冬の嵐 ──槙

第53話 心臓の近く

「失敗したな、俺。……コートも傘もないから、この格好じゃ、寒くて帰れない」

 ひとりごとのように優一はそう言うと、アプリでタクシーを呼び出しはじめた。

 その判断があまりにも当然のようになされ、アプリの扱いにも手慣れているのを見て、このひとは「タクシーを呼んで、家に帰る」ということを、習慣的にしているんだな、と槙は思う。

 高校生の槙とは、すこし生活の感覚がちがうひとであるらしい。


 優一の母は、いったんこのまま入院することになり、二人は、救急病棟の出口付近に立っていた。


 おそらく日中は、煌々とした照明の光で満たされているのだろうが、午後九時近いこの時刻、廊下はすでに消灯されている。

 壁に取りつけられた常夜灯と非常口のサインだけが灯り、あたりは薄暗かった。


「どうしたんですか、蓮見さんのコートは」

「ああ、えーとね。……俺、外出先から帰ってきたら、母が倒れてたからさ。そのときに、思わず助け起こしたりしたせいで、コートがべったりと……汚れちゃったんだよね」

 はっきりとは言及されなかったが、おそらくは、優一の母が流した血で、だ。


「だから、コート、脱いじゃって、そのまま置いて、救急車に乗ったの」

 その状況にそぐわない、宿題をしてこなかった言い訳をする小学生みたいな口調だった。


 ベージュのカーディガンを着ただけの、華奢な体が心配になる。出入り口付近のこの場所は、さほど暖房が効いておらず、いかにも寒そうな彼の立ち姿が気になった。


「よかったら、これ、着ますか?」

 さっき母親の病室に入るまでは着ていてくれた槙のダッフルコートを、ふたたび脱いで着せかけようとすると、彼は槙の手を押しとどめた。


「いいって、槙。……どうせ、タクシーもすぐ来るし」

「でも、蓮見さん、寒いでしょ?」

「そりゃあ、寒いけど。……俺がそれを着ちゃったら、槙のほうが寒いでしょう」

 優一はかすかに笑った。


「じゃあ、さ」

 年上の彼のほうが折衷案を出してきた。

「その、槙のマフラー、貸してよ」

 さし出された手。

「あ、……はい」

 言われるままに、首元の紺色のマフラーをほどいて、その手のひらにかけた。


「……ありがとう」

 受け取った優一は、そのマフラーを首に巻いた。

 その白い手の動きと指さき、うつむけられた横顔を、槙はじっと見ていた。──目が、離せなかったから。


「これで、あったかくなった」

 そう言って、優一は、槙に再び笑いかけた。


 その笑顔が、強いて作られたもののような気がして、槙は、うまく笑い返せなくなる。

 彼の母の容体について、もうすこし尋ねてもいいものか、それとも、彼が自分から口をひらくのを待つべきか、逡巡していたら、優一のほうから質問が来た。


「槙が背負ってるリュック、学校のかばん?」

「そうです」

「じゃあ槙は、家に帰らないで、高校から直接、こっちに向かってくれたってこと?」

「……そうですね。蓮見さんから電話が来たのが、自宅の最寄り駅に着いて、家に向かって歩いていたところだったんで」


 ──ちょうど、八月のあの日、優一と出会った場所だった。


「槙に、俺、すごい迷惑かけたな」

「いえ」

「ごめんね。ほんとうに」

 やや改まった感じで、彼はそう言った。


「いや、いいんです。……俺が勝手に来ちゃっただけだから」

 それよりも、どうして、あなたは。

「勝手に、なんて。……そんなことないよ、槙」

 ──今日、俺に電話をかけてきたの? 

 兄貴じゃなくて、俺のほうに。


「俺は……槙が来てくれて、すごく……ほっとした」

 痛い。

 心臓の近く、胸の深い場所、特別な感情の場所が。

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