時折そういう光景を見かける。


(手が荒れてる、か……)


 俺は春の空を見上げて、心の中で呟く。

〝原さんの手〟のことなど何とも思っていなかったはずだが、松岡が言ったせいで、散りゆく桜がはらはらと降り積もるがごとく、俺の心の片隅にそっと置かれてしまったのだった。

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