15

 朝──野生司家のリビングではテレビがついたままになっているが毎日のことだった。誰が見るというわけでもなく、しかし誰かが見ているので最後の1人が部屋を出るときに消す、というのが暗黙のルールだった。

 いまリビングに居るのはニケと野生司のうす大尉のみ。

 休日の朝とあって野生司大尉もソファに座ってパジャマのまま新聞を呼んでいる。ローテーブルの上には食べかけのツナ・サンドイッチとぬるくなったルノー茶が置いてある。低脂肪マヨネーズのせいでひどく味が悪いらしい。

「献血大募集! 成分献血、生体サンプル提供、いずれも大歓迎です! 献血手帳をお忘れなく。生体サンプル提供は年に1回だけ」

 軍のテレビコマーシャルが流れる。ニケはテレビの画面をチラリと見、野生司大尉は目もくれなかった。

 朝のワイドショーは取るに足らない行政官のスキャンダルを報じている。縁故採用がどうとかこうとか。コメンテイターのやる気も低そうだしテレビの前の誰も見ていない。しかしテレビを消そうにもルールがあるので消すことはできない。

「最近、リン君のことだが。妙に張り切っている。何かあったのかい?」

「人格あるヒトとして、あるいは首都勤務の軍人として、その自覚が出てきたのかと」

「ふむ。たしかにそうだ。よく頭が回る。同じフロアの職員ともうまくやっているし、ワープロだってワシより速く入力できる」

 うまくごまかせた。これは嘘を言ったわけではない。ある意味真実だし、野生司大尉より上位の命令が効いているからだ。

 ニケは嘘を言えないブレーメンの習性を、こじつけて押し殺した。

「仕事といえば──」野生司大尉が新聞を折りたたんだ。「第1師団に弾薬を融通する調整で出張が入るかと思ったんだが、どうしてか他の部署が肩代わりしてくれてね。お陰で心穏やかな休日を過ごせている。リン君は、そういえば今日は朝のジョギングに時間がかかっているようだね」

「アレンブルグの戦線は、どうですか?」

 話題をそらすためのでまかせだったが、無理筋だったか。

「ふむ、気になるかね? 正直かんばしくない。ロンボク運河の上流域までテウヘル軍が出張でばってきている。その一部は第2師団の管轄までもだ」

「では自分たちも出撃を?」

巡空艦じゅんくうかん大隊が頑張ってくれているよ。空からの監視もあって新たな戦線が開かれている訳では無いが……だが大陸は広い。こちらの監視の抜け穴が見つかれば歩兵部隊の出番だろうね」

「そう、ですか」

「なんだい? 戦いたくなったのかい?」

「そういうわけでは」

 しかし先日のトラとの戦いのときの血の高揚感は忘れられなかった。がヒトの社会で生きる“顔”がある以上、あまり好戦的な一面は隠しておきたかった。

「今日はリン君とお出かけだったね。ワシもそろそろ準備しなくては」

「奥様とクレー射撃大会でしたね」

「ああ。ホノカを塾に届けたあとで郊外の射撃場へね。プロの軍人として少しでもいい所を見せたい所だが散弾銃はどうもワシのしょうにあわん。ニケ君も外出の準備はしたのかね」

「ええ、これが自分の普段着ですから」

「銃と、あの刀は? 持ち歩いた方がいい」

「今日はあくまでプライベートな外出なので不要だと思います。それとも、軍務省から警戒するような通達が出ているのですか」

「んーわからない。軍警察の知り合いによればここのところ分離主義者の動きが全くない」

「じゃあ、安全なのでは」

「何か大規模な攻勢の前兆、という可能性もある。事実、軍警察のお偉方の関心は東部戦域に近い都市の治安維持で、オーランドの治安維持は警察に丸投げしている。なかなかにギスギスしていて見ものだったよ」

「万が一のことがあっても大丈夫です。今日

「ふむ、そうかね。ブレーメンの君が言うなら大丈夫だろう。さてワシもそろそろ着替えなくては」

 大尉が朝食の皿を片付けて着替えのため自室に戻るのと入れ替わりで玄関のドアが開いた。

「た、ただいま!」

 リンの慣れない声だった。ニケは家のルールにのっとってテレビの電源を落とすと玄関へリンを迎えに行った。朝イチでランニングに行ったときと同じ上下おそろいのジャージ姿だった。色素の薄い髪の横で赤く染めた左右非対称アシメの髪がパタパタと揺れている。彼女に会うのは2週間ぶりだった。

 ニケはその背後で黒塗りの高級セダンが走り去るのを見逃さなかった。

「めずらしい髪色の偽髪ウィッグだったが、用意できるものなんだな」

 挙動不審なリン=キエの髪を撫でてみた。いくぶん本物より手触りが滑らかで輝くように光を反射している。襟足からも金髪は見えない。強化兵の識別タグに似せたイヤリングも耳で揺れている。うまく隠せている。

「あああ、あの今日はよろしくお願いしますね」

「遊園地か。俺も初めて行くから不手際があるかもしれないが……御心のままに」

「よ、よしてくださいお辞儀なんて。今日はわたくしはリンなのですから」

 あの元気に満ち満ちたリンがよそよそしく名家のお嬢様のふうなのが違和感だらけでそれでいておもしろかった。

 野生司一家もノリコさんを先頭にお出かけの準備が整っていたようだった。夫婦はおそろいの運動用シャツを着て、ホノカも塾に行くためにリュックサックを背負っている。

「あら、リンちゃん、おかえりなさい。鍵は持ったわね。あたくしたちは夕方までには帰れると思うけど。あらあらあら、リンちゃん、そういえばちょっとふっくらしたんじゃないの? あなた、リンちゃんに悪いものを食べさせていないわよね」

 野生司大尉は首を引っ込めて横に振った。

「奥様! そんなことありませんわですよ」

「そう? それならいいのだけど。ま、若いからいいわね、旦那と違って。あら、ホノカちゃん、そんなにふてくされて。ニケ君と遊園地に行きたかったのかしら」

「わたしは塾があるから行かないの!」

 ホノカはぷん、と頬を膨らませて1人で先に大尉の車に乗り込んでしまった。その後にノリコさんも続いた。

「近くの駅まで送って行こうか?」

「いえ、大尉。リンが、ゆっくり街を見たいと言うのでバスで行きます」

「ふむ、そうか。それならまあいい。今日くらい仕事を忘れて楽しんでくれ」

 野生司大尉はキエの変装をじっと見たが特に指摘をすることもなく車の鍵を持つと車に乗り込んだ。

「バレるかと思いました」

「バレているかもしれないな」

「えーっ」

 野生司大尉は昼行灯ひるあんどんのわりに機転が利くし勘も鋭い。家にいる間は一般的な中年男性というふうだがあの一瞬だけは軍人らしい目つきが光っていた。

「まあ大丈夫だろう。リンの方は?」

「宮廷行事は顔を隠しますしいつもなら声も出しません。ネネの術もありますから宰相さいしょうにもバレないでしょう。たぶん。それよりも──」キエはニケの手をぎゅっと握った。「今日は普通の女の子として扱ってくださいまし」

 だったらまずその言葉遣いから直すべきだったが。

「いちいち手を握らなくても話は聞いてやるから」

「す、すみません。つい、何をしても良い・・・・・・・状況なのでつい」

「何をしても良いわけじゃないが。とりあえずリンの服に着替えよう」

 ニケはキエを、リンとホノカの部屋へ案内した。キエは終始、あたりをきょろきょろと観察している。ホノカの趣味に合わせたパステルカラーの壁紙に、ツノカバのぬいぐるみや抱きまくらなどがベッドに無造作に並んでいる。部屋の角に新しいカラーボックスが置かれ、そこがリンのパーソナルスペースだった。銃のメンテナンス道具やオーランドに来て撮った写真などが飾ってある。

 他人のクローゼットを開けるのはやや忍ばれたがこれもおうのためだと言い聞かせた。

 ホノカのコート、学校の制服の襦袢ブラウスはかまが並び、リンの外出用の衣類も畳んで棚にしまってあった。

「リンと背格好は同じだし多分着れると思うけどって何をしてるんだ?」

 キエは両の腕を開いて、それでいてやや顔を反らしていた。

「わたくしはわかっております。ブレーメンが人に欲情しないのを。ただ、その、殿方とのがたに見られるのは慣れていません。服を着せる間はあまり見ないでいただけるとその、恥ずかしいので」

「何を言ってるんだ。自分で着るんだよ。まさか着れないのか」

「そんなこと。たやすいのです。わたくしは何と言ってもおうなのですよ」

 キエはリンの私服を受け取り、もぞもぞとジャージを脱ぎ始めた。見られるのは恥ずかしいんじゃなかったのか。ジッパーを下げずに裾を窮屈そうに持ち上げていた。

 いちいち指摘するのも野暮やぼと思い、おうの着替えを邪魔しないよう部屋の外に出た。そしてネネの言葉が思い出された。

「お戯れが過ぎます、か」

 正直、たかが遊園地に行くだけで大げさだと思ったし、リンをわざわざ替え玉に仕立てるほどでもないと思ったが。そこはかとなく不安を覚えた。ブレーメンとは違った意味で人の社会を知らなさすぎる。あれ・・を案内する役をネネに押し付けられたのも、たぶんそのせい。

「おまたせしました、ニケさん。でもこの服で合っているのですか? すこし窮屈ですよ」

 しかしニケは適当な返事をしてごまかした。同じ遺伝子とはいえ、普段から体を動かしているリンの服が窮屈に感じられるのは必然だった。

「あと足が、足が出すぎです。これでは裸同然ではないですか!」

 以前リンといっしょに買いに行ったホットパンツだった。

「若いヒト達はだいたいそういう服装だけどな。堂々としていれば誰も見ないさ」

「あぅ、わたくしは」

「今日は普通の女の子、だろ。だったら背筋を伸ばして歩くんだ」

 嫌なら宮廷に帰ってもいい、と嫌味を言いかけたがキエはきゅっと唇を結ぶとリンのおしゃれなハイカットスニーカーを履いた。

 家から最寄りのバス停へ歩いて向かい、2桁区と1桁区を隔てる環状鉄道の駅へ向かった。平日ほどの人混みと言うほどではないが、リンに比べ歩くのが遅いキエが迷子にならないよう、ニケは切符を買ったり改札をくぐったりするまでずっと手を引いて歩いた。外回り線に乗って10駅ほどで遊園地直通の駅に到着した。

 遊園地──スーングラーン公園は1桁区と2桁区をまたぐ形の広い公園だったが、そのうち2桁区の部分を遊園地に改装したらしい。環状鉄道の駅からはその両者を見下ろすことができた。完成から30年ほどが経っていたがまだまだ人気のテーマパークで、ここ最近はツノカバとコラボレーションしているらしく入り口ではツノカバのきぐるみが出迎えてくれた。

「不思議な生き物ですね。都市生物でしょうか」

「そういうキャラクターだ」

「つまり想像上の生き物だ、と?」

「生き物というか、キャラはキャラじゃないか」

 入り口のゲートで蛇行した列に並んでいる間、キエはずっと手を振るきぐるみを観察していた。

 ありきたりな光景なのに、じっくりとそれを観察して一喜一憂している。その後ろ姿はリンにそっくりだった。まさに双子の姉妹だ。

 入り口の係員にチケットをちぎってもらい半券を受け取る。そして園内地図の描かれたパンフレットをもらった。しかしキエはそんなことに気を配らずそそくさと入り口の広場で歓声を上げた。

「見て、見てください! たくさん人がいます!」

「他にももっと見るところがあるだろうに」

 その時ポケットに忍ばせていたパルの着信音が鳴った。ネネ、あるいは近衛兵部隊の電話番号とともに数字の羅列が届いた。

<かんし している おうヲ たのんだ 01>

 ニケは周囲を見回してみた。たしかに一般客に混じって女性兵士らしい人物がいる。キエを囲むように5人、もっといるかもしれない。服装こそ一般人だが目付きは鋭いしコートの前ボタンは開いたままだった。

 01はコールサインでたぶんネネだろう。変装した兵士たちは遊園地の入口のゲートを武器を携帯してどう通過したか気になっていたが、ネネの術でごまかしたのだろう。

「もう、ニケさん、そんなにきょろきょろしてどうしたんですかー。聞いてますかー」

「ああ、聞いてる。あーそうだ、写真を撮ってやろう」

「写真、ですか」

 ニケは入口近くの売店で紙幣数枚と交換して簡易カメラを買った。そしてネネに精算してもらうためのレシートを財布に大切にしまい込んだ。写真フィルムが内蔵されており、ネジを巻きボタンを押すだけで写真が取れる便利な道具だった。32枚 撮ることができる。

「ほら、キエ。ポーズだ」

「ぽ、ポーズですか! ポーズと言われましてもわたくし、そんな、どうしましょ」

 キエは慌てて周りを見渡し、遊園地のロゴと噴水の前で並んでいるアベックのマネをした。両手を伸ばしたピースサインだった。

 簡易カメラのファインダーを覗き込んで全景を捉えた。つい士官学校時代の偵察写真の講習を思い出した。同じような構造の簡易カメラで焦点を合わすこと無く広角レンズで撮影ができる。明るさにだけ注意すればいい。

 1枚撮ってみたものの、大きなカメラを下げている観客たちはしゃがんだりカメラを傾けたりしている。そして理解──なるほど、偵察写真とは違い広く遠くが見えるだけじゃダメなのか。

 キエがてくてくと近づいてきたが、

「もう一枚、もう一回ポーズを」

「ええ、またですか!」

 ニケはしゃがみ、キエを見上げるような角度を維持した。それでいてカメラの水平面を少し傾けた。キエもファッション誌で見るようなあざといポーズをとった。

 カチリ。小さなシャッター音が聞こえた。手動でフィルムを巻き、次にすぐ撮れるこうようにしておく。

「一般人っぽいポーズもできるんだな」

「えへん! これでも本を見て予習をしてきたのです。超かりすま? 精神科医の相談ボックスによると仲睦なかむつまじい男女は遊園地で互いの感動を共有するのです! って、はぅ。なんでもありません」

 キエは顔を真赤にして両手で顔を覆った。

「睦まじいっても会うのはまだ2回目なんだけどな」

 本、というより若年層向けのファッション雑誌だろうが、おうもその手の本を読むんだな。

「今のは、今のは忘れてくださいまし」

「お戯れが過ぎます、か。ネネは年増としまなだけあって言っていることは正しかったみたいだ」

 しかしキエは短く咳払いして胸についたバッジを指さした。どこにでもあるようなツノカバキャラクターがプリントされた缶バッチだ。珍しい点があるとすれば手のひらいっぱいに収まりそうな大きいサイズだった。

「ネネがこれで聞いているのです」

「なにか、術の類か?」

「いえいえ。機械です。近衛兵が使う盗聴装置です」

 途端にニケのパルが鳴った。数列はすぐに解読できた。<ぶち ころ がず ぞ わかぞー 01> 本当に聞こえているらしかった。

「マイクと……電池はどこに入っているんだ?」

「と・も・か・く、わたくしは普通の女の子になりたいのです。こんな自由な時間は生まれて初めてなのですから」

 生まれて初めて──ニケは胃に重いものがストンと落ちる感覚があった。誰しもが憧れる上流階級の暮らし。その上の上を行くのがキエだ。しかしたかが遊びに行くことすら許されないなんて。ニケは、キエに腕を絡まされて公園を練り歩いていたが、彼女のしたいように任せた。

 園内を半分ほど歩いた時、

「キエ、あれに乗ってみるか?」

 轟々と風切り音とも機械音ともつかない音とともに甲高い悲鳴が頭上から聞こえた。舟の形をした乗り物が半円を描いて前後に大きく揺れている。

「あれは、あれは。そうですね。興味深いです」

「怖いのか。すまない、気づかなかった。だったらこっちの」

「怖くありませんですのよ! しかしですね。あちらのメリーゴーランドのほうが興味深いのです」

「ふむ」

「ホントです。ほんとうに怖いわけじゃないのです。ウマが好きですから」

 キエはメリーゴーランドの列に並びながらずっと言い訳を口にしていた。その点をからかうつもりはなかったが、興奮気味に言い訳を並べるキエがかわいらしかった。

 メリーゴーランドは木製のウマや馬車が円形状に並び、軽快な音楽とともに上下に動きながら回転する。童話に出てきそうな雰囲気でキエの他にはアベックと頭ひとつ背が低い子どもたちが並んでいた。

 15分ほど待っていよいよキエの番が来た。キエは白くて大きなウマに横乗りで座り、ニケは係員に言付けて柵の外でカメラを構えた。

「一緒じゃないのですか」

「ああ。でもカメラを撮ってやるし手も振ってやるから」

 そのウマに2人乗るのは無理だろうに。しかしキエはニコニコと微笑み手を振った。他のアベックや子どもたちの仕草と比べ、気品に満ちた笑顔で、さすが上流階級だと思わされた。

 白馬は音楽とともに時計回りにぐるぐると回る。右手からキエが現れるたびに手を振り、ちょうどいいタイミングでフィルムに収めた。

 喧騒と歓声もつかの間、メリーゴーランドは止まり乗客たちがぱらぱらと降りてきた。小さな子どもたちに混じってキエもてくてく歩いてきた。

「あぁー、わたくし、わたくし、ほんとに遊んでますのね」

 キエは真っ赤な頬を両手で抑えている。高揚した拍動が聞こえてきそうなくらいだった。

 ニケはついパタパタ揺れる偽髪ウィッグを撫でていた。リンが無邪気に楽しんでいる──そう勘違いしてしまいそうだった。

「あの、その、ニケさん」

「すまない、つい。不敬だったか」

「あの、もう少し。誰にも・・・やさしくされたことはなかったので」

 その言葉の真意が気になったが、今はその時では無いと思い黙ってポンポンと偽髪ウィッグを叩いた。

 見た目はリンとそっくりだがオリジナルだけあってそうたくさん歩いたり動いたりできなかった。キエは空いていたベンチに腰掛けて息を整えている。

「他に、今日したいことはあるのか?」

「えへへ。いろいろ考えていたんです。でもいざとなったらどこから手を付けていいのやら」

「でも絶叫マシーンは怖いんだったよな。あのローラーコースターも」

 頭上で轟々とレールの上を車列が滑走している。

「怖くはありません!」

「ふふ、そうだったな。じゃあ、観覧車はどうだ? ここらへんで一番高い建物だ。高いが、ゆっくり動くだけだから」

 ふと記憶のアンカーがひっかかった。昔の記憶が思い出されそうだったが、

「良い案です。行きましょう!」

 キエはニケの腕をつかんでグイグイと先を歩いた。まだまだ十分元気そうだ。

 観覧車は園内のどこからでも見ることができた。ゴンドラがぶら下がった円形の輪がぐるぐると回っている。待機列はそれほど長くはなく、列に並んで立ちどまること無く2人の順番が来た。右手側からゴンドラがゆっくりと動く。その動きに合わせて、先にキエを乗り込ませ、ニケも後に続いた。係員がドアを閉めると、ゴンドラは滑らかな動きで空に向かって上昇していった。

 オーランドを上空から眺めるのは2度目だった。観覧車自体が丘の上にあるせいかオーランド全景が見渡せた。1桁区の古くて瀟洒しょうしゃな市街地の一方で2桁区は背の高いオフィスビルや複合施設がパターンを刻むように林立している。そして大気汚染ぎみな空気を通してうっすらと見える3桁区は、工場の黒い煙がもうもうとたなびいている。海風で1桁区側に流れ込まないよう意識して建てられていた。

 同心円状に切り取られた街。その中で生きていることを実感させられる。自分はずいぶんとちっぽけだった。

 キエと並んで遠くを眺めた。同心円が収束し宮廷の周りは円形の水をたたえた堀があった。

「ここからなら宮廷がよく見えるな。どのあたりに住んでいるんだ?」

 2人だけの個室だからこそ聞けることだった。

「ふふ、気になりますか。1桁区の中央、緑が増え丘になっているところがわたくしの住まいです。全ての施設ファシリティーが家、というわけではないのです。でもだいたいあの辺りが住まいです。ほら、四角い建物で窓ガラスが並んでいる辺り」

「何か、玉を持っている像の隣の建物か?」

「すごい。ここからでも見えるのですね」

「ま、ブレーメンだから。はっきりとじゃないが、像と階段、丘の頂上には無骨なコンクリート施設。ふぅむ、見たことがある。要塞のバンカーのような」

「へへ、そんなところです」

 キエにごまかされた。あまり機密を根掘り葉掘り訊くのはやめておいた。続いて連想したのはネネの怒りに満ちた顔で寿命が縮まりそうだった。不敬な質問をしてしまったと思ったがネネからの連絡でパルが鳴ることはなかった。

 しかしキエは、地平線近くに視線を留めたままだった。2人は向かい合うようにして座っていたが、真下を見下ろしていたニケとは真逆でキエは座席中央で縮こまっていた。

 どうしたものか。キエはおうである手前 強がっているようだったが。

 思い出した。軍警察の先輩の言葉だ。ヒト社会での暮らしをとりとめもなく教えてくれたが今になってその言葉を思い出し意味を持ち始めた。

 ニケはすっと立ち上がるとキエの横に座った。座席は2人が並ぶに十分な幅とはいえずピタリと肩が触れ合った。

「君と来られて嬉しいよ」

「あわ、わたくしも、その。忠義に厚い臣下と一緒できることを光栄に思います……でもなんだかあなたらしい言葉じゃありませんね」

「ふむ、あっさりバレた。さすがおう。我が君」

「もう、いじわるなんですね」

 軍警察の先輩の自慢話だった。観覧車は愛によって結ばれた2人だけの時間だそうだ。女癖の悪い先輩らしくそういった逸話はさんざんと聞かされた。キエに掛けた言葉も先輩の受売りだった。

「俺も慣れてるわけじゃないってことだ」

「女性の扱い、という意味ですか」

「ブレーメンはよわい20を過ぎないと異性を意識しない」

「なんだか拍子抜けです。残念なのです」

「残念?」

「いえ特に深い意味はないのです!」

「だがネネが俺に護衛を任せたのはそういう理由があったからだろう。ヒトと違いふしだらな真似はしない」

 いや、ネネ自身が来れば機密も守れ、丸く収まるはずだ。合理性はないがおうの頼みだから引き受けた。

「寄り添う2人、というのは、つまりつまりその、好意、というものではないのですか」

「そうだな」

「ブレーメンというのは、やはり人には好意を抱かないものなのですか」

 キエはすりすりと体をすりよせてきた。

「そんなことはない。キエは十分にかわいい」

「わ! わわわ! わかりました! 今のも上辺だけの言葉ですね。謀りましたね」

 やはり受け売りの言葉だとバレてしまった。ぱしぱしと力のこもってない拳を叩きつけられる。

「しかし、だ。異種族とはいえ好意を抱かないということもないだろう。ヒトとペットは異種族で言葉も通じない。だが心を通わせ一緒に暮らし家族になることもできる」

「では、ブレーメンにとって人とはかわいいペットなのですか」

「ペットの定義にもよるが、ヒトとはか弱い存在でそういう弱い存在は守らなくてはならない。たぶん」

「たぶん?」

「ブレーメンの里で暮らしている者たちがそれを意識することはないし俺だってあまり考えたことはない。なにせブレーメンにとって大切なのは強さだけだから。でもヒトの社会に出てたくさんのヒトの生活と死を目の当たりにして。守らなくてはと思うようになった。ネネだってそう思ってるんだろ?」

 キエが胸につけている缶バッジに向けて話してみた。

「そう言ってもらえて、心が暖まる思いです」

 キエは目尻に溜まった涙を拭いている。

「大げさだろう。泣くなよ、それくらい」

「わたくしは、ときどきわたくしたち・・に課された重圧に押しつぶされそうになるのです」キエはバッジのマイクをぎゅっと手で包んで音を遮った。「先代のおうから何もかもを突然に引き継ぎました。ネネは先代のおうも含め何代も見てきました。長生きですから。だからわたくしの心配も、『杞憂ですよ、すぐに楽になります』と言うんです。聡明な侍従長でありブレーメンです。それが戯言たわごとではないことはわたくしもわかっています。ただわたくしがまだ幼いだけだと。しかしわたくしたち・・は代々引き継いできたこの責務に押しつぶされそうになることがあるのです」

「先代、ね」

 おうは代々女系ということを加味すれば、彼女の言う先代は母親ということになる。数年前に代替わりしたおうだ。その時はまだブレーメンの里で暮らしていたせいで深い関心事じゃなかった。

 しかし厳しい母親ならば共感ができる。6歳の誕生日に母親に山へ連れて行かれたことがある。そして唐突に暗い穴へ蹴落とされた。そこは獰猛なかまドウマの巣で、数十匹の巨蟲と戦い、虫の体液で肌がかぶれ、傷だらけになって巣穴からはいでることができた。あれ以来、母親とはまともに口を利かなくなった。

 しかし、今思えば、あれも母親なりの鍛錬だったのだろうし、そのおかげで戦いを前にしても平然と心を保つことができた。

「母親のことをそう悪く言うものじゃない。きっと理由があったんだ」

「そう、理由です。そうですね。わたくしもいつか母親になるのです。厳しくも優しくありたいものです」

 キエはぎゅっと握っていたバッジ型のマイクから手を離した。

「あなたが近衛兵隊に入ってくれたらわたくしも嬉しいのですが」

「そうだな」願ってもないチャンスだ。近衛兵隊といえば精鋭中の精鋭だ。「だがネネは血を吸うんだろ? 上司に血を吸われる職場はヤだなあ。」

 キエは思わず吹き出して笑っていた。一緒になって笑っていたかもしれない。この子は、おうとしてすましているより、笑っているときのほうがずっと輝いて見えた。それは同じ顔のリンにも言えることだった。

「ニケさん、カメラを少々 見せてくださいまし」

 キエはカメラを受け取ると、しげしげと眺めた。軽い樹脂製でレンズを覗き込むキエの瞳が映っている。リンの赤みがかった瞳とは違う、ごく一般的なヒトの瞳だった。

「珍しいのか?」

「はい。そもそもわたくしの写真自体、撮ることがないですから」

「テレビでたまに流れる王室からのメッセージがあるだろう。顔までは映ってないが写真で、正月とか新月の日とかに」

「あの写真はわたくしではありません、声もそうです。もし本物だったらリンがすでに気づいていたでしょう。背格好の似た侍従じじゅうが代わりにするんです」

 じゃあおうの責務は? と訊きたくなったが口を閉ざしておくことのほうが賢明に思えた。あれこれ興味を持って訊いていい領域ではない。

 キエはファインダー越しに景色を眺めている。するとおもむろに、

「ここでシャッターを切るのですね。ささ、ニケさん、見てください」

 ニケは首に腕を回された。そしてキエが2人の正面にカメラを向けた。小さなレンズに映る姿はキエでありリンでもあった。

 カチリ。シャッターが切られた。

「へへへ、びっくりしましたか?」

「す、すこし」

 キエはカメラのつまみをジージーと巻いていく。

「しかしこう、うーん。やはりわたくしらしくありたいです」

 キエは独り言で宣言すると、頭に載っているウィッグをばさりと取ってしまった。ふわりとしたくすんだ色の金髪が揺れた。

「いいのか? ネネに叱られるんじゃないのか」

 ──俺が。

「今日だけ。今だけなのですから」

 すると今度は、キエはニケの膝によじ登った。ニケの顎の高さにちょうどキエの頭頂部が届くような小ささだった。

「はい、ニケさん。ちゃんとカメラを見てください♪」

 キエは両手で、めいっぱいに腕を伸ばすとシャッターを切った。

「へへへ。さすがにどきどきしちゃいました。恥ずかしいですね。わたくしたち・・の記憶に永遠に刻まれます」

「ったく、となりのゴンドラからまったく見えないわけじゃないんだぞ」

 ニケは、ウィックを金色の髪に被せると、前後と左右のバランスを確かめながらウィッグを整えてやった。

「ニケさん、どうもありがとうございます」

「それは今日1日が終わってから言うものだ。まだ遊び足りないだろう?」

「はい!」

 観覧車はあっというまに1周を終えた。昼食にはまだ早い。しかし人の流れは一定方向に園の中心へ向かっている。

「ねぇ、ニケさん、パレードですって! これも予習済みですの。ホランド社が全面協賛。歴代のツノカバファミリーが一斉に登場しますの」

「雑誌の情報を丸暗記したのか」

「さぁ、いきましょ、ニケさん。いい場所を取らないと」

 キエは再びニケの手をつかむと群衆にひるむことなくてくてくと歩を進めた。お飾りのおう、とさっきは頭によぎったが性根のところでは頑固でいざとなれば行動力もあるようだった。

 パレード会場は園内を蛇行している目抜き通りだった。すでにファンシーな山車だしが待機し、吹奏楽団の隊列も整列しているのが見えた。全面協賛しているツノカバの姿も見えた。どれも同じキャラクターに見えるのだが──もしお土産があればリンとホノカにも買って帰ってやろう。

 観客は道に沿ってならび、係員がロープを張り安全を確かめていた。

「ヒトが多いなぁ」

「臣民を悪者のように言わないでくださいまし。不安でもあるのですか」

「人混みは警備しにくい」

 それに観客が増えすぎて変装した近衛兵の姿も見つけられない。

「な、ならばこういうのはどうです?」

 おもむろにキエはニケの両腕をつかむと自身の体の正面で交差させた。羽交い締めさせられた・・・・・状態で、ニケの体の正面にキエがすっぽりと収まってしまった。

「さすがに、これは」

「ど、どうです? お恥ずかしいですの? ブレーメンは人に欲情はしないのでしょう」

「いや、なんというか、欲情というよりも親子みたいだなって」

「わ、わたくしのよわいはあなたと同じです。あなたのほうが大人びているのは認めますが、普段 殿方には触れてはいけないのです。でもあなたはブレーメンだからいいです、よね?」

「それを決めるのは俺じゃなくてネネだろう。しかしまあ、御心みこころのままに」

 ──諦めた。鳥かごに囚われた金色の小鳥がしたいというのだから拒否するわけにもいかない。

 キエはカメラのファインダーを覗き込んで、笑顔の群衆やパレードの山車を眺め時折シャッターを切っていた。

 リンは王室でうまく替え玉ができているだろうか、と不安になった時ちょうどパルの着信音が聞こえた。リンの個人番号付きで、数字の羅列を解読してみた。

 <とても はじけている>

 どこで覚えたのだろうか、ヒトの使う若者言葉だったが、たぶん良い意味なのだろう。

「おぅ、嗅ぎ覚え・・・・あるニオイと思ったら、グハハハ。やっぱりニケじゃないか!」

 ファンシーな公園に似つかわしくないダビ声。並のヒトよりも一回りも大きい巨体が群衆をかき分けて現れた。

「トラ、どうしてお前がここに?」

 2週間前に散々痛めつけたはずだったが、すでに完治していた。腕の腱も治っているらしく手も問題なく動いていた。

「なんでぇ、剣技を交えた仲じゃないか。そう睨むなって」

「おまえのは剣技じゃなくてただの暴力だろうが」

 しかしトラから敵意は感じない。とはいえ友人になったつもりもなかったが。

「っさーせんニケさん。親分がガサツで」後ろから巨漢の舎弟しゃていが現れた。「実は明日から俺たち、軍に入営するっす。で、しばらく自由がなくなるっていうんで遊びに来たんっす」

「遊びに?」

 巨漢、マッチョ、入れ墨だらけの元不良の3人の舎弟+体躯の巨大なブレーメン。遊園地に似つかわしくない。

「そう! 俺様がまっとうな生き方をする前祝い、というわけだ」

「ったく、迷惑をかけるなよ。で、どの隊に行くんだ? 第1師団だったらすぐに戦場行きができるぞ」

「んー知らん!」

 ニケが眉を曲げて疑問を呈したが、巨漢の舎弟が変わりに答えてくれた。

「ブレーメンっていきなり少尉になってあちこち戦場が選べるっすけど、親分、どーもこーも頭のほうが足りなくて俺たちと一緒に二等兵で入隊になるんです」

「ブレーメンなんだから思考力が足りないってことはないはずだが。興味がないことは思考しないっていうブレーメンの悪い癖だ。おいトラ、勉強は興味あるのか?」

 するとトラは怪訝な顔をした。

「そんなもん、知ったところで強くなれるのか?」

 うしろで舎弟3人が頭を抱えていた。

「軍はチームワークが大切だ。あまり独断専行しないよう、よくよく学ぶことだ。じゃないとたとえブレーメンといっても戦死す──」

「トゥーイ! こまけーことぐちぐちいいやがって。それよりもニケ。あっちにチャンバラがある。勝負だ!」

「チャンバラ?」

 今度はニケが怪訝な顔をする番だった。

「おめーお高くとまってるくせにチャンバラも知らねーのか? このトラ様が直々に教えてやらぁ! ──おい、クーァイ! お前らひっぱるな。」

「親分、ちったぁ空気読んでください! ニケさんには挨拶するだけって言ったでしょ」

 何の・・空気を読んだかは知らないが、大柄な舎弟3人がかりで暴れるトラを引っ張ってどこかへ立ち去ってしまった。

「すまない。驚かせてしまった。ちょっとしたブレーメンの知り合いだ」

「悪いお友達と思って、ちょっとどきどきしました」

「友達じゃないさ」

「しかしネネは言っていました。ブレーメンは剣を交えたら友人なのだと」

「逆だな。ネネ婆さん世代は知らないが少なくとも俺たちは、友人だから剣技を比べるんだ。トラとは、喧嘩かな」

「喧嘩! いけません。めっ・・です。話し合いで解決しなければなりません」

「ふっ、そうだな。キエに言われたんなら守るしかないよな」そしてボタン型のマイクに近づいて言った。「若いブレーメンが入隊するらしいぞ、ネネ」

 たぶん、マイクの向こう側でネネは歓喜に湧いている。

「ネネは、普段はああ・・じゃないのですよ。忠義に厚い侍従長なのです。しかしながら若い男の人、とくにブレーメンを見るとつい本性が現れてしまって。信じてください!」

「ああ、信じるよ。キエの言うことに間違いはない。しかし、どうしてしつこく血をすおうとするんだ?」

「えっ、ブレーメンは互いの体液を交換するのでは? その代わり人のようにキスやハグはしないのでしょう?」

 しとねの作法はそう詳しい訳ではないが───

「するわけないだろう、そんなこと」

 ニケはぽんぽん、と艷ツヤなウィッグを撫でてやった。

 パレードはすでに始まっていた。バトンを掲げて頭に大きな羽を付けた指揮者がテンポよく先頭を進む。その後ろを吹奏楽団や鼓笛隊が進み、各種ツノカバたちが山車だしに乗って観客たちに手を振っていた。

 丸い大きな目に表情はなく、上顎から牙が生えている珍妙なキャラクター。しかしそれでも子どもたちには人気なようで歓声を浴びていた。キエも喜々として手を振っている。

 周囲を見渡して警戒をするが──ふと群衆に紛れて青いきらめきが見えた。ブレーメンの剣と同じ光だった。トラ? いやさっき見たときはあの青いメイスを携えていなかった。どのみち入り口の警備にでも止められたのだろう。

 だとすれば他のブレーメン? しかし剣を抜き身で持ち歩くなんて、ブレーメンの風習にも反している。

「ニケさん、どうしたのですか。顔が怖いですよ」

 ぴたり、と冷たいキエの手が頬に触れ、やっと冷静さが戻ってきた。

「嫌な予感がする。ここを離れよう」 

 キエも異変を察してくれたようで、大人しくニケに手を引かれて群衆から抜け出た。

 皆が熱狂するパレードのなのに──コートを着た男と目があった。ずっとこちらを見ている。悪人面あくにんずらの人相で、古傷のあるスキンヘッドだった。もう日が高く登りそう寒くないはずなのにコートを着込み、しかしボタンは全て外れている。

「キエ、こっちだ」

 足早に反対方向へ行く。早足で逃げようとするが背後に圧迫感が迫る。まさかこんなところで襲撃が? 白昼堂々に、しかもキエのお忍びの外出の情報が外部に漏れている。事前の警備図を思い出した。

「あそこで近衛兵が待機しているはずだ。合流しよう」ニケは不安そうなキエに微笑んだ。「すまない、せっかくの楽しい時間だったのに」

 するとキエもぎゅっと握り返してきた。

「いえ、あなたがいるから。あなたなら安心です」

 肝が座っている。

 無人のポップコーン屋台の隣に業務用通路がありそこで護衛の近衛兵が待機をしている──はずだった。しかしあるのは壁により掛かるようにして死体が倒れている。

「くそ、どうしてこんなことに」

 明らかに緊急事態だった。ニケは近衛兵からトランシーバーを抜き取った。その死体の傷はどう見ても銃やナイフではなかった。何かしらの細い凶器で胸を刺し貫かれていた。口元も強い力で押さえつけてうっ血した跡がある。

 トランシーバーの周波数を確認しようと目を落とす──と同時に鋭い風切り音が聞こえ、キエをかばうように体をひねった。

 クロスボウのボルトがトランシーバーを貫いて壁に刺さった。

「ほほん、避けられるとは。ブレーメンって情報は本当だったのか」

 作業用通路の陰からクロスボウを携えた男が現れた。クロスボウは2連式に改造され次のボルトが発射体制にあった。

 背後にはじりじりと人相の悪い男たちが近づいてくる。ボタンの開いたコートの隙間に手を入れそこにある武器をすでに用意してあった。

「おっと、ブレーメンの。戦おうとするなよ。俺たちの銃はお前らだけを狙ってるわけじゃねーんだ」

 ただの強盗じゃない。キエだとわかって襲撃をかけている。今手元にブレーメンの触媒が無いがここにいる人数なら相手にできる。

「他にも潜伏している敵がいるかも知れません。ここで戦うと市民に被害が出ます。ニケさん、わたくしのことは気にしないでください。わたくしならいくらでも遺伝子サンプルスペアがあるんです。わたくしのことは気にしないで」

 ニケの背中で、キエが早口で言った。

「バカなこと言うんじゃない。なんとか切り抜けて見せる。相手はただのヒトだ」

 しかし足元で転がっている近衛兵の死体はヒトの仕業じゃない。ヒトの力じゃ胸骨を貫通させることなんてできない。

 こいつらだけじゃない。敵性のブレーメンも潜んでいる。

「さ、じゃあ大人しく──」

「おっニケじゃねーか」トラのバカみたいにでかいダビ声だった。ギャングたちも一斉にぎょっとなって飛び上がった。「おっ、おおお! 喧嘩か喧嘩だなニケ! よおし、勝負だ! どちらが多くチンピラの歯を折るか。お互い素手なら公平だろ」

 そう言い終わらないうちにギャングの体が宙を舞って壁にぶつかった。レンガの壁にヒビが入り、ヒトの体の方はヒビでは済まなそうな潰れる音が聞こえた。

 真正面で、クロスボウの照準が合う──より数秒速くニケは瞬時に接近して2度の打突をギャングの首元に叩き込んでいた。

「トラ、借りができたな!」

「お、おおう? 喧嘩勝負じゃないのか?」

 トラは、ギャングのコートから出てきた短機関銃を、子どもからおもちゃを取り上げるようにヒョイと奪い取ってしまった。その顔面にブレーメンの素の力で拳が叩きつけられ、折れた鼻から血が飛び散り折れた歯が地面に散乱した。

「キエ、こっちだ。逃げるぞ。ところで空と地面とどちらが好きだ」

「え、ええ? 空、でしょうか」

「ならしっかり歯を噛んで。舌を噛まないように。空だけを見ているんだ」

 ニケは、キエの軽い体を腕だけで抱えると遊園地の外周の高い壁を飛び越えた。腕の中でキエは言葉にならない悲鳴を上げている。

 遊園地の壁のその向こうはなだらかな丘で真下には環状鉄道の線路があった。そしてちょうどやってきた電車の屋根に飛び乗った。風とスピードに負けないよう、しっかりと足を踏ん張った。はるか背後に遊園地が遠ざかっていく。そして電線の途切れたタイミングで線路へ降り立った。

「怪我はないか?」

「は、はい。ほとんど大丈夫です」

「ほとんど? どこか痛いところがあるのか?」

「いえ、そういうわけではありませんが」

 キエはもじもじとためらったが消え入る声で、少し漏れました、と告げた。

「くそっ、また敵だ」

 線路のメンテナンス通路から手に拳銃や短機関銃を手にした男たちが──数人女も混じっているが──這い出てくる。

「1桁区へ逃げるのは先読みされている」

「な、なら2桁区へ」

「たぶんそれも先回りされているかもしれない」

 敵の前線を突破するか敵の予想外なルートで逃げるか。取れる戦術は限られている。たかがヒト相手でもこちらは丸腰でキエも護らなくてはならない。前線突破は望み薄だった。

 ニケはもういちど、キエの体を抱えた。

「あの、ちょっと怖いので。ぎゅってしていいですか」

「ああ、ぎゅっとしているんだ。振り落とされないように」

 環状鉄道の高架から飛び降りるとキエを抱えたままブレーメンの健脚で街角を走った。ここは1桁区にほど近い2桁区の商業地区だったが、どこに敵がひそんでいるか想像できなかった。

「あれはただのギャングじゃない。たぶん分離主義者だ。連邦コモンウェルスのあちこちで破壊活動を行っている」

 ふいに蘇るこだまエコー──銃火、爆発、血のニオイ、血溜まりに沈む親しい先輩、その最期の言葉「たす……けて」

「後ろから怪しい人物が走ってきます! バイクと車も!」

 抱え上げられたキエが後ろを見て言った。

「ああ、わかってる。真正面もだ」

 日常の人々の動きじゃない。まっすぐこちらに走ってくる人影がある。待ち伏せなんかじゃない。至るところに分離主義者が潜んでいる。

 そう長く機転を考えてはいられない。ニケは踵を返してあたりを見渡した。ここは陸橋だった。下には運河を越えるために地上に出てくる地下鉄の線路がある。線路を走って逃げるか。いや、方向が限られるから追手からすれば好都合だ。しかし──。

「キエ、もう一度飛ぶぞ。歯を食いしばるんだ」

 三度目の飛翔だった。高速で通過する地下鉄の電車の屋根に着地すると、手を伸ばして片手でぶら下がり、開いている窓からキエを中へ押し込んだ。そしてニケも滑り込みぱちんと窓を閉じた。

 車両に他の乗客は1人だけだった。着ぶくれした婦人が目を皿のようにして見ている。

「お気になさらず。自分は軍人です」ニケは身分証を見せた。そしてにっこり笑うと「良い一日を」

 婦人は厄介事に巻き込まれまいと、隣の車両へ移動してしまった。都会に生きる人々の処世術だった。

「ニケさん、大丈夫ですか。顔色が悪いです。もしや、剣が無いまま戦ったせいで?」

「慣れているといっただろ。大丈夫だ。この5年間は剣なしでやってきたんだ」

「でも今回は銃もなしですよ」

「そうだな。それは認める。初めてづくしだ。丸腰でおうを護らなくちゃいけない」

「すみません。わたくしのせいで」

「その上 大量の分離主義者に嫌われているおうだ」

「はぅ、面目ありません。おうの責務を果たせないせいで」

「だが、な。キエは悪者じゃない。俺はキエが好きだから守るよ」

 ぽんぽん、とウィッグ越しにキエの頭を撫でてやった。

「いじわるなんですね」

「よく言われるよ」

 そう、シィナによく言われた。おうの情報がダダ漏れな現状、軍や警察を完全に信用し切ることができない。なんとかシィナに連絡がつけば心強いが、たしかあいつはまだパルを持っていない。

「あの、ニケさん。電車が駅に止まりませんよ」

「この列車は、快速か。次に止まるのは3駅先だ」

 駅名を確認した。すでに2桁区の半分まで来ている。次の停車駅は57区駅。その近くの警察署へ逃げ込めばまだ多少は楽かもしれない。

「ネネ、聞こえているか? 57区まで増援バックアップをよこしてくれ」

「あの、この通信機は地下では使えません」

「一番必要なところで、まったく。ネネは瞬間移動をしていたよな。俺も気づいたら3桁区から1桁区まで飛ばされていた。気持ちのいい体験ではないけど、今あれはできないのか?」

「ネネが言うにはいつでもどこでも使える術じゃないそうです。しかしなんとかネネに連絡できれば可能性があります」

「わかった。駅についたら公衆電話から連絡しよう」

 焦る心を無理矢理にでも抑えた。短く息を吸い、そして3回に分けて吐き出す。剣技比べのとき、初めての戦闘のとき、初めてテウヘルと対峙したとき、いつもそうやってきた。今回もそう。背後に守らなくれはならない命がある、初めての戦いだ。

 電車は次第に速度を落とし駅のホームに滑り込んだ。週末の昼間とあって乗客はそう多くない。

 扉が開きキエの手を握ってホームへ踏み出そうとした、が地上に続く階段から武装した男たちが降ってきた。武器を隠し持とうともせず、軍隊顔負けに自動小銃と手榴弾で武装していた。

「キエ、伏せろ!」

 武装ギャングはめちゃくちゃに発砲した。一般の乗客は逃げ、電車の窓ガラスは一斉に割れて頭上から振ってくる。ニケはキエに覆いかぶさりガラス片や貫通した弾丸から守ろうとした。戦い方が遊園地で遭遇したギャングと全く違う。

 ホームに滑り込んで間もないのに電車は発車してしまった。ゆっくりと動き出す電車に武装ギャングたちが飛び込んでくる。

 許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない

 ニケはすくっと予備動作なしに跳ね起きると、つり革を持って体を浮かし、突撃してきた武装ギャングの首を脚でつかみ列車の床に叩きつけたフライングレッグシザーズ。鈍い音をたてて頭蓋と首の骨がまとめてひしゃげた。

 もう1人 武装ギャングが閉じかけていた扉をこじ開けて侵入してきた。旧式な三一式ライフルを構えている。銃口が、武装ギャングの首をへし折って床に寝そべっているニケに向けられた。

 ニケは後ろ向きに跳ね起き銃口を蹴飛ばす───この至近距離でライフルは不向きだというのに。

 旧式のライフルだが操作方法は分かっている。素早く弾倉を引き抜いて無力化する。武装ギャングはナイフを向けたが、非力なヒトの力は簡単に受け止めることができた。そして上体を蹴飛ばすと割れた窓から吹っ飛び、地下トンネルの柱にぶつかってはるか後方へ消えた。

 ニケは1人目のギャングの死体をあさり民間用の自動拳銃を見つけた。

「くそ、こいつマガジンをひとつしか持っていない。さっきのやつの自動小銃、奪っておけばよかった」

 獲物を狩る達成感と武器を得た喜び。血が湧き心が躍る。口角が持ち上がって笑みが溢れるのを止められない。楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しい楽しいなぁ。

「ニケ!」

 リンの声───違う、キエだ。

「すまない。少しぼーとしていた」

「顔色が優れませんよ」

「あと2,3人ならやれる。問題ない」

「いざとなったらあたくしのことなんてほって逃げてください。わたくし、本当に代えなら効くんです」

「それは、あれか? 皇の体裁ってやつかそれとも何かの隠語か? たかが武装ギャング相手に諦めるなんてできない」

「厚い忠義もそう頑固だと考えものですね」

「よく言われるよ。ほら、怪我はないか? 先頭の車両へ行こう。列車のスピードが出すぎている。ギャングが操縦席にいるのかもしれない。すぐ近くの駅で止めないと」

 後方の車両にも侵入されたかもしれない。わからない。見えないし風が渦巻いていてヒトのニオイもわからない。

 ニケは時おり後ろを振り返りながら先頭車両を目指した。

 発砲の光が見える───同じ車両の反対側の出入り口。銃弾の弾道を目で捉えて避けたがブレーメンの力を酷使しすぎたせいで心臓がきりきりと痛い。応戦しつつキエを座席の陰に隠した。

 車両がトンネルに合わせて曲がったおかげで銃弾は車両の反対側の窓を粉砕しただけだった。

 敵はおそらく3人。互いに射線がかぶることも恐れずにバラバラに射撃を加えている。

 応射。1人の胸に確かな手応えがあった。敵が怯んだスキを見逃さず一気に駆けた。銃弾が見える──しかし1発だけかわしきれない。腹の肉が焼ける感覚。

 左側の武装ギャングに手刀を叩き込んで肘を逆向きに折り曲げた。ぼとり、と短機関銃が床に落ちる

 右側の武装ギャングにはこめかみに拳銃を当てて引き金を引いた。しかし装弾不良を起こした──これだから素人の武器はだめだ。

 ニケは拳銃を放り捨てると、ギャングの袖口と襟をつかんで背負投げ──肘が逆に曲がって悶ているギャングに覆いかぶさるように投げた。そして床に転がっていた短機関銃を拾って単射でとどめを刺した。

 折り重なる死体───3人分。死体から短機関銃の弾倉を2つ見つけてポケットにねじ込んだ。

「ニケ、大丈夫なのですか」

 先頭車両へ向かいながら、キエが不安そうに訊いてきた。

「短機関銃は軍警察のころ、警備任務でよく使っていた。三三式よりも馴染みがあるから大丈夫だ」

「そうじゃなくて。さっき戦えるのは3人って言ってましたよね。それにおなか! 血が出ています!」

「ん? ああ、知ってる」

「怪我しているじゃありませんか。血がこんなに」

「だがもう止まっているだろう。内臓や動脈には当たっていない。少し動きづらいだけだ」

「でも、痛いでしょう!」

「痛みは慣れている。ブレーメンの剣士の修練でできる生傷はこんなもんじゃない。キエ、信じてくれ。俺は──」

 手を伸ばそうとしたが、その手にべっとりと血がついているのに気が付いた。赤い血で自分のものかギャングのものかわからない。しかしキエはその手を包んでくれた。

「わかりました。信じます。でも死なないでください。お願いします」

「ああ、死ぬ気はないさ」

 先頭車両では乗客が慌てて逃げたであろう、手荷物やゴミが散乱していた。運転しているのは目出し帽をかぶったギャングだった。

 背中から撃つ卑怯さにニケがためらっていると、ギャングは両手を上げて降参のポーズを取った。

「とっとと出て行け」

 銃口で乗務員用の扉を示した。

「いま、走行中……」

「蹴落としてもいいんだぞ!」

 やや怒気を強めるとギャングはびくっと体を震わせて地下鉄のトンネルへ飛び降りた。

 ニケは慣れない電車の操作盤を一通り眺めたあとブレーキレバーに手をかけた。横方向に動かすようでブレーキの強さの尺度が順々に書かれていた。

「俺、そんなに怖かっただろうか」

「あなたの瞳、黄色に輝いているの。ブレーメンと戦おうなんて思わなかったのじゃないかしら」

「なるほど」

 ブレーキレバーをゆっくりと左へ回していくと耳が痛くなるような擦過音を立ててスピードが下がっていく。そして駅の光が見える位置で完全に停車した。

 ニケはキエをすっと抱え上げたが、

「わたくしは、走れますから!」

「あまり無理するな。膝が震えているのを見た。だが心配ない。もうすぐ帰れるさ」

 あてのない励ましだったが、キエはギュッとニケの首を抱きしめた。

 線路に飛び降りて駅へ向かった。事情を知らない乗客たちがホームから顔を乗り出して見ている。

 ニケは地上への階段を一気に駆け登った。トンネルはどこも落書きだらけで地上もまた落書きや破損したベンチなどが道路にそってあった。

「もう3桁区か。どこか公衆電話を」

 キエを抱えたまま走る。背中には負革で短機関銃がぶら下がっている。しかし道行く人々は静かにニケに道を譲った。マフィアの抗争やギャングの発砲騒ぎなど慣れているらしい。3桁区の住人たちはいち早く異変を感知し家に閉じこもってしまった。

 公衆電話があった。受話器を持ち上げコインを投入し、キエにつながる近衛兵隊の電話番号へかけた。

「くそ、早くつながってくれ」

 通りには人影がない。しかしいつ武装ギャングが現れてもおかしくない。そして遊園地で見たブレーメンらしい妙な刀傷。もし敵性ブレーメンに遭遇したら勝ち目なんて無い。

「くそ、剣を持ってくればよかった」

『───ほんと、そのようですね』

 ネネの落ち着いた、間延びした声だった。

「ネネ、あの術ですぐにここから助け出してくれ」

『そう言っても、転移術はそう都合のいい術じゃないですのよ。転移元と転移先の座標は妾が直接 足を運んだ場所でないと確定しませんの』

「なんとかできないのか」

『無理に転移させたら地殻に挟まるかはたまた宇宙を漂流するか』

「わかった。じゃあ増援は?」

 ニケは早口で公衆電話に書かれたの住所を告げた。

『最寄りの軍の基地までかなりありますわね。警察署も』

 するとキエが受話器に顔を近づけて叫んだ。

「ネネ、旧居住塔はどうでしょうか。あそこの見取り図は記憶・・にあります。あなたも足を運んだことがあるでしょう」

『あそこもギャングの縄張りですが、わかりました。そうするしかありませんねぇ。こちらから管理センターにアクセスできるか確認してみます。そうすれば座標が確定しますわ』

 ぷつん、電話が切れた。

「旧居住塔?」

「ええ、見えるでしょう。あの建物です」

 ニケは後ろを振り返った。以前も目にした黒くのっぺりした3つの塔があった。巨大すぎるせいか見えているのに目に入っていなかった。

「キョジュートー?」

「何です? その妙な発音は」 

「スラムの子供がそう言っていた」

「あなたが子供に好かれるなんて、意外でした。その、雰囲気が少し……」

「怖い? 昔からこういう顔なんだが」

 この近くまで迷子を届けに来たことがあるはずだったが、旧居住塔の巨大さゆえに市街地の地理は全く見当がつかなかった。それでもキエは迷うこと無く路地を抜けて旧居住塔へたどり着けた。

 まったく異様なサイズだった。周囲はレンガ造りのせいぜい5,6階建ての建物なのに旧居住塔は首が痛くなるほど見上げても頂上は見えなかった。建物の表面は劣化もせずひび割れもなかった。のっぺりとした黒い筒が天高く伸びている。

「でかい建物だな。ヒトはこんなのも作れるんだな」

「え? ええ、そうですね。科学技術の発達は素敵です」

 ──ごまかされている。

「で、さっき言っていた目的の場所はわかるのか?」

「ええ、大昔に住んでいた記憶・・があるのです。1号塔、2号塔、3号塔とあり、管理センターは1号塔の60階にあります。ふふ、なぜ分かるか知りたいですか」

「お前も実はネネと同じく500歳くらいだった、とか」

「ぶっぶー、はずれです。また機会があればお話しますね。いえ、お話しなくてはならないかもしれません」

 キエは迷うこと無く黒塗りの塔へ足を踏み入れた。

 出入り口の間口は広く、みすぼらしい格好のスラムの住人たちが行き来していた。銃を背負ったニケを一瞥しても反応は薄かった。それだけ武装したギャングが出入りするのが日常なのだろうか。

「こっちです」

 旧居住塔は内部が筒状で空洞だった。円形の壁にそって小さな間口がぎっしりと並び、空洞の内部は空中回廊が幾本いくほんも架けられ弧を描く反対側へ行くことができた。

 エレベーターに乗るかと思われたが、キエはそこを素通りし、サビだらけのゴンドラに乗り込んだ。ゴンドラの操作員が指をすり合わせたのでニケは手持ちの小銭を渡してやった。

「中層階までですね。エレベーターを使えばすぐに行けたのですが、もうすでに壊れてしまっているようです」

 ゴンドラがゆっくりと上昇した。

「残りは走るさ。キエは走れるか?」

「ええ。あと少しです。頑張りましょう」

 居住塔、というだけあって人が暮らすのに最低限のインフラはあるようだった。配管や電線が無秩序に増設され天井や足元を問わず走っている。

 円筒形の塔の、弧を描いて並ぶ部屋は、広めの独房を連想させた。それでも暮らしがあり子どもたちが欄干らんかんの低く危なっかしい通路を走って遊んでいた。

「ギャングの襲撃が収まった。縄張りとかそういうのがあるのかもしれないが、気をつけて進もう」

 上層へ続く階段は一定間隔で設けられていた。朽ちて登れない場合は走って次の階段を探す羽目になった。

「待て」

 2人は立ち止まった。屈強なギャング3人組が正面からまっすぐ歩いてくる。それぞれ自動小銃と拳銃を持っていた。武装した住人は何人か見かけていたがこの3人組だけは殺意がみなぎっていた。

「キエ、管理センターというのは」

「すぐ上の階です」

 キエに目配せ──覚悟はできているようだった。

 キエを抱えると欄干に足をかけた。すぐ背後で銃声が聞こえるが構うことはなかった。垂直に飛び上がり、上階の欄干をつかむと上へよじ登った。

「すぐに扉を開けます。少々お待ちを」

 他の居住区画とは違う、分厚い扉だった。キエが化粧板を外し配線を覗き込んだからそれが扉だとわかったが一見するとただの壁だった。

「キエ、姿勢を低く。ギャングが来ている」

 ニケは単発射撃で応戦した。牽制しつつ接近を許さない。敵の弾丸もすぐ近くの壁を跳弾している。

 照準を定め引き金を絞る。それなのに弾が当たらない。遠近感が失われ弾道の予測もできない。たかが軽機関銃一挺の重さと反動さえ支えられない。

「できました! 電力が来ていないので手動で油圧アクチュエーターを作動させます!」

 キエは壁の奥のコッキングレバーを引っ張ろうとしている。ニケもすぐに状況を察し手を貸してやった。色の禿げた黄色いコッキングレバーを何度か前後させると、1人分が通れるだけ扉が空いた。

 キエは素早く通り抜けるとホコリをかぶった操作パネルのひとつを迷わず操作した。

「何をしているんだ?」

「指令センターとの通信を確立しています。通信プロトコルを設定、よし。損傷している回線を迂回させて……」

 キエは口より早く手を動かしている。テレビ画面のようだったがそれは大きく色も鮮やかだった。平らな画面をなぞったり叩いたりしている。

「テレビに直接触って動かせるのか?」

「ええ、まあ」

 キエの返事は曖昧だった。

 ニケは狭く開いた扉から外を警戒した。内側から扉を閉じる手段は無いようだった。手榴弾を投げ込まれでもしたらと危険だが、しかしギャングの増援はなかった。この騒ぎで急いでうちへ逃げ帰るスラムの住人の姿が目の端に映るだけで静かなものだった。

『……ちら、中央司令室。どうぞ』

 ネネの声がスピーカーから聞こえた。

「ネネ、管理センターに着きました。早く転送を」

『わかりました。術を構築します。ただし、1回に1人ずつです。どちらを先に?』

「キエに決まっているだろう! 早く!」ニケが怒鳴った。キエもさすがにすくみあがった。「すまない、驚かせてしまった」

「いえ、そんなことはありません。後で王宮で会いましょう」

 するとキエの体がすぅっと薄くなってそして1秒も経たずに姿が完全に消えた。その光景に見とれていたが、

 ガツンッ!

 扉がきしみホコリが飛び散る。そして金庫のような分厚い扉が無理やりこじ開けられた。

獣人テウヘルだと!」

 赤い目、黒い体毛、鋭い爪。戦場で見たテウヘルだった。しかし身長はヒトの倍もあり通常のテウヘルよりもさらに一回り大きい。巨体にもかかわらず動きは俊敏で、狭い室内に体を潜り込ませてニケの前に対峙した。

 逃げる/待つ───そんな時間はどこにもない。銃の安全装置を解除し構えようとした。しかしそんな時間も許されず、全身に強い衝撃を受け動けなくなってしまった。

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