猫【不思議】

 目を開けると、目の前にずいぶんと大きな草が生えていた。朝露に濡れて光っている。見上げた空は、ずいぶんと遠く高い。

 ちょっと寒いな、と思ったら服を着ていない。体が濡れて嫌な気分だ。私は自分の体を見下ろす。そこには、雨に濡れて汚れた、薄灰色の毛があった。

 もしかして、もしかして。

 私は自分の体をよくよく見まわす。体中は毛で覆われている。手には鋭い爪と肉球。振り向くと、細く長いしっぽ。やっぱり……願いが叶った!


 人間だった私は、余命が告げられてから、生まれ変わりのことだけを願っていた。治療法がないことはわかっていたし、病気がもう良くならないことは理解していた。だから、死んだら猫に生まれ変わりたい。それだけを強く強く願いながら、私は死んだのだ。人間だったときの私は、ちゃんと徳を積んでいたのだろうか。願いを叶えてもらえるような、善い行いをしていたのだろうか。

 ともかく、願いは叶った。私は、猫になった。灰色の小さな子猫になった。あとは、あの人に拾ってもらうのを待つだけだ。

 私の願いは、猫に生まれ変わることだけではなかった。猫に生まれ変わって、夫に拾われたい。愛情をいっぱい注いでもらいながら飼われたい。人間の私は、闘病しながらひたすらそれだけを願っていたのだ。猫になって思う存分かわいがってもらいでもしないと、割に合わない。若くして病気になって死ぬのだから、来世くらい、猫にでもなって溺愛されないとおかしい。おじいちゃんおばあちゃんになって二人ともヨボヨボになっても、夫と一緒に仲良く過ごすはずだったのだから。それを途中であきらめなきゃいけなかったのだ。生まれ変わりくらい、許してほしい。

猫にはなった。あとは、夫に出会わなければ。


 それにしても、ここはどこだろう。見覚えのない場所だ。

「あれ、子猫だ」

 聞き覚えのある声に、私は顔をあげた。夫だ! 出会えたのだ。ジョギングに行くような服を着ているということは、今日は土曜日か日曜日。

 あなた! 私よ。拾って! 飼って!

 私は一生懸命訴える。もちろん、言葉は話せない。ピーピーというような子猫特有の小さな鳴き声しかでない。それでも、私はなんとか夫に拾われたかった。

「どうした、お前。お母さんは?」

 猫のお母さんがどこにいるかは、わからない。人間のお母さんなら、横浜の実家にいるわ。

 ピーピー、ピーピー。

「昨日の雨で濡れたんだな。かわいそうに。一緒に帰るか?」

 夫は私を持ち上げて、腕にすっぽり抱えて歩き出した。私は、あまりの安堵に泣きそうになった。そうだ。ここはこんなにも温かく、安心できるところだった。この人の腕に抱かれていれば、怖いことは何もなかった。思い出して嬉しくなる。自然と喉がゴロゴロと鳴った。夫が顎の下を撫でてくれる。ああ、願いが叶った。私は猫に生まれ変わって、夫に出会えたのだ。


 夫の家は、私と暮らしていた家ではなかった。知らないマンションだった。二人で住んでいた家はどうしたのだろう。

「ずいぶん汚れているな」

 夫が濡れたタオルで体を拭いてくれる。私は灰色の猫ではなく、白い猫になった。

「お前、白猫だったのか」

 夫が笑った。一緒に暮らしていたときより、少し老けた気がする。白髪が増えている。私が死んで、お葬式とかお墓のこととかやらなきゃいけなくて大変だったのだろう。心労かけてごめんね。白猫になった私は精一杯夫に感謝を伝えるために、喉をゴロゴロ鳴らし、すりすりと頭をすりよせた。

 リビングのカレンダーを見て驚いたことに、私が死んでから五年も経っていた。生まれ変わるにはそのくらいかかるのだろうか。それなら、夫が老けていたのもうなずける。私が死んで、職場の近くのこのマンションに引っ越してきたらしい。小さなマンションだけれど、都内の一人暮らしならこんなものかもしれない。私が生きていたときより部屋はきれいだった。私は片付けるのが苦手で夫はきれい好きだから、こうなるのは当然かもしれない。

 夫は私を動物病院に連れていった。血液検査のための血をとられ、ノミの薬を首に塗られる。採血の針が痛くて、思わず「シャッ」と声がでる。動物病院の先生と夫が一緒になって笑った。

「こんなに小さいのに、一丁前に威嚇しましたね」

「あはは。かわいいですね」

 痛かったのに、と文句を言いたいけれど、言葉は話せない。ピーピーと鳴く私の声が診察室に響いた。


 夫と家に帰って、私は小さな段ボール箱に入れられた。

「ちょっとここで待っててね。ごはんとか、トイレとか買ってくるから」

 そうか。私は猫だから、キャットフードを食べるのか。

「じゃあ、いい子にしていてね」

 夫は出かけていった。タオルの敷かれた段ボール箱は、狭くて温かくて妙に居心地が良く、私は丸くなって寝た。

 子猫用のウェットフードは信じられないほど美味しかった。夫がパウチを開けた瞬間から芳しい香りが溢れてきて、思わず駆け寄ってピーピー鳴いた。夫に「はいはい」とたしなめられながら、がつがつ食べた。砂のトイレで用を足すことにも違和感はなかった。砂を掘れば自然と尿意や便意を感じた。

 夫は部屋の棚に人間のときの私の写真を飾っていた。猫の私を写真の私に見せながら「猫を飼うことになったよ。かわいいだろう?」などと話しかけていた。私は「ピーピー鳴くからピーちゃん」という安直な名前を付けられて、夫にかわいがられた。


 夫との暮らしは文句なしに最高だった。ペット見守りカメラで仕事中も私のことを監視しているらしく、部屋には小さなカメラが置かれた。私は夫が心配しないように、ちゃんとごはんを食べ、トイレをし、水を飲み、いたずらはほどほどにした。夜は夫のベッドにもぐりこんで寝た。懐かしい夫の匂いに包まれて、私は熟睡した。

 ただ、夫はときどき、元気のない日があった。それは決まって同じ日にちだった。それが人間の私の月命日だと気付いたのは、ずいぶんあとになってからだ。人間の私の月命日のたびに、夫はいつもより少し多めにお酒を飲み、あああ、と小さく唸るような声を出して、ため息をついた。猫の私には何もできることはなく、ゴロゴロと喉を鳴らしながら足元にすり寄るしかできなかった。夫は私を抱き上げて膝の上に乗せる。それでも、猫の私にできることはなかった。


 猫になってから五年が経った。つまり、人間の私が死んでから十年。私はすくすくと成長し、立派な成猫になった。真っ白い自慢の毛は少し長めで、夫はよくブラシをしてくれる。夫は、人間の私の写真に話しかける頻度が減ったように思う。月命日に、途方にくれるようにお酒を飲むことも減った。猫の私がそばにいるから、癒しの効果があるのかもしれない。猫の私は小言も言わないし、部屋を散らかしたりもしない。

 そんなある休日、夫が家に誰かを連れて来た。そんなことは初めてだったから、私はソファの下に隠れて様子を伺った。夫のあとに部屋に入ってきたのは、なんと、若い女だった。

「散らかっているけど、ごめんね」

「いえ、きれいにしていますね」

 誰だ。その女は誰だ。

 私はソファの下から出て、シャア! っと威嚇した。

「ああ、ピーちゃん、ごめんね。おとなしくしててね」

 何がおとなしくしてて、だ。私がいるのに、女を連れてくるなんて、どういうつもりだ。

「ピーちゃんっていうんですか? かわいいですね」

 女が馴れ馴れしく笑いかけてくる。

「子猫のとき、ピーピー鳴いていたからピーちゃんって名前にしたんだけど、もうピーピー鳴かなくなって、普通にニャーニャー言うようになったんだ」

「ふふふ。おかしいですね」

 夫と女は顔を見合わせて笑った。何もおかしいことなんかないじゃないか。私は女の手を思い切りひっかいた。

「痛っ」

「ああ、ごめんね。大丈夫? ピーちゃん、だめでしょう。普段はおとなしい子なのに」

「嫌われちゃいましたね」

「ごめんね」

 二人は私のことなどお構いなしに、コーヒーを飲み、テイクアウトで買ってきたらしいピザを食べている。良い匂いに刺激されて、私もお腹が空いてカリカリのキャットフードを食べる。キャットフードは美味しいけれど、すっかりピザの味を忘れていることに気付いて、私は何とも言えない惨めな気持ちになった。

 腹いせに、女の鞄で爪とぎをしてやる。

「ああ、ピーちゃんだめだよ」

 ピーちゃんじゃない。私は……誰だっただろうか。猫になって五年、私は人間のときの名前を忘れていた。どうしようもなく悲しくなって、女の羽織ってきたショールにオシッコをしてやった。猫のオシッコは臭いぞ。ざまあみろ。

「今日は、なんかごめんね」

「いえ、こっちこそ、猫ちゃんを驚かせちゃって、悪いことしちゃいましたね」

「もしよかったら、懲りずにまた来てね」

 夫は女の機嫌を取るように言った。女は、もう来ないだろう。そういう顔をしていた。これでいい。これでいいのだ。夫は私のものなのだから。


 女が帰ってから、夫はため息をついて一人でお酒を飲んだ。私はゴロゴロと喉を鳴らして夫に甘える。

「ピーちゃん、今日はどうしちゃったんだ。そんなに彼女のことが気に食わなかったのか?」

 ええ、そうよ。嫌いよ、あんな女。大嫌い。私がいれば、それでいいでしょう? 

夫は黙ってお酒を飲み、大きくため息をついた。私のことは変わらずに撫でてくれたけれど、表情は冴えず、落ち込んでいる様子だった。私がどんなに甘えても、ゴロゴロ鳴いても、まったく笑わなかった。

私はいつもと変わらず夫のベッドにもぐりこんだけれど、寂しい気持ちが胸を圧迫してどうしようもなかった。猫になって五年、夫にかわいがってもらった。大切な家族として一緒に過ごしてきた。それでも、私がただの猫であることにかわりはない。


 私はこっそり夫のベッドから抜け出して、夫のスマートフォンをさわる。猫の肉球は画面を操作できる。あの女のLINE画面を開き、通話を押す。呼び出し音が鳴る。

【……はい】

 あの女の声だ。

【もしもし?】

 私はしゃべれない。

【もしもーし……電波悪いのかな】

 通話が切れる。すぐに折り返しの着信があった。私は夫の顔をなめ、前足で叩き、なんとか起こす。

「ピーちゃん? どうしたの?」

 ヴーヴーとスマートフォンのバイブが鳴っている。

「あれ、電話だ。もしもし?」

 夫が電話にでる。

【あの、今電話しました?】

「いや、寝ていたけど」

【あ、すみません。起こしちゃいましたね】

「いや、いいんだ。こっちから着信があったの?」

【はい。何も聞こえなかったので、電波悪いのかなって思ってかけ直したんです】

「もしかしたら、ピーちゃんがかけたのかも」

【え? 猫って電話かけられるんですか?】

「スマホって肉球感知するんだよ」

【ピーちゃん、すごい賢いですね】

「そうなんだ。賢くていい子だよ。もしかしたら、君に謝りたかったのかもしれないね」

 夫が、やっと、やっと笑った。

 私は夫が電話をしている寝室を出て、リビングのソファに丸まった。じっと丸まっていたら、どうしようもない感情が溢れてきて、ひとりで泣いた。涙は出ないけれど、思い切り泣いた。どうしようもなかった。夫の楽し気な声が、蒸し暑い七月の夜気に溶けていった。



【おわり】

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