第13話 残酷な優しさ

「ねぇ、明日はピアノの生演奏があるんだって」と女の子が男の子に言った。

 病院の非常階段でラジオを二人で聴きながら過ごしている。もうすぐ離れなければいけない。

「あぁ、それ知ってる。なんか急に会えなくなった彼女に連絡したいって言ってて。その人がいつも弾いてた曲を演奏してもらうらしいよ」

「へぇ。その人…聞いてくれるかしらね」

「なんか反応があったらいいな」と男の子が言った。

 そして女の子はイヤフォンを外して返す。

「ラジオ買ってもらえそうなんだ。だから続きはベッドで聴ける」

「え? そうなんだ」

 もう一緒に聞くことはないのかな、と男の子は思った。

「ちょっと辛い治療が始まるから…ベッドからしばらく出られない」

「そっか。頑張って」

 ごく普通に返事をした。

「うん。ラジオ聞くから平気だよ」

 小さな声で頷く。そして二人はこっそり自分達のベッドに戻った。


 朝、目が覚めると桜は起き上がって、裏庭の縁側に出る。そして朝日に向かって手を合わせた。神棚がないので、太陽に手を合わせる。毎日やっていたことなので、やらないと気持ちが悪い。でも今日は特に、一樹がラジオで演奏するというので、「上手くいきますように」としっかりお願いをした。桜の運動会の日も朝から両親は手を合わせてくれたし、お弁当も作ってくれた。

「そうだ。おにぎり作ろう」と桜が縁側から戻ったら、一樹が降りて来ていた。

「何してたの?」と不思議そうな顔で聞いてくる。

「朝の挨拶を…」

「誰に?」

「いつもの習慣です。神棚がないので、お日様に。それに今日の演奏が上手くいきますようにってお願いしてました」と多少、得意げに言った。

「…お日様に頼らなくても、ちゃんとできるけど」と不満そうな顔を見せた。

「何事もなくってことです。一樹さんがどうこうじゃなくて」

 せっかく手を合わせたのに、と桜は頬を膨らませて、お米を研ごうとキッチンに向かった。

「なんか、年に似合わず古風だな」

「え?」 

「でもありがとう」

 いつもよりも柔らかく微笑む一樹に桜は少し胸が鳴った。

「パン焼こうか」と言って、桜の横を通り過ぎた。

 その後姿を見て、ピアノも弾けて、顔も良くて、優しい…。きっと奥さんは好きだったはずなのに、と思った。

「一樹さん…。今でも元カノ、好きですか?」

 振り向いて、「え? 嫌いになったことないけど…。今は幸せでいてくれたらいいなって思ってる」と答えた。

 桜はその答えを聞いて、動けなくなった。

「ん? どうかした?」

「あ、何でもないです。そう思えるのって…素敵だと思います」

 そう返したが、心が冷たくなるのを感じた。残酷だ、と桜は思った。彼の台詞から深い愛情を感じたからこそ、こんな人を愛そうとした一樹の妻の気持ちが痛い。ずっと彼女の服を着ているのに、なんの関心もなさそうな態度だったから、桜も初めは申し訳ないと思っていた気持ちが薄れた。でもここまで関心がないと、もし自分だったら…。

「耐えられない」と空気のような音で言った。だから他の人を好きになったのだろうか。

「パンにバター塗る?」

「え?」

「あれ? 顔色良くないけど…」

「あ…お腹空いたからかな」と誤魔化した。

「じゃあ、卵も焼こう。何がいい? 目玉焼き? スクランブルエッグ?」

 桜は答えられなくて、首を傾げて笑おうとしたけれど、できなかった。優しさがこんなに残酷なことだということに今、気がついた。

「どうかした?」

「…優しすぎて、辛いです」

 一樹は焦点の合わないような視線で桜を見た。だから桜は一樹の方にゆっくり歩いた。目の前まで来て、息を吸い込んで思い切り吐くと、勢い良く言った。

「もし私が『全部食べたいです。目玉焼きもスクランブルエッグも、甘い卵焼きも』って言ったら、全部作りますよね?」

「卵がある限りは…作るけど」

「そんなことしないで…。一樹さんが食べたいものを作ってください。あるいは作りたいものでもいいです」

「どういう…」

「それを私は食べたいです」

「だって、いつも希望をきいてくれるから…」

「一樹さん、私のこと、ハムスターだと思ってるんでしょ? だったら一樹さんが選んだ餌ください」

「何言って…」

「もっと好きにしたらいいんですって言ってるんです」

「何のこと言ってるの?」

「だから、何もかもです。人に親切になんかしなくて、好きにしたらいいんです」

 突然、桜が怒り出して、一樹は戸惑った。

「…何で怒ってるの?」

「怒ってません」

 怒ってる、怒ってないの言い合いは不毛だと思った一樹はため息をついた。

「…何か嫌なことをしたなら謝るけど」

 桜は唇を噛んで低く唸った。それで一樹は堪らず吹き出してしまう。

「笑わないでください。それとごめんなさい。怒ってました」と一気に言うので、一樹はまた笑った。

「悪い。ハムスター扱いして」

「してません。いっそしてください」

 そう言って、また頬を膨らませるから一樹は思わず、指で頬を軽くつついた。さらに頬が膨らんだ。

「で、結局、卵はどうしたらいいんだろう?」

「諦めないで考えてみてください」

「何が食べたいか? 考えるの? 目玉焼き?」と一樹が言うと、桜は鼻に皺を寄せた。

「ゆで卵?」

 首を横に振る。

「じゃあ、スクランブルエッグ?」

 顔を傾けて、考える様子を見せる。

「…甘い…卵焼き?」

 何度も頷く。結局、桜が食べたいものじゃないか、と一樹は思った。

「卵焼きは上手く作れない」

「じゃあ、私に任せてください」

 機嫌が直ったようでよかったけれど、少し面倒臭い、と一樹はため息をついた。そもそも何であんなに不機嫌になったのか結局分からない。

「一樹さんはピアノ練習しておいてください」とキッチンから追い出された。

 そのための喧嘩だったとしたら、やっぱり面倒臭いな、とキッチンを振り返ると、もうご機嫌な様子で卵を割る桜がいた。今日はまだハムスター扱いなんてしてないのにな、と一樹は首を傾げた。


 ピアノ練習を終えてダイニングに行くと、山盛りのおにぎりと、厚焼き卵サンドが置かれていた。

「…大食い競争でも始まるのかな」

「ラジオ局に持っていくんです。ご飯食べる時間ないと困るので」と大真面目に言うから一樹の視線は桜の顔とおにぎりを何度も往復した。

「これはスタッフの分もありそうな…」

「あ、差し入れできますか?」とまたキッチンに戻ろうとするから、量は十分だと告げた。

 朝ご飯も食べずにこれだけ作ったんだから、すっかりお腹空いていたらしく、桜は早速厚焼き卵サンドに齧り付いた。一樹はコーヒーを淹れようとキッチンに立とうと思ったが、せっかく食べ始めているので、一緒に食べることにした。何より、桜が食べている姿は癒しだったから見ておきたかった。美味しそうに食べている姿を見ているだけで、幸せになれる。せいぜい、あと二、三日くらいで怪我も良くなって、帰るだろうと一樹は遠慮もせずに見ていた。

「あの…、卵は甘いけど、美味しいですよ」とサンドイッチを差し出してきた。

「あ、うん」

 甘い卵焼きは少し食べるのに勇気がいる、と一樹は思った。それでも口に入れる。焼いたパンの香ばしさとマヨネーズの酸味で甘い卵焼きは苦手だけれど、それがあまり気にならなかった。

「美味しいですか?」

「うん」

「もっと、美味しいって言ってください」

「お、い、し、い」

「ちっとも美味しそうじゃないなぁ」と桜は肩を落とした。

 本当に面倒臭い、と一樹は思って、大口を開けてサンドイッチを食べた。桜がじっとそれを見て、にっこり笑った。

「一樹さんが食べるのってかわいいです」

 心底、嫌な気持ちになった。桜は嬉しそうに食べている。

「かわいいのは君の方だけど」

 驚いたように目が丸くなって、一樹を見る。サンドイッチを持ったまま固まっている。

 本当にハムスターのようだ。

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