夜をやりすごすために【不思議】

 今から行く。

 ひんやりとそっけないメールの文面を見返して、私はだるい体を起こし、暗いキッチンに立つ。冷たい床は靴下ごしでも私の体温を下げる。質素なキッチンの、冷たい床に立ち尽くして、今やらなければならないことを考える。

 冷凍庫を開けて、規則正しく並べて収納してある冷凍食品の端にあるジップロックの袋を取り出す。中身をじっと見つめる。薄く霜がついて、端のほうは冷凍焼けをしている。袋に書かれた黒いマジックの字が、自分の字ではないみたいに、はしゃいで見える。

【付き合い始めた日の気持ち】

 これを冷凍したあの日は、まさか食べる日が来るなんて思ってもいなかった。袋を開けて、薄い霜に覆われたそれをひとかけら、包丁でざくりと切り、白い皿に載せる。電子レンジで、500w30秒。解凍に適した温度も時間も身についてしまうほど繰り返し食べたこれは、もう残りが少ない。あの日は、袋が満タンになってもどんどん気持ちがあふれ出して保存しきれないほどだったのに、じわじわといつの間にか私は変わっていった。初めてこれを食べた日、取り返しが付かないことをし始めたと自覚はあった。もうあとには戻れない。わかっていて食べたのだ。知っていて食べたのだ。

 ちょうどいい温かさに解凍されたそれを、指でつまんで食べる。食べなれた味のそれは、咀嚼すると同時に軽やかな歓喜をもたらした。私はその歓喜を、目をとじてゆっくり堪能する。「今から行く」その言葉の響きが甘やかに口に広がり、胸の鼓動を速める。じんわりと体が温まる。鼻に抜ける香りを名残惜しく味わってから飲み込む。

「会いたい」

 やっとそう思えてから、私はジップロックをきっちり閉めて冷凍庫へしまう。残りの少なさは、見て見ぬふりをする。

 チャイムが鳴り、彼が来る。私は少女のように玄関へ駆け出し、出迎える。

「久しぶりね」

「先週も会っただろう?」

「一週間も待ちきれないわ」

 静かな夜気とともに家に入ってくる彼のコートを受け取って、コートラックに掛ける。好きな人の香りをまとったそれは、幸福の象徴のように見えた。

 宅配サービスでイタリアンを注文する。

「パスタとピザは半分ずつ食べよう」

 そんな言葉にさえ、私の頬は蒸気した。好きな人と同じものを食べて、同じもので体が構成されていく。もちもちのパスタや、香り高いチーズや、新鮮なバジルが、私とこの人の血や肉を作り、芳醇なワインが、25度のアルコールが、じっくり寝かされた手間暇が、私とこの人の夜を深く彩る。そう思うと、メニューを選ぶ時間さえかけがえのない素晴らしい時間に思えるのだ。

 サブスクリプションで映画を選びながら、食事が届くのを待つ。

「この映画、もう見た?」

 彼が選んだのは、私の好きな監督の作品だった。私は、サブスクリプションが解禁された日に見ていた。どうして一人で先に見てしまったのだろう。

「ごめん、もう見ちゃった」

「謝ることなんてないよ。僕はまだ見ていないんだけど、これから見てもいいかな?」

「もちろんよ。ネタバレしないように黙っているわ」

「ネタバレしちゃったら、おしおきだな」

 息がかかるほどの距離で交わす些細な会話が、くすぐったくて気持ち良い。こういう小さな喜びの積み重ねが、未来への期待を作る。彼の肩にもたれながら、私は手足がぬくぬくと温まるのを感じている。何の心配もない。この人さえいてくれれば何も怖くない。一寸先の闇も、うなされる悪夢も、子供の頃の悲しい記憶でさえ、この人と一緒なら怖くない。今の私は、無敵だ。

 映画を見ながら届いたパスタやピザを食べる。宅配サービスの評価通り、どれも美味しくてとても満足した。魚介類の味が濃厚で味わい深かった。また注文したいと思った。映画は二度目でもおもしろかった。喉を滑り降りるワインはクセがなくて飲みやすい。彼はいつも美味しいワインを間違えない。薄いグラスに這う彼の唇が、ゆっくり近づいて私の唇と重なる。ワインの香りを残した彼の舌が私の脳を溶かす。そのまま二人でベッドへ移動した。

 私の肌を撫でる優しい手に、ほんの一瞬の微かな違和を覚えた。体が喜びに打ち震えている途中だったから、ほんの微かな違和でも私の中で唐突に目立ってしまった。白い壁に一滴だけ飛んだ墨汁の染み。大して不快ではない。でも、歓迎はしていない。高揚していた体の熱が一気に冷えていく。無我夢中になって相手の体にしがみついていたはずの私は、もうそこにはいなかった。

(食べる量が少なかったのかもしれない)

 そのあと、苦痛ではないけれど心地よくもない時間を過ごし、私は彼を玄関まで見送った。

「また連絡する」

 そういう彼に、軽く手をあげて応える。

「気を付けてね」

 夜は濃い群青色に更けて、床は冷たさを増していた。


 たまにはうちに来ない?

 翌週、彼からのメールを見て、私はソファに沈み込んだ。格安家具メーカーのクッション性は、私の億劫な気持ちを沈ませるには十分だった。ずぶずぶと沼にはまるような重い体をなんとか持ち上げて、どうにか立ち上がる。憂鬱にも似た気持ちを持て余しながらキッチンへ向かう。冷凍庫を開けて、すっかり見慣れたジップロックを持ち上げる。残りは、あと数回分しかないだろう。先週の時間切れを考えたら、もっと少ないかもしれない。せめて会っている時間くらいはもってほしい。効果の時間を考えると、彼の家に入る直前に食べたほうがいいだろう。私は、霜に覆われて硬く冷えたそれを、先週より少し大きめに切って、丁寧にラップに包んだ。彼の家に着くまでに、自然解凍されるだろう。ほどよい温かさはないけれど、効果に影響するだろうか。もしかしたら、冷たいほうが消化に時間がかかって効果が長引くかもしれない。なるべく良いほうへ期待する気持ちを俯瞰で眺めて、誰の、何のためにやっているのだろうか、と疑問に思う。そうまでして関係を絶てないのは、どうしてだろう。はがれかかったマニュキュアを塗りなおし、最近買ったコートを着る。あの頃使っていた香水を使うまでの気持ちには、なれなかった。

「いらっしゃい」

 彼のマンションにつくと、いつも通りの優しい笑顔で出迎えてくれる。

「遅くなってごめんね」

 さっきまで私は、最寄り駅で開催されていた北海道物産展をのぞいて、ぶらぶらと時間をつぶしていた。焦れるような気持ちと、このままひとりで過ごしたい気持ちの両方を抱えながら、ただ時間が過ぎるのを待った。あれがなかなか自然解凍されなかったからだ。凍ったままでは硬くて食べられない。せめて半解凍にしてから、噛み締めて味わいたかった。

「大丈夫だよ。さあ、入って」

 彼に促されて部屋に入る。暖かい室内は整頓されていて、清潔で明るくて居心地がいい。半解凍でシャーベット状になったあれは、冷たくはあったけれど、効果は変わらないようだ。その証拠に今の私は、輝くような歓喜が体中に満ちている。

 北海道物産展で時間をつぶしている間、何も買わないのは悪いと思って、食後のデザートにでもなれば、と北海道ミルクアイスを買った。寒い季節に暖かい部屋で食べるアイスは背徳的で美味しい。彼が宅配サービスの食事メニューを見始めて、私はアイスを冷凍庫にしまおうとキッチンへ行った。

 普段からあまり料理をしない彼の冷凍庫は、ほとんどものが入っていなかった。お酒用の氷と、冷凍食品が少し。あと、見慣れない大きなタッパーが入っている。このタッパーには何が入っているのだろう、と思った時点で、もうほとんど答えはわかっている気がした。だから、タッパーを持ち上げる手が震えた。冷凍庫の冷気だけではなく、指が冷えた。大きなタッパーを開けると、冷凍焼けして霜に覆われた何かが入っていた。残り少ないところを見ると、繰り返し食べていたと予測できる。そこには、几帳面な彼の字でメモがついている。

【出会った日の気持ち】

 ああ。声にならない息が漏れた。冷気が喉から滑り込み、体中を冷やしていく。

 私たちは、私とあの人は、もうとっくに終わっていたんだ。

 不思議と、驚かなかった。とっくにわかっていたような気さえした。アイスを冷凍庫に入れて、アイスを持ってきた袋に彼のタッパーを入れた。そのまま、玄関へ向かって、振り返らずに部屋を出た。マンションのエントランスを速足に出て、そのまま駅と反対方向へ歩いた。頬を濡らすぬるい涙を冬の夜気が冷やす。途中に川があったから、彼のタッパーの中身を橋の上から川へ捨てた。凍っていたそれは、水面に一瞬だけ波紋を作り、音もなく溶けてなくなった。悲しくないと言ったら嘘だった。

 家に帰って、冷凍庫を開けて、ジップロックで霜まみれになった残り少ないそれをシンクの排水溝に捨てた。食器棚からグラスを取り出す。透明の、何の飾りもない質素なグラス。それに水を入れて一口飲む。何もなくて良かったのに、特別なことなんて何も望んでいなかったのに、どうしてこんなことになったのだろう。

 私はまた冷凍庫を開ける。こんな日なんて来ないと思っていたのに、これを食べる日がいよいよ来てしまった。私は通信販売で購入しておいたものを取り出す。パッケージが淡い青色で、きれいだと思った。

【さよならに耐えられる夜】

 箱を開けて、薄く霜に覆われたそれを、私は真っ白い皿に載せて電子レンジに入れた。




【おわり】

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