Impressive

 吹奏楽部3年の市橋菜緒はラッカー仕上げの金色に輝くアルトサックス内側を、準備室で一人クリーニング用スワブで丁寧に磨いていた。

 ふいにドアが開いて、長身でゆるいストライプの髪をした男子が、バスクラリネットの巨大なケースを背負って入ってきた。

「聞いた話だけどな、市橋。例の部、いよいよ廃部ルートが見えてきたそうだ」

 高校生にしては低く渋めの声でそう伝えられ、菜緒の手がぴたりと止まる。後ろに結い上げ、両サイドを垂らした髪をひと撫でして、再びクリーニングを再開した。

「ふうん。それで?」

「それだけかい」

「他に何か期待してた回答があるの、征司」

 つまらなそうに、菜緒は小さな窓を見た。雨の向こうに、遠く雷光が閃く。

「何か思う所があるんじゃないかと思ってね。狙ってた子を君から"奪った奴"が、いなくなる事に対して」

 すると、菜緒は不意に振り向いて鋭い視線を向けた。

「それ以上くだらないこと言うと、そのクラリネットを喉に押し込んで栓をするわよ」

「いい音が鳴りそうだ」

 ふん、と言って菜緒はスワブを引き抜く。征司は少し真面目な顔に戻って、片手で降参のポーズを取った。

「悪い。君をからかうつもりはないよ。ただ、僅かながらでも機会が巡って来たんじゃないのか」

「機会?」

 形のいい眉をひそめて菜緒は征司を見る。征司は、空いている椅子に座ると菜緒を向いて言った。

「回りくどい話は嫌いだろうから、単刀直入に言おう。大原ミチル、彼女を吹奏楽部に引き抜くチャンスなんじゃないのか」

 すると、菜緒は少し寂しそうに笑った。

「今から?もう彼女は2年生よ。中途入部させるにしても、半年遅かったわね。チームワークが取れている所に、外から突然加入されても和を乱すだけよ」

「それはわかってる。けど、彼女の実力はそれを補って余りあるものだろう」

「嫌われる演奏者は二種類いるわ。実力もないのにポジションを得てしまう人と、実力がありすぎて凡才の居場所を脅かす人よ。彼女は後者」

 相変わらず手厳しいな、と征司は思った。菜緒が言っているのは、仮にいまミチルが飛び入りで吹奏楽部に来れば、今の2年生のアルトサックス奏者よりも上手く演奏できる、という事である。

「この際だからはっきり言っておくわね。私は彼女に個人的な未練があるとしても、組織や活動のレベルでは未練はない」

「オーケー、わかった。もうこの話はしない」

 今度こそ、という様子で征司は自分の楽器の手入れを始めた。7月には吹奏楽コンクールが控えており、仮にいま大原ミチルが加入したとしても、チーム内に混乱をきたすのは征司もわかっているのだ。

 だが、と征司は思う。もし、ミチルが1年と2ヶ月前の春に、菜緒の熱心なスカウトに折れていたら、今の吹奏楽部はどうなっていたのだろう、と。



 大原ミチルは、みんなが食べている鯛焼きの香りに囲まれながら、譜面のチェックをしていた。ミチルは自分の分の鯛焼きを、村治薫少年に差し出したのだった。

「ストリートライブの曲目なんだけど、日替わりメニューで色々やる、っていう方向でいいかな」

 さんせい、とメンバーが返す中、部外者である薫が興味深そうに訊ねた。

「ストリートライブやるんですか?どこで?」

「ここ」

 ミチルは、部室の外を指差した。薫はまさか、という顔をしている。

「学校の敷地内でやるんですか?勧誘シーズンでもないのに」

「B棟付近、要するにクラブハウス前の通りっていう条件はついたけどね。A棟だと吹奏楽部の練習の邪魔になるから」

「曲は?」

「本田雅人を中心に、色々やろうかと思ってる」

 その名前を聞いて、薫の目が輝いた。

「本田雅人、できるんですか、みなさん」

 その質問の仕方が、もうすでにフュージョン好きである事を自白していた。ミチルは少し謙遜しつつ答える。

「正直言うと、まだ練習中。えっとね」

 ミチルはスマホをコンポにつなぎ、期末考査前に録音した演奏を再生してみせた。最初の曲はスピード感のある"Little league star"という、1991年の曲だ。テンポが速く、うっかりすると演奏が走り過ぎてしまう。

「こうして聴くと、ちょっと速いわね。CDに較べて」

 クレハが、曲に合わせてベースの弦の上で指の動きをシミュレートした。原因は誰か。たぶん自分とマーコだな、と彼女は考えたが、他のメンバーもまた、ひょっとしたら自分かも知れない、と考えているのだった。

「音源とライブで速さが変わってるアーティストも多いけどな。というより、ライブで丁度いいリズムに収斂されていく感じかな。フュージョンじゃないけど、小田和正の"風のように"なんかは、音源の速いテンポより、ライブのスローテンポの方が断然いい」

 小田和正。ジュナの口から出ると違和感はないが、小田和正を聴いている現代女子高校生は何パーセントいるのか。ちなみにジュナはもともとロック畑の人間で、軽音部のない南條科技高校で、エレキギターを弾ける部活がここしかなかったという理由で入部してきたのだった。

 すると、突然ぽつりと薫が言った。

「うちの部室に、小田和正のアルバムありますよ。3枚だけ」

「ん?」

 ジュナが、意外そうな目で薫を見た。

「オーディオ同好会って、クラシックとかジャズばっか聴いてそうなイメージだけど、J-POPも聴くのか」

「聴きますよ。YOASOBIとか」

「どんな部室なんだ。ちょっと見せろ」

 こうして、雨のせいでストリートライブ計画が今日は御破算になったフュージョン部は、雨の中をクラブハウスの反対側、コンクリートのひび割れの修繕跡が目立つオーディオ同好会の部室に移動した。


「すげえ…」

 それが、ジュナの最初の感想だった。林立する巨大なスピーカー群を目にすれば、音楽が好きな人間なら誰でもそう思うだろう。それは他のメンバーも同様だった。クレハは、天井近くまである超トールボーイスピーカーに手を触れて溜息をついた。

「こんな空間がこの学校にあったなんて」

「私は存在は知ってたけど、こつこつと真空管アンプとか自作してるようなイメージだった」

 マヤは、スピーカーよりもノートPCとミュージックサーバーが気になるようだった。キーボード担当なのも、デジタル機器に触れるのが好きだという事がひとつの要因だった。

 マーコはバックローディング方式のスピーカーの開口部に頭を突っ込んで「あーあー」とか声を出して遊んでいる。ミチルは、反応も各人各様だなと思いながら、CDラックに近寄った。

「ね、薫くん。なんかまた聴かせてよ。そうだ、ここのシステムで日本のフュージョンを聴いてみたい。ある?」

「いいよ。何から行こうか」

 そう言うと、薫はまたノートPCに触れて何かのアプリを立ち上げた。

「ここにあるCDを聴くんじゃないの」

 クレハが訊ねると、薫はアプリを操作しながら説明した。

「そこにあるCDの大半は、もうこのサーバー1台に取り込んである。今はオーディオといえば、もう10年以上前からネットワーク再生がひとつの主流なんだ。ほら、そのCDプレイヤーの上にある小さなコンポ。ネットワークオーディオプレイヤーといって、LAN接続したサーバーから音楽を再生できる」

 いよいよ、他のメンバーに対してもタメ口を使い始めた。普通なら他の部活の上級生に対して失礼になるところだが、薫に関してはそれがまったく無礼に聴こえないのが不思議である。

「せっかくだから、さっき話に出た本田雅人をかけてみよう」

 PCのウインドウに、アルバムのジャケット写真とプレイリストが表示される。オーディオマニアといえば、なんとなく巨大なプレーヤーに古典的にディスクをセットするようなイメージがあった。女子高生の自分が言うのも何だが、時代は変わったんだな、とミチルは思う。


 音が鳴った瞬間、その場にいた薫以外の全員の背筋が伸びた。スピーカーの間の何もない空間に、突然本田雅人のサックスのソロプレイが浮かび上がったのだ。1998年、本田雅人がソロデビューした最初のアルバム「Growin'」の1曲目”Smack Out”。ストリートライブでも演奏しようと、目下ミチルも練習中の難曲である。


 それまで、聴いた事もない音楽再生の世界がそこにはあった。オーディオの音というのは、これほどまでに鮮烈なものだったのか。音楽室で先生が古いコンポでクラシックを聴かせるような、重苦しい音ではない。目が覚めるような瞬発力、低音のアタック、中音の張り、高音の切れと伸び。音の広がりも凄いが、分解能も凄まじい。パーカッションのひとつひとつを、細やかに完璧に再現している。

 ミチルは例によって、どのスピーカーが鳴っているのかを調べようとした。すると、薫がミチルの肩を叩いて、ひとつのスピーカーを指差した。それは、林立するスピーカー群の一番外側にあり、パルテノン神殿の柱のようにそびえるスピーカーであった。


 一曲の演奏が終わって、ラジオのトークが始まったかのように薫はボリュームを落とした。

「どう?」

 その表情は、自信に満ちていた。これが僕達の作ったスピーカーだぞ、と。

「すごいね。これが本当のオーディオなんだ」

 マヤが、素直な感想を述べた。クレハも続けて感心した様子を見せる。

「音の実在感がすごいわ。手を延ばせば触れられそうなくらい、生々しい音」

「うん。ねえ、これってサラウンドかけてるの?音が前後左右に広がって聴こえたわ」

 そうマヤが手を広げるジェスチャーをして訊ねると、薫は少し意地の悪い笑みを見せた。こんな顔も見せるのか、とミチルは思った。

「うん、そもそも多くの人が、2チャンネルステレオがすでにサラウンドだっていう事、気付いてないよね。じゃあなんで、人間は2つの耳で、前後左右の音を聞き分けられるんだと思う?」

 あっ、とその場にいるフュージョン部の面々が声を上げた。薫くんは少しだけ得意そうな顔で説明を続ける。ミチルは、なんとなく「やばい」とその時思ったが、それは的中した。


「そもそもステレオの原理の発見は1960年のパリ電気博覧会で、オペラ座の音を博覧会会場に2台の電話を利用して届けるという実験をフランスの技師クレマン・アデールが行っていたさい、舞台に設置されたマイクロフォンの音を拾っているレシーバーを偶然両耳にあてた人物が、音が立体的に聴こえる事に気付いたのが始まりだとされている。これによって立体音響という概念が

(中略)

J-POPやロックだとかの録音は基本的にモノラル音源の集合体で、それをミキシングの段階でパンポットという処理によって左右のどこに配置するかをエンジニアが自由に決められる。これは本来の意味のステレオとは…」


 そこまで薫が語ったところで、ミチルが勝手にPCを操作して、ギタリスト大橋勇の"POLE POSITION"というメタルっぽいハードナンバーを大音量で鳴らし始めた。さすがに薫もびっくりして、そこでようやく自分が喋り過ぎたという事に気付いたようだった。

 薫の機銃掃射のようなマニアトークに呆気に取られていた面々は、ミチルとのやり取りが面白くて、唸りを上げるギターサウンドをバックに大爆笑したのだった。


 村治薫という少年のマニアックな正体に気付いた事で、その場の6人の距離感は一瞬で縮まった。

「びっくりしたでしょ」

 すでに薫の機銃掃射を体験済みのミチルは、それでもまだ若干顔を引きつらせながら、他のメンバーに半笑いしてみせた。ジュナやクレハは腹を抱えて苦しそうにしている。

「いやもう、こんな筋金入りのマニアがいたとは…さすが、伊達に科学技術高等学校を標榜してないわね」

 マヤは目尻の涙を指で拭いながら薫を見た。薫は申し訳なさそうにチェアーに座って小さくなっている。

「ごめんなさい。喋ると止まらなくなるんです」

 また、敬語に戻った。いったいどっちが素なのか。

「ううん、面白かったわ。というか、ちょっと興味があるわね、今の話」

「ねえ、この子にレコーディング手伝ってもらったらいいんじゃない?そういうの、得意そう」

 それは、マーコの何気ない提案だった。

「なるほど」

 ミチルは、真剣な顔でその提案について頭の中で検討した。レコーディング。そういえば、今まで取り組んでいたようでいて、あまり踏み込んでは来なかった。ネットや、レコーディング専門誌に書かれてあることを、見様見真似でやってきただけである。

「ねえ。この間言ってたよね、J-POPの音が悪いのはなぜだろう、みたいな事」

 ミチルは、薫が語ってくれた話の中でふと耳に残っていた言葉を思い出していた。

「あれって、どういう風に”悪い”って思うの」

 それは、音楽演奏者としての問いかけだった。ふいに薫は真剣な表情を見せる。

「うん。ちょっと再生してみよう」

 そう言って、薫はPCからストリーミング配信サービスにつないだ。J-POPランキングの中から、適当な曲を選ぶ。


 巨大なスピーカーからアイドル系のヒットナンバーが流れてきた時、フュージョン部の5人はその音に愕然とした。今まで聴いていた曲とはまるで違う。なんというか、音がごった煮状態に濁っていて、低音は薄く、高音はノイジーでほこりっぽい。高度なシステムで再生した事によって、音の粗が拡大されてしまっている。

 その次に薫が再生したのは、マイケル・ジャクソンの"Black or White"である。今度は違う意味で全員が驚いた。先週レコーディングされたと言われても疑問に思わないくらい、リアルで鮮烈な音である。


 5人が何に驚いたかというと、後者は実に30年近くも前にリリースされた曲だ、という事である。その当時の機材といえば、デジタルなら今のような24bit、32bit、あるいはそれ以上のフォーマットではなく、もっと下のフォーマットしか存在しなかったはずだ。あるいは、アナログレコーディングも健在だっただろう。

 その時代の録音が、リマスタリングも手伝っているとはいえ、令和の最新ナンバーよりもクリアな音なのはどういう事なのか。

「J-POPの録音は、一時期の極端な音圧競走は終わったけど、以前として録音のレンジは狭いんだよね。30年前の音源の方が、今のシステムで意外なくらいいいバランスに聴こえる事もあるよ」

 薫は、可愛い顔でそう切り捨てた。

「基本的に全パートがお団子で分離が悪くて、低音も座っていない。透明感にも欠ける。ある日本のエンジニアが、洋楽のようなミキシングをしたら、上の人から『これじゃ洋楽の音だろ!』って怒られたそうだよ」

 つまり日本人はお団子状態の、透明感にも欠ける音が好きという事なのだろうか。すると、黙っていたジュナが語り始めた。

「毒がなさそうな顔して、けっこう言うじゃんか。なるほど、そいつはあたしも何となく思ってた。日本のロックは、名曲揃いなのに録音で損してるバンドが多い」

「そう。だから、そういう録音を中和させて聴ける音にするのも、オーディオのひとつの役割だったりする」

 だいぶ挑発的な発言ではある。プロのエンジニアが聞いたら怒鳴り込んできそうだ。

「そうだね。もし僕が録音するなら、そのへんに着目して音作りをしてみたい。録音か。うん、面白そうだ」

 それまで何となく受け身に思えた薫の目に、何か火のようなものが灯されるのを、ミチルは確かに見た。部活がなくなる事を受け入れた少年にも、何かをしたいという意志はまだあるのだ。


 この時が、その場にいる全員の進む方向性が見えた瞬間だったと、大原ミチルは後に述懐する事になる。そのあと、フュージョンやジャズの名盤で自作スピーカーの品評会をしたあと、ミチル達はまた自分達の部室に戻って、少しだけ演奏の練習をして、その日は解散となった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る