第54話 彼の手のひら

「……そろそろ、タクシーが来たっぽいな」

 呼んだ車の到着を確認したらしく、手にしていたスマホ画面をちらりと見て優一が言った。

「行ける?」

「はい」

 重いガラス扉を押して建物の外へと足を踏み出すのは、若干の気構えが必要なほど、冬の嵐が激しい。


 風のうなる音、雨が地表を叩く音。

 槙が傘をさして、そこにふたりで身を隠したが、強い風に傘があおられて、あまり役に立たない。それでも何とか、白色のタクシーの車内に乗り込んだ。


 運転手氏に目的地の住所を告げたあと、「近くて申し訳ないですが」という言葉を優一はつけ加えた。

 車内のラジオから、低い音量に絞ったニュースが流れてきて、大雨洪水警報だの、交通網の混乱だのを報じている。


「学校帰りにここへ来たんなら、槙、食事は?」

「食べてないです」

「ああ……そうか。それじゃ、腹が減っただろう?」

「正直に言えば、かなり腹ペコです」

「だよなあ」

 優一は、そこで、ふう、と息をついた。


「蓮見さんは?」

「今、時計見て、……九時すぎてんなって思ってから、そう言えば、って感じ。……そう言えば、まだ晩ごはん、食べてないなって」

 優一の声は、夢の中にいるひとのようにぼんやりしている。

 無理もない。精神が受けた衝撃のせいで、まだ、現実がうまく把握できていないのかもしれない。


「つきあわせて悪かったね、槙」

「いえ」

「うちに帰れば、作り置きのものがあるから、それを食べよっか。……俺もやっぱり、腹ペコかもな」

 一緒にタクシーの後部座席に並んですわっているから、彼の声は、おさえられていても明瞭に聞こえる。


 ──なのに。

 なのに、彼が、とても遠くにいるような気がする。


 彼との間に、うすい膜があって、……そのせいで、彼が生きている現実と、槙が生きている現実が遮断されているような、異なるものになっているような、そんな感じ。

 そんな感じがする。……


 そう思った瞬間、槙は、ほとんど本能的に、隣にすわる優一の右手に自分の左手を重ねていた。

 ふれたい、とかいうよりも、そうしないと──ちゃんとつかまえておかないと、彼が、どこか遠くへ消えてしまいそうだったから。


 はっとした顔で、優一は右隣の槙を見た。

 彼と目があって、ああ、と気づく。

 俺は、今、このひとのことを、じっと見つめてしまっていたんだな、と。しかも、おかしなほどの熱量をこめて。


 優一の手の甲に重ねていた手を、彼に振りはらわれた。

 嫌だったのか、と、どきりとした次の瞬間、彼の手は、槙の手を握り返してきた。

 手のひらと手のひらがあわさるように。優一によって、手が組み替えられる。

もっと、確かなかたちでふれあえるように。


 手袋を忘れた槙の手の中で、優一の手は、さらに冷たかった。

 見ているだけだと、優一の手は、もっと華奢で頼りない印象だったけれど、今、握っている手のひらはそうではない。


 女の子たちとは明らかに質感が異なる硬い皮膚。骨ばった指。しなやかだけれど、しっかりと握力のある手。……同性の体を持つひとの手だ、と思う。

 暗いタクシーの車内で、数秒、見つめあった。

 あの八月の驟雨の日の記憶と、目の前の黒い瞳が重なりあう。


 ──と、そのとき。

 突然、槙のオーバーのポケットで、スマホが通話の着信を知らせて震えはじめ、それが合図になったみたいに、二人は同時に、握りあった手をぱっと離してしまった。

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