第9話 作りたての夢


 さっきまで、あれほど激しく窓をたたいていた雨の音は、もう聞こえてこなかった。


 幸福のてっぺんから、突き落とされた気分だった。

 たたき落とされて、踏みにじられて。

 ナイフで刺されたとしても、こうは胸が痛くない。


「……暑い。汗、かいちゃった」

 ふふふ、と白い花が笑っている。

 まるでスポーツの試合をしたあとみたいな言葉だ。


 ──最後の瞬間に、紘彦の名前を呼んだことを、このひとは。


「ねえ、槙、もう離してよ、暑い」

「やだ。もうすこし」


 ──自覚、しているだろうか。


「あのべっちゃべちゃに濡れた服、着て帰るのやだなあ……」


「なんか、服、貸してあげるよ」


「いや、いいって。だって、そんなことしたら」


 優一は最後まで言わなかったけれど。

 そう、確かに服を貸したりしたら、この雨の午後に二人で何をしていたかが、思わぬかたちで露顕しそうだ。


「ほら、もう離して」


「いやだ」


「……きみのお母さんとかが帰ってきたら、やばいじゃない」

 確かに。それは、年上の彼の言うとおり、なのだけれど。


 槙の腕の中から抜け出すと、蓮見は、ベッドの中だの、床の上だのを探って、散らばった彼の服を拾いあつめていく。

 槙に向けた白い背中は、なめらかで、作りたての夢のように美しかった。


「兄貴の気持ち、知ってるんでしょう?」

 その背中に、どうしても尋ねてしまう。


「……そうねえ。紘彦、わかりやすいからねえ」

 白い背中を見せたまま、彼は答えた。

 ふふふ、とすこし笑いを含んだ声で。


「じゃあ、どうして兄貴の気持ちに、応えてあげないの」

 白い背中の動きが止まった。

 ──どうやら、最後の瞬間に、兄の名前を呼んだ自覚はあるらしい。


「こたえられないから、だよ」


「どうして? あなただって、兄貴のこと、好きなんでしょう?」

 思わずベッドの上に起き上がってそう尋ねたら、ことのほか、槙の口調は強いものになった。


「好きだよ」

 白い背中がはりつめる。


「好きって言葉じゃ、たりないくらい、好きだ」


「じゃあ、どうして」


 兄の恋人にならない? 

 好きでもない、俺になんか、抱かれた?


「紘彦は、普通に女の子のことを愛せるひとだから。……きみと同じで」


 背中は、ふりむかないままだった。


「だから、俺なんかとつきあわないほうがいい」


 それを最後の言葉にして、蓮見は部屋を出ていった。


 情交のあとが濃く残るベッド、さっきまでの汗が、自分の体をまだ濡らしている。


 くやしいけれど、十七歳の槙は、すこしだけ泣いた。


 こんなふうに、自分ひとりだけがはじめてしまった恋を、どうしたらいいか、わからないからだ。



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